6話 将軍閣下からの公文書が届きました──内容は視察申請です
薬草の取引が始まって、2週間が経った。
村は目に見えて変わり始めていた。
最初の出荷分——100束の青嶺草が、バルトハイムのクラウゼン公国側の商館に納品された。代金は銀貨180枚。村人たちの年収の数倍が、一度の取引で入ってきた計算になる。
「嘘だろ……」
代金を受け取った村人の手が震えていた。
エリーゼは薬草の収穫チームを組織し、品質管理の基準を作り、出荷スケジュールを策定した。フィンが収穫量の記録を担当している。数字がきれいに並んだ帳簿を見て、エリーゼは思わず「美しい」と呟いてしまった。
(……あれ。最近どこかで同じ台詞を聞いた気がする)
気のせいだ。たぶん。
そんなある朝のこと。
「ねえちゃん、手紙が届いてるよ」
フィンが領主館に駆け込んできた。手には封蝋で封をされた書簡。
蝋印を確認する。獅子と剣の紋章。
クラウゼン公国。将軍府。
「…………」
封を切る。中から出てきたのは、一枚の公文書だった。
『エルデ領領主 エリーゼ・ヴァイスフェルト殿
下記の通り、貴領への視察を申請する。
訪問日時:来週水曜日 午前10時
随行人数:5名(本官含む)
視察目的:国境地帯の安全保障に関する現地調査
なお、本書には公印を押印済みである。
クラウゼン公国軍将軍 ヴォルフガング・ゼルスト』
完璧だった。
エリーゼが言った通りの書式。訪問日時、随行人数、視察目的、公印。一つも漏れがない。
「……きちんと書式を守ってくださるとは」
口元が緩んだ。
「好感が持てます」
「ねえちゃん、誰から?」
「クラウゼン公国の将軍閣下から。視察に来るそうです」
「将軍? あの国境の街にいたっていう、でっかい人?」
「ええ。でっかい人です」
「なんで将軍がうちの村なんかに?」
エリーゼは書簡をもう一度読んだ。
「国境地帯の安全保障に関する現地調査」。
(……どう見ても、薬草の取引視察だろうけど。律儀に名目を用意してくるあたり、真面目な人だ)
「フィン、村の清掃を手配して。あと、マルグリットさんに食事の用意をお願いしたい。5名分」
「了解。ねえちゃん、料理はしないでね?」
「しません」
「約束だよ?」
「……しませんってば」
水曜日。午前10時。
ヴォルフガング・ゼルストは、時間通りに現れた。
随行は4名。クルト副官と護衛兵3名。最小限の編成だ。将軍の視察にしては軽装だが、おそらく意図的だろう。大人数で辺境の小さな村に乗り込めば、住民を怯えさせる。
(そこまで配慮できる人なんだ)
「ようこそ、エルデ領へ。お待ちしておりました」
「時間通りだな」
「閣下も」
「当然だ。書面に記載した時刻だ」
(書面に書いた時刻を1分も違わず守る人、前世でも今世でも初めて見た)
エリーゼは村を案内した。
薬草の乾燥小屋。新しく整備した帳簿管理室。フィンが記録をつけている収穫台帳。
ヴォルフは黙って視察した。質問は少ないが、目は細部を見ている。軍人の観察眼だ。
壊れかけの水路の前で、ヴォルフが足を止めた。
「この水路は使われていないのか」
「はい。前領主の時代に放置されて、崩落しています。修復すれば山からの水を村まで引けるのですが、人手と資材が足りません」
ヴォルフが水路の石組みをじっと見つめた。
しゃがみ込んで、崩れた部分の石を手で触る。
「……石積みの基礎は生きている。上部を組み直せば使える」
「おわかりになるんですか」
「築城と原理は同じだ。水を通すか敵を防ぐかの違いでしかない」
(軍事築城の知識が、土木に転用できる……。なるほど)
「閣下、少しお待ちください」
エリーゼは鞄から羊皮紙を取り出し、その場で水路の略図を描き始めた。
「この水路、元の設計では山の湧き水を北側から引き込んでいたようですが、崩落箇所を避けて西側に迂回させれば、工期を半分にできるかもしれません」
ヴォルフが略図を覗き込んだ。
「……西側は傾斜がきつい。水の流速が上がりすぎる」
「では、途中に調整池を設ければ? 流速を落として、かつ渇水期の貯水にもなります」
「調整池……」
ヴォルフが略図の上に指を置いた。大きな指だった。
「ここだ。この平坦部に池を掘れば、自然の勾配で水が流れる」
「その位置なら、村の畑への分水も容易ですね」
二人で図面を覗き込んでいた。頭と頭の距離が近い。
エリーゼの髪が、ヴォルフの鎧に触れた。
一瞬、二人とも動きが止まった。
「……失礼」
「いや」
何事もなかったように、エリーゼは略図に書き込みを続けた。耳が少し熱い気がするのは、日差しのせいだ。きっとそうだ。
ヴォルフが立ち上がった。
「兵を10人、出そう」
「え?」
「工兵を送る。水路の修復に当たらせる」
エリーゼは一瞬、言葉に詰まった。
「……閣下、それは隣国への援助になります。政治的に問題が——」
「国境地帯の安定は我が国の利益でもある。辺境が荒廃すれば、治安が悪化し、我が国との交易にも支障が出る。これは借りではなく投資だ」
淡々とした口調だった。感情を挟まない、純粋な利害の計算。
でも——エリーゼにはわかった。
この人は本気で辺境の村のことを考えている。自国の利益という建前を使っているが、根っこにあるのは「困っている人がいるなら助ける」という感覚だ。
(この人、内政の感覚がある。武人だけど、領民の生活を見ている)
「……ありがとうございます。お言葉に甘えます。ただし、作業記録と費用の明細は、こちらで管理させてください。将来的に清算できるように」
「好きにしろ」
クルトが後ろで、にやにや笑っていた。
(副官殿、さっきから何がそんなに楽しいんですか)
夕方。村で食事を取ることになった。
マルグリットが腕を振るった。黒パン、根菜のスープ、焼いた鶏肉、チーズ。辺境の村としては精一杯のもてなしだ。
「質素ですみません。まだ食材の調達ルートが——」
「構わない」
ヴォルフが黙って食べ始めた。
一口。二口。三口。
表情は変わらない。美味いのか不味いのかもわからない。
でも、食べ方は丁寧だった。パンはちぎって食べるし、スープは音を立てない。鶏肉の骨は皿の端にきちんと揃えている。
(……軍人だから粗野に食べると思っていた。ごめんなさい)
全部食べた。皿が空になった。
「……悪くない村だ」
それだけ言った。
「お口に合いましたか」
「ああ。特にスープがいい」
マルグリットが嬉しそうに笑った。
「おかわりあるよ。遠慮しなさんな」
「……いただく」
将軍がおかわりを受け取る姿は、どことなく照れているように見えた。いや、あの無表情から照れを読み取るのは深読みしすぎだろうか。
マルグリットが腕を組んで頷いた。
「あんた、無愛想だけど、悪い人じゃなさそうだね」
「…………」
ヴォルフが返答に困っている。
(将軍閣下が、村のおばちゃんに気圧されている……)
食後、エリーゼは取引の経過報告書をヴォルフに手渡した。
「初月の出荷実績と、来月以降の供給見込みです。品質検査の結果も添付しています」
ヴォルフがページをめくる。
「……よくまとまっている」
「ありがとうございます」
「うちの財務官にも見せたい出来だ」
「過分なお言葉です」
「過分ではない。事実だ」
また、あの感覚。
褒められているのに、なぜか胸がざわつく。
この人の言葉には裏がない。お世辞もない。思ったことをそのまま言っている。だから、重い。
(慣れていないだけだ。褒められることに。……そう、それだけ)
日が暮れて、ヴォルフ一行が帰路につく。
領主館の入り口まで見送りに出たとき——それは起きた。
ハンコが、どこからともなく現れた。
三毛猫は迷いのない足取りで、まっすぐヴォルフに向かっていった。
そして——ヴォルフの足に、すりすりと体を擦りつけた。
「……っ」
ヴォルフの目が、微かに潤んだ。
鼻をすする音。
「閣下? 大丈夫ですか?」
「問題ない」
くしゃみ。
「あの、もしかして猫が——」
「問題ない」
くしゃみ。くしゃみ。
ハンコがさらに足に擦り寄る。ヴォルフの目から涙が滲んでいる。明らかに問題がある。
「閣下、猫アレルギーですか」
「…………」
沈黙は肯定だった。
「ハンコ、だめ。離れなさい」
エリーゼがハンコを抱き上げようとした。
ハンコが逃げた。ヴォルフの足の甲の上に座り込んで、動かない。
なぜかこの猫は、ヴォルフが気に入ったらしい。
クルトが声を殺して笑っている。護衛兵たちも肩が震えている。
ヴォルフが赤い目のまま、じっとハンコを見下ろした。
「……名前は」
「ハンコです」
「……なぜハンコだ」
「決裁印がないと何も始まらないので」
ヴォルフが一瞬、きょとんとした。
それから——くしゃみをした。
「……帰る」
「お大事になさってください」
ヴォルフが馬に乗る。ハンコがにゃあと鳴いた。見送っているのか、引き留めているのか。
一行が去っていく。銀色の髪が、夕暮れの中で遠ざかっていく。
クルトが最後に振り返って、エリーゼに軽く手を挙げた。その顔は、満面の笑みだった。
(……副官殿、何がそんなに面白いんだろう)
マルグリットが横に並んだ。
「いい男じゃないか」
「有能な方です。水路の修復に工兵を出してくれるそうです」
「あたしが言ってるのは仕事の話じゃないよ」
「他にどんな話が?」
マルグリットが深い溜息をついた。
フィンが領主館から顔を出した。
「ねえちゃん、あの将軍、また来るの?」
「さあ。用があれば来るんじゃないかしら」
「絶対来るよ」
「なぜ?」
「だって、帰りぎわに振り返ってた。3回」
エリーゼは何も答えなかった。
ただ、懐から視察申請書を取り出して、もう一度読んだ。
整った文字。過不足のない文面。律儀に押された公印。
(……いい書類だ)
そう思って、丁寧に書棚にしまった。
捨てるつもりは、なかった。




