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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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番外編4 元聖女ルナリアのその後──辺境追放されたのは私でした

 馬車が止まった。


 ルナリアは窓から外を見て——何も言わなかった。


 荒れ地だった。


 灰色の空。枯れた草原。遠くに山脈が見える。風が冷たい。


 王都から南東に馬車で6日。レヴァイン王国の南端。かつて銅山があったが、鉱脈が尽きて放棄された土地。


 追放先。


 護衛の兵士が馬車の扉を開けた。


「ここがあなたの新しい領地です。元聖女殿」


 「元聖女」。


 その言葉が、刃のように刺さった。


 馬車を降りた。足元の石に躓きそうになった。白い法衣は——もうない。平民の旅装だ。聖印の刺繡も、銀の髪飾りも、全て没収された。


 残っているのは——小さな荷物ひとつと、追放の辞令書だけ。


 兵士が馬車に戻った。去っていく。


 振り返らなかった。


 ルナリアは——一人になった。



 最初の夜は、壊れかけた小屋で過ごした。


 元銅山の作業小屋だ。屋根に穴が開いている。風が入ってくる。暖炉はあるが、薪がない。


 寒かった。


 王都では考えられない寒さだ。聖女の宮殿には常に暖炉が焚かれ、侍女がいて、温かい茶が用意されていた。


 今は——何もない。


 暗闇の中で膝を抱えて、ルナリアは考えた。


 (なぜ、こうなったのだろう)


 答えは——わかっている。


 自分がやったことの、報いだ。



 翌日。


 周辺を歩いた。


 集落がある。10世帯ほど。銅山の閉鎖後も残った人々だ。顔に疲労が刻まれている。


 ルナリアに向けられた目は——無関心だった。


 敵意ではない。同情でもない。ただの無関心。


 新しい追放者が来た。また一人。それだけのこと。


 聖女の称号は——ここでは何の意味もなかった。


 (……あの女も、こうだったのだろうか)


 不意に、そう思った。


 エリーゼ・ヴァイスフェルト。


 あの地味な事務官。書庫の隅で帳簿ばかり触っていた女。


 1年前、あの女を追放した。婚約を破棄させ、讒言を流し、辺境に追い出した。


 あの女も——こんな荒れ地に立って、こんな空を見たのだろうか。


 (でも、あの女は泣かなかった)


 審問の日を思い出す。


 あの女は広間の真ん中に立って、73点の証拠書類を並べた。声は震えなかった。目は揺れなかった。


 泣かなかった。怒らなかった。事務処理で返した。


 私は——崩れ落ちた。泣いた。


 同じ場所に立って、同じ圧力を受けて。


 あの女は立ち続け、私は倒れた。


 (何が違ったのだろう)



 3日目。


 食料が尽きそうだった。持ってきた干し肉とパンでは、あと2日もたない。


 集落の人に声をかけた。


「あの……食料を分けていただけませんか」


 老婦人が、じっとルナリアを見た。


「あんた、何ができるんだい」


「何が——」


「この村では、何もしない人間は食べられないよ。あんた、何ができる?」


 ルナリアは——答えられなかった。


 聖女の浄化能力は低い。治癒もほとんどできない。称号を支えにしてきた力は、もう使えない。


 料理はできない。侍女がやってくれていた。掃除もできない。洗濯もできない。畑仕事の経験もない。


 何もできない。


 ——本当に、何もできなかった。


 聖女という称号がなければ、自分には何もないのだということを——ルナリアは、このとき初めて知った。


 老婦人がため息をついた。


「……水汲みくらいはできるだろう。明日の朝、川まで来な。桶の使い方は教えてやるよ」


「……ありがとう、ございます」


 頭を下げた。


 聖女だった頃、人に頭を下げたことは——一度もなかった。



 日が経った。


 水汲みを覚えた。桶を担ぐと肩が痛い。手に豆ができた。爪が割れた。


 でも——水を運ぶと、老婦人がパンをくれた。


 畑の手伝いも始めた。土を掘る。種を蒔く。雑草を抜く。腰が痛い。日に焼けて肌が荒れた。


 でも——芽が出たとき、少しだけ嬉しかった。


 なぜだろう。王都にいたときは、何を手に入れても嬉しくなかった。称号も、王子の寵愛も、貴族たちの羨望も。全部手に入れても——満たされなかった。


 なのに。


 自分が蒔いた種から芽が出ただけで——こんなに嬉しい。


 (……あの女は、これを知っていたのだろうか。自分の手で何かを育てることの——この感じを)


 エリーゼ・ヴァイスフェルト。


 あの女が辺境で最初にやったことは——帳簿を開くことだった。


 自分が辺境で最初にやったことは——泣くことだった。


 差は——最初の一歩から、ついていた。



 ある夜。


 小屋の中で、追放の辞令書を読み返した。


 きれいな書式だった。余白の取り方。文字の配列。


 (……この書式、見覚えがある)


 エリーゼの書く書類と——同じ匂いがした。宰相府の様式。あの女が整備した書庫の、あの書式。


 自分を追放した書類が、あの女が作った書式で書かれている。


 皮肉だと思った。


 でも——不思議と、怒りは湧かなかった。


 あの書式は、美しかった。文字の一つ一つが正確で、曖昧さがなくて。


 (……私は、こういうものを作れない。作る力がない。最初から——なかった)


 聖女の称号で手に入れたものは、全部借り物だった。自分の力で得たものは——何もなかった。


 エリーゼには、あった。帳簿をつける力。書類を書く力。数字を読む力。人を動かす力。


 全部、あの女自身のものだった。だから——奪えなかった。


 称号は剥奪できる。地位は奪える。でも、人の中にある技術と意志は——誰にも奪えない。


 (……悔しい)


 悔しいと思った。


 でも——その悔しさは、以前のものとは違っていた。


 以前は「あの女が許せない」という悔しさだった。自分より有能な女が存在すること自体が許せなかった。


 今は——「自分に何もないこと」が悔しい。


 方向が変わっている。


 いつから変わったのかはわからない。水を汲んで、畑を耕して、芽が出るのを見て——どこかで、変わった。



 辞令書を畳んで、枕元に置いた。


 明日も水汲みがある。早く寝なければ。


 目を閉じる前に——思った。


 (私には、あの女みたいな力はない。でも——水は汲める。畑は耕せる。種は蒔ける)


 それは——小さなことだ。


 でも、小さなことを積み上げたのが、あの女だった。


 帳簿を一枚。書類を一枚。種を一粒。水を一桶。


 同じことだ。きっと。


 聖女の力はもうない。でも——手はある。足はある。


 明日も、水を汲もう。


 そう思って——目を閉じた。


 涙は——もう、出なかった。

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