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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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5話 国境の街で、将軍閣下とぶつかりました(物理)

 国境の街バルトハイムは、エリーゼが想像していたよりずっと活気があった。


 石造りの建物が整然と並び、通りには商人や旅人が行き交っている。荷馬車が石畳の上をがらがらと走り、市場からは威勢のいい声が聞こえてくる。


 レヴァイン王国とクラウゼン公国の国境に位置するこの街は、両国の物資が交差する中継地点だ。


 (……なるほど。立地としては悪くない。ここに薬草の取引ルートを確保できれば、エルデ領からの輸送距離は馬車で1日半。十分に採算が合う)


 エリーゼは鞄の中身を確認した。


 交易許可申請書。取引条件の草案。薬草のサンプル3束。品質報告書。想定問答集。バルトハイムの市場管理局の所在地メモ。


 (よし。書類は完璧。あとは交渉相手を見つけるだけ)


 まずは市場を視察する。相場を肌で知らなければ、交渉で足元を見られる。


 市場の薬草売り場を覗いて回った。品揃え、値付け、客層。他の産地の薬草と比較して、エルデ領の青嶺草の品質がどの程度かを確認する。


 (……いい。品質は明らかに上だ。色が濃い。香りも強い。辺境の寒暖差が、薬効成分を濃縮させているんだろう)


 これは武器になる。


 価格交渉の材料を頭の中で組み立てながら、市場の角を曲がった——そのとき。


 壁にぶつかった。


 硬い。冷たい。そして——動いた。


 壁ではなかった。


 人だ。


 見上げる。ずっと上まで見上げる。


 銀色の髪。氷のような碧い目。彫りの深い顔。鎧。剣。


 巨大な男が、そこに立っていた。


 エリーゼの身長では、胸のあたりにしか届かない。さっきぶつかったのは、この男の鎧の胸当てだった。


 (……痛い。鎧に正面からぶつかるのは、前世で柱にぶつかったとき以来だ。あれは残業で朦朧としていたときだけど)


「——怪我はないか」


 低い声だった。感情のない、けれど不思議と耳に残る声。


 男がわずかに視線を下げて、エリーゼを見た。無表情。眉一つ動かない。


「あ、大丈夫です。すみません、前方不注意でした」


 反射的に頭を下げた。


 深々と。腰から45度。


 (——あ。これ前世の癖だ。ビジネスマナー研修で叩き込まれた角度が、体に染みついている)


 顔を上げると、男がエリーゼの腕の中を見ていた。


 鞄から飛び出した書類の束。交易許可申請書。薬草のサンプル。品質報告書。


 ぶつかった拍子に散らばりかけたのを、エリーゼが胸に抱きしめて守っている。


 書類だけは死んでも落とさない。事務官の本能だ。


「それは——交易の許可申請書か?」


 男が言った。


 (え、読めたの? 逆さまの状態で?)


「はい。辺境エルデ領の産品を、こちらの市場で取り扱っていただきたく参りました」


 男の目が、一瞬だけ動いた。


 書類を見ている。エリーゼが抱えた申請書の、見える部分を。


「……書式が美しい」


「え?」


 聞き間違いかと思った。


 こんな——鎧を着た巨漢の武人が、書類の書式を褒めた?


「何でもない」


 男が視線を逸らした。


 (何でもなくはないでしょう。今、「書式が美しい」って言いましたよね? 聞き間違いじゃないですよね?)


 だが追及する間もなく、男が背後に声をかけた。


「クルト」


「はっ」


 後ろに控えていた壮年の騎士が、にやにやしながら進み出た。四十代だろうか。日に焼けた肌に、人の良さそうな笑み。


「おやおや。閣下がご自分から民間人に声をかけるとは。珍しいこともあるものだ」


「うるさい。この者を市場管理局に案内しろ」


「閣下がご自身でご案内なさったらいかがです? ここまで足を止めたのですから」


「…………」


 閣下。


 エリーゼの頭が高速で回転した。


 閣下。鎧。銀髪。巨漢。国境の街。クラウゼン公国。


 (——まさか)


「あの、失礼ですが。どちら様でしょうか」


 男が一拍おいて、名乗った。


「ヴォルフガング・ゼルスト。クラウゼン公国軍の将軍だ」


 北の鉄壁。


 マルグリットが「怖い将軍がいる」と言っていた、あの将軍。


 それが今、目の前にいる。


 エリーゼが国境の街で最初にぶつかった相手が、隣国の最高軍事指揮官だった。


 (……嘘でしょう。交渉相手を探しに来たら、いきなりトップにぶつかった? 文字通り?)


 普通なら怖気づく場面だろう。


 でもエリーゼの頭は、別のことを考えていた。


 (将軍。つまりクラウゼン公国の軍事と内政の実権を握る人物。この人に直接交渉できるなら、市場管理局を経由するより早い)


「閣下。お時間をいただけますか」


「……なんだ」


「エルデ領で産出される薬草——青嶺草の取引について、ご提案がございます。品質報告書とサンプルを持参しております」


 エリーゼは鞄から書類を取り出した。


 交易許可申請書。品質報告書。取引条件の草案。サンプルの青嶺草。


 一つずつ、丁寧に、でも迷いなく差し出す。


 ヴォルフが書類を受け取った。


 ページをめくる。目が動く。


 無表情は変わらない。けれど、読む速度が速い。この男、書類を読み慣れている。


 ——いや、違う。


 読み慣れているのではない。読める人間に飢えているのだ。


 (この人、書類が「わかる」。でも自分では処理できない。たぶん、書類仕事が苦手なんだ)


 直感だった。根拠はない。でも、宰相府で何百人もの官僚と書類をやり取りしてきたエリーゼには、書類を「わかるけど苦手」な人間の目が見分けられる。


 ヴォルフが顔を上げた。


「品質は高い。取引条件も妥当だ」


「ありがとうございます」


「だが、ひとつ聞く。なぜクラウゼンに売り込む。レヴァイン王国内で売った方が、輸送費は少ないだろう」


「はい。しかし王国内の薬師ギルドは流通経路が固定化されており、新規参入は困難です。一方、クラウゼン公国は常備軍の維持に大量の薬品を必要としているはず。需要があり、かつ新規の供給源を歓迎する市場は、こちらです」


 ヴォルフが黙った。


 クルトが後ろで感心したように頷いている。


「……副官のクルトに繋ぐ。詳細はこの男と詰めろ」


「ありがとうございます」


「ただし」


 ヴォルフがエリーゼを見た。


 碧い目が、真っ直ぐにこちらを向いている。


「品質の継続性は保証できるのか」


「年間供給量の試算と品質管理計画を添付しております。申請書の別紙3をご参照ください」


 ヴォルフが別紙3を開いた。読んだ。閉じた。


「……用意がいいな」


「書類で聞かれそうなことは、事前に全部潰しておくのが信条です」


 ヴォルフの口元が——ほんの一瞬、動いた。


 笑ったのか? いや、あれは——


 クルトが目を見開いていた。


 (なぜ副官殿がそんな顔を?)


 交渉はクルトとの間で進んだ。


 取引量、価格、輸送手段、支払い条件。エリーゼが用意した草案をベースに、細部を詰めていく。


 クルトは有能な交渉相手だった。こちらの提案を精査し、的確な修正を加えてくる。


 でも、エリーゼも譲らなかった。


 価格は銀貨1枚8銅貨。王都相場の9割。輸送費を差し引いても、行商人に売るより20倍以上の利益が出る。


「なかなか手強い」


 クルトが苦笑した。


「公正な取引を求めているだけです」


「いやいや、閣下のところの財務官より交渉が上手い。閣下にも聞かせてやりたいものだ」


 ヴォルフは交渉の間、少し離れた場所に立って黙って聞いていた。


 口は出さなかった。だが、ずっと——エリーゼの方を見ていた。


 交渉が成立した。


 クルトがエリーゼの申請書に公国側の承認印を押す。


「月100束の定期取引。まずは3ヶ月の試行期間で。問題がなければ正式契約に移行する」


「十分です。ありがとうございます」


 エリーゼは承認印の押された書類を、丁寧に鞄にしまった。


 (——やった)


 表情は変えない。でも、心の中では拳を握っていた。


 これでエルデ領に安定した収入源ができる。村人たちの生活が変わる。


 帰り支度を始めたとき、背後から声がかかった。


「エリーゼ」


 振り向く。


 ヴォルフがそこに立っていた。


 逆光で、銀色の髪が光っている。相変わらず無表情。だが——さっきまでとは、どこか違う空気をまとっている。


「お前の領地、来てもいいか」


 エリーゼは少し驚いた。


 将軍が、辺境の小さな領地を訪問したいと言っている。


「視察ですか? でしたら事前に文書でご連絡いただければ、受け入れ体制を整えます」


「……文書で?」


「はい。訪問日時、随行人数、視察目的を明記のうえ、領主宛てに送付してください。書式は特に問いませんが、公印があると助かります」


 ヴォルフが黙った。


 それから——胸元から小さな手帳を取り出して、何かを書き留めた。


「……わかった」


「あの、閣下。今、何をメモされたんですか」


「訪問日時、随行人数、視察目的、公印」


 (……律儀な将軍だな)


 クルトが後ろで肩を震わせていた。笑いをこらえている。


「では、書面のご到着をお待ちしております」


「ああ」


 エリーゼは頭を下げて、バルトハイムの門を出た。


 馬車に乗り込む。薬草のサンプルは置いてきた。代わりに、承認印付きの取引契約書が鞄の中にある。


 村を出てから三日。成果は上々だ。


 ——なのに、なぜか胸の奥に、妙な引っかかりが残っている。


 「書式が美しい」。


 あの言葉が、頭の隅から消えない。


 書類を褒められたことは、前世でも今世でも何度かある。でも、あんなふうに——ぼそっと、独り言みたいに、本音が漏れたような声で言われたのは、初めてだった。


 (……なんだろう、この感じ。胸のあたりが妙に落ち着かない)


 気のせいだ。疲れているだけだ。きっとそう。


 エリーゼは首を振って、鞄から羊皮紙を取り出した。


 帰路の馬車の中で書くのは、取引成立の報告書。


 数字に集中しよう。数字は裏切らない。


 ——でも、銀色の髪と碧い目が、数字の向こうにちらついて仕方なかった。

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