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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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6/20

6話 将軍閣下からの公文書が届きました──内容は視察申請です

 薬草の取引が始まって、2週間が経った。


 村は目に見えて変わり始めていた。


 最初の出荷分——100束の青嶺草が、バルトハイムのクラウゼン公国側の商館に納品された。代金は銀貨180枚。村人たちの年収の数倍が、一度の取引で入ってきた計算になる。


「嘘だろ……」


 代金を受け取った村人の手が震えていた。


 エリーゼは薬草の収穫チームを組織し、品質管理の基準を作り、出荷スケジュールを策定した。フィンが収穫量の記録を担当している。数字がきれいに並んだ帳簿を見て、エリーゼは思わず「美しい」と呟いてしまった。


 (……あれ。最近どこかで同じ台詞を聞いた気がする)


 気のせいだ。たぶん。


 そんなある朝のこと。


「ねえちゃん、手紙が届いてるよ」


 フィンが領主館に駆け込んできた。手には封蝋で封をされた書簡。


 蝋印を確認する。獅子と剣の紋章。


 クラウゼン公国。将軍府。


「…………」


 封を切る。中から出てきたのは、一枚の公文書だった。


『エルデ領領主 エリーゼ・ヴァイスフェルト殿


 下記の通り、貴領への視察を申請する。


 訪問日時:来週水曜日 午前10時

 随行人数:5名(本官含む)

 視察目的:国境地帯の安全保障に関する現地調査

 

 なお、本書には公印を押印済みである。


 クラウゼン公国軍将軍 ヴォルフガング・ゼルスト』


 完璧だった。


 エリーゼが言った通りの書式。訪問日時、随行人数、視察目的、公印。一つも漏れがない。


「……きちんと書式を守ってくださるとは」


 口元が緩んだ。


「好感が持てます」


「ねえちゃん、誰から?」


「クラウゼン公国の将軍閣下から。視察に来るそうです」


「将軍? あの国境の街にいたっていう、でっかい人?」


「ええ。でっかい人です」


「なんで将軍がうちの村なんかに?」


 エリーゼは書簡をもう一度読んだ。


 「国境地帯の安全保障に関する現地調査」。


 (……どう見ても、薬草の取引視察だろうけど。律儀に名目を用意してくるあたり、真面目な人だ)


「フィン、村の清掃を手配して。あと、マルグリットさんに食事の用意をお願いしたい。5名分」


「了解。ねえちゃん、料理はしないでね?」


「しません」


「約束だよ?」


「……しませんってば」



 水曜日。午前10時。


 ヴォルフガング・ゼルストは、時間通りに現れた。


 随行は4名。クルト副官と護衛兵3名。最小限の編成だ。将軍の視察にしては軽装だが、おそらく意図的だろう。大人数で辺境の小さな村に乗り込めば、住民を怯えさせる。


 (そこまで配慮できる人なんだ)


「ようこそ、エルデ領へ。お待ちしておりました」


「時間通りだな」


「閣下も」


「当然だ。書面に記載した時刻だ」


 (書面に書いた時刻を1分も違わず守る人、前世でも今世でも初めて見た)


 エリーゼは村を案内した。


 薬草の乾燥小屋。新しく整備した帳簿管理室。フィンが記録をつけている収穫台帳。


 ヴォルフは黙って視察した。質問は少ないが、目は細部を見ている。軍人の観察眼だ。


 壊れかけの水路の前で、ヴォルフが足を止めた。


「この水路は使われていないのか」


「はい。前領主の時代に放置されて、崩落しています。修復すれば山からの水を村まで引けるのですが、人手と資材が足りません」


 ヴォルフが水路の石組みをじっと見つめた。


 しゃがみ込んで、崩れた部分の石を手で触る。


「……石積みの基礎は生きている。上部を組み直せば使える」


「おわかりになるんですか」


「築城と原理は同じだ。水を通すか敵を防ぐかの違いでしかない」


 (軍事築城の知識が、土木に転用できる……。なるほど)


「閣下、少しお待ちください」


 エリーゼは鞄から羊皮紙を取り出し、その場で水路の略図を描き始めた。


「この水路、元の設計では山の湧き水を北側から引き込んでいたようですが、崩落箇所を避けて西側に迂回させれば、工期を半分にできるかもしれません」


 ヴォルフが略図を覗き込んだ。


「……西側は傾斜がきつい。水の流速が上がりすぎる」


「では、途中に調整池を設ければ? 流速を落として、かつ渇水期の貯水にもなります」


「調整池……」


 ヴォルフが略図の上に指を置いた。大きな指だった。


「ここだ。この平坦部に池を掘れば、自然の勾配で水が流れる」


「その位置なら、村の畑への分水も容易ですね」


 二人で図面を覗き込んでいた。頭と頭の距離が近い。


 エリーゼの髪が、ヴォルフの鎧に触れた。


 一瞬、二人とも動きが止まった。


「……失礼」


「いや」


 何事もなかったように、エリーゼは略図に書き込みを続けた。耳が少し熱い気がするのは、日差しのせいだ。きっとそうだ。


 ヴォルフが立ち上がった。


「兵を10人、出そう」


「え?」


「工兵を送る。水路の修復に当たらせる」


 エリーゼは一瞬、言葉に詰まった。


「……閣下、それは隣国への援助になります。政治的に問題が——」


「国境地帯の安定は我が国の利益でもある。辺境が荒廃すれば、治安が悪化し、我が国との交易にも支障が出る。これは借りではなく投資だ」


 淡々とした口調だった。感情を挟まない、純粋な利害の計算。


 でも——エリーゼにはわかった。


 この人は本気で辺境の村のことを考えている。自国の利益という建前を使っているが、根っこにあるのは「困っている人がいるなら助ける」という感覚だ。


 (この人、内政の感覚がある。武人だけど、領民の生活を見ている)


「……ありがとうございます。お言葉に甘えます。ただし、作業記録と費用の明細は、こちらで管理させてください。将来的に清算できるように」


「好きにしろ」


 クルトが後ろで、にやにや笑っていた。


 (副官殿、さっきから何がそんなに楽しいんですか)



 夕方。村で食事を取ることになった。


 マルグリットが腕を振るった。黒パン、根菜のスープ、焼いた鶏肉、チーズ。辺境の村としては精一杯のもてなしだ。


「質素ですみません。まだ食材の調達ルートが——」


「構わない」


 ヴォルフが黙って食べ始めた。


 一口。二口。三口。


 表情は変わらない。美味いのか不味いのかもわからない。


 でも、食べ方は丁寧だった。パンはちぎって食べるし、スープは音を立てない。鶏肉の骨は皿の端にきちんと揃えている。


 (……軍人だから粗野に食べると思っていた。ごめんなさい)


 全部食べた。皿が空になった。


「……悪くない村だ」


 それだけ言った。


「お口に合いましたか」


「ああ。特にスープがいい」


 マルグリットが嬉しそうに笑った。


「おかわりあるよ。遠慮しなさんな」


「……いただく」


 将軍がおかわりを受け取る姿は、どことなく照れているように見えた。いや、あの無表情から照れを読み取るのは深読みしすぎだろうか。


 マルグリットが腕を組んで頷いた。


「あんた、無愛想だけど、悪い人じゃなさそうだね」


「…………」


 ヴォルフが返答に困っている。


 (将軍閣下が、村のおばちゃんに気圧されている……)


 食後、エリーゼは取引の経過報告書をヴォルフに手渡した。


「初月の出荷実績と、来月以降の供給見込みです。品質検査の結果も添付しています」


 ヴォルフがページをめくる。


「……よくまとまっている」


「ありがとうございます」


「うちの財務官にも見せたい出来だ」


「過分なお言葉です」


「過分ではない。事実だ」


 また、あの感覚。


 褒められているのに、なぜか胸がざわつく。


 この人の言葉には裏がない。お世辞もない。思ったことをそのまま言っている。だから、重い。


 (慣れていないだけだ。褒められることに。……そう、それだけ)


 日が暮れて、ヴォルフ一行が帰路につく。


 領主館の入り口まで見送りに出たとき——それは起きた。


 ハンコが、どこからともなく現れた。


 三毛猫は迷いのない足取りで、まっすぐヴォルフに向かっていった。


 そして——ヴォルフの足に、すりすりと体を擦りつけた。


「……っ」


 ヴォルフの目が、微かに潤んだ。


 鼻をすする音。


「閣下? 大丈夫ですか?」


「問題ない」


 くしゃみ。


「あの、もしかして猫が——」


「問題ない」


 くしゃみ。くしゃみ。


 ハンコがさらに足に擦り寄る。ヴォルフの目から涙が滲んでいる。明らかに問題がある。


「閣下、猫アレルギーですか」


「…………」


 沈黙は肯定だった。


「ハンコ、だめ。離れなさい」


 エリーゼがハンコを抱き上げようとした。


 ハンコが逃げた。ヴォルフの足の甲の上に座り込んで、動かない。


 なぜかこの猫は、ヴォルフが気に入ったらしい。


 クルトが声を殺して笑っている。護衛兵たちも肩が震えている。


 ヴォルフが赤い目のまま、じっとハンコを見下ろした。


「……名前は」


「ハンコです」


「……なぜハンコだ」


「決裁印がないと何も始まらないので」


 ヴォルフが一瞬、きょとんとした。


 それから——くしゃみをした。


「……帰る」


「お大事になさってください」


 ヴォルフが馬に乗る。ハンコがにゃあと鳴いた。見送っているのか、引き留めているのか。


 一行が去っていく。銀色の髪が、夕暮れの中で遠ざかっていく。


 クルトが最後に振り返って、エリーゼに軽く手を挙げた。その顔は、満面の笑みだった。


 (……副官殿、何がそんなに面白いんだろう)


 マルグリットが横に並んだ。


「いい男じゃないか」


「有能な方です。水路の修復に工兵を出してくれるそうです」


「あたしが言ってるのは仕事の話じゃないよ」


「他にどんな話が?」


 マルグリットが深い溜息をついた。


 フィンが領主館から顔を出した。


「ねえちゃん、あの将軍、また来るの?」


「さあ。用があれば来るんじゃないかしら」


「絶対来るよ」


「なぜ?」


「だって、帰りぎわに振り返ってた。3回」


 エリーゼは何も答えなかった。


 ただ、懐から視察申請書を取り出して、もう一度読んだ。


 整った文字。過不足のない文面。律儀に押された公印。


 (……いい書類だ)


 そう思って、丁寧に書棚にしまった。


 捨てるつもりは、なかった。

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