番外編3 猫のハンコは見ていた──飼い主たちの恋愛記録
にんげんは、ふしぎないきものだ。
あたしの名前はハンコ。三毛の猫。メス。
ちいさいにんげんの女が、あたしに名前をくれた。「ハンコ」。なんの意味かは知らない。でも、あの女が呼ぶと、しっぽが動く。だから悪くない名前だと思う。
あたしは、この家にすんでいる。石の家。あたたかい暖炉がある。ちいさい女の膝はやわらかい。いい家だ。
でも最近、この家にもう一匹——いや、もう一人、おおきいのが来るようになった。
おおきい。
とにかく、おおきい。
銀色のけもの——じゃない。にんげんだ。銀色のかみの毛。つめたい目。鉄のにおいがする。
最初に会ったとき、あたしはこのおおきいにんげんの足にすりついた。
理由は——あたたかかったから。
おおきいにんげんは、あたしを見て目がうるうるした。水が出てきた。鼻から変な音がした。くしゅん。くしゅん。
でも——あたしを降ろさなかった。
それで決めた。このにんげんは、いいにんげんだ。
あたしは、見ていた。
ちいさい女と、おおきい銀色が、紙を広げてならんで座っている。なにをしているのか、あたしにはわからない。紙に棒でしるしをつけている。にんげんの遊びだろうか。
ちいさい女が、紙をおおきい銀色にわたす。
そのとき——手がふれる。
ふたりとも、かたまる。
あたしにはわかる。猫だから。においでわかる。
ちいさい女の心ぞうが、はやくなった。おおきい銀色の耳が、あかくなった。
でも、ふたりとも何もしない。また紙に棒でしるしをつけ始める。
にんげんは、ふしぎだ。
猫なら、好きな相手にはすりつく。頭をこすりつける。のどを鳴らす。それで伝わる。
にんげんは——紙をわたす。
伝わっているのか?
たぶん——伝わっている。おおきい銀色のにおいが、すこしあまくなるから。
ある日。
ちいさい女と、おおきい銀色が、顔をちかづけた。
あたしは二人のあいだに寝ていた。いつもの場所だ。あたたかいから。
ふたりの顔が、どんどんちかくなる。
あたしの上で。
せまい。
「にゃあ」と言った。せまいという意味だ。
ふたりが止まった。おおきい銀色が「くしゅん」と言った。
ちいさい女が、あたしを見て言った。「ハンコ、空気を読む気はないの」
空気? 空気は読めない。猫だから。空気はかぐものだ。
でも——ちいさい女のにおいが、すこし残念なにおいになった。
ごめん。でもせまかったんだ。
おおきい銀色が、毎日来るようになった。
あたしの家に、もうひとつ机がふえた。おおきい銀色のにおいがする机。
ふたりがならんで座る。紙に棒でしるしをつける。ときどき話す。ときどき黙る。
あたしは、ふたりのあいだに寝る。
おおきい銀色の足はあたたかい。ちいさい女の膝はやわらかい。あいだが、いちばんいい場所だ。
おおきい銀色が、あたしの頭をなでる。おおきな手。ごつごつしている。でも、なで方はやさしい。さいしょよりも——ずっとうまくなった。
くしゅん。
——まだ、くしゅんは出る。でも、前より少ない。
あたしのせいなのかもしれない。ごめん。でも——あたしも、この手がすきだ。
ある朝。
ちいさい女が、白いきれいな服を着ていた。いつもとちがう。
おおきい銀色が、ちいさい女を見て止まった。動かない。呼吸もしてない気がする。
となりにいるにんげん(いつも笑っているやつ)が「閣下、呼吸してください」と言った。
外にたくさんのにんげんがいた。花がかざってあった。おいしいにおいがした。
ちいさい女と、おおきい銀色が、向かい合った。
おおきい銀色が、何か言った。あたしには意味がわからなかった。
でも——ちいさい女が笑った。
あの女が笑うのを見るのが、あたしはすきだ。最初のころ、あの女はぜんぜん笑わなかった。紙ばっかり見ていた。
今は——おおきい銀色を見て、笑う。
ふたりが顔をちかづけた。
今度は、あたしは割り込まなかった。
だって——せまくなかったから。あたしは足元にいたから。
ちいさい女のにおいが、しあわせのにおいになった。
おおきい銀色のにおいも。
あたしは、のどを鳴らした。
しあわせのにおいは、あたしもすきだ。
今日も、あたしはふたりのあいだに寝ている。
ちいさい女の膝はやわらかい。おおきい銀色の足はあたたかい。
ペンの音が二つ。あたしの子守唄。
窓から日がさしている。あたたかい。
ちいさい女が「今日も始めましょうか」と言った。
おおきい銀色が頷いた。
あたしは、目を閉じた。
いい家だ。いいにんげんたちだ。
あたしがこの家を選んだのは——正しかった。
猫の直感は、まちがえない。
……にゃあ。




