番外編2 フィン財務官の苦悩──師匠夫婦が甘すぎて書類に集中できません
俺の名前はフィン。エルデ領の財務官補佐だ。16歳。
1年前までは字も読めなかった。今は月次の収支報告書を一人で書ける。複式簿記もできる。決算処理もできる。
全部、ねえちゃん——エリーゼ・ゼルスト領主が教えてくれた。
ねえちゃんは俺の師匠で、恩人で、この村の救世主で、伝説の事務官で、クラウゼン公国将軍の奥さんだ。
最高の人だと思う。
思うけど——一つだけ、文句がある。
甘すぎるんだよ、あの夫婦。
朝。
俺が帳簿を持って執務室に入ると、だいたいこうなっている。
ねえちゃんとヴォルフさんが、隣り合った机で書類を書いている。静かだ。ペンの音しかしない。一見、真面目に仕事をしている。
でも——見てしまう。見えてしまう。
書類を手渡すたびに指が触れている。毎回だ。毎回。偶然のわけがない。しかも二人とも何食わぬ顔をしている。
「ねえちゃん、月次報告書の確認お願いします」
「ありがとう。……あ、フィン、第3項の薬草出荷量、先月より12束増えてるわね。よくやったわ」
「へへ」
ここまではいい。師匠に褒められるのは嬉しい。
問題はこの後だ。
ねえちゃんが報告書をヴォルフさんに見せる。「フィンの報告書、精度が上がりました」
ヴォルフさんが報告書を読む。「……いい仕事だ」
ねえちゃんが微笑む。ヴォルフさんがねえちゃんの微笑みを見る。目が——柔らかくなる。あの「北の鉄壁」の目が。
で、二人の間に甘い空気が流れ始める。
俺の報告書がきっかけで。
「あの、俺まだここにいるんですけど」
二人がはっとする。
——毎日これだ。
昼。
マルグリットさんが昼食を持ってきてくれる。ねえちゃんとヴォルフさんと俺、三人で食べる。
ヴォルフさんがパンを食べている。ねえちゃんがヴォルフさんの皿にパンケーキを一枚移す。無言で。ヴォルフさんも無言で食べる。
俺は知ってる。ヴォルフさんは甘い物が好きだ。でも自分からは手を出さない。ねえちゃんはそれを知ってて、毎回さりげなく自分の分を渡す。
さりげなくない。全然さりげなくない。俺には見えてる。
でも言わない。前に一度言いかけたら、ねえちゃんの目が「言ったら帳簿の宿題を倍にする」と言っていた。
マルグリットさんは全部わかった上で、多めに甘い物を作っている。共犯だ。
昼食後、ねえちゃんがヴォルフさんの口元のパンくずを——
「あ、見なかったことにします」
「フィン、何か言った?」
「何も言ってません」
夕方。
俺は帳簿の最終確認をしている。今月の収支。薬草の売上。加工品の利益率。灌漑設備の維持費。
数字が合うと、気持ちがいい。ねえちゃんが言ってた通りだ。「帳簿が閉じたときの感じ」——これが好きだ。
隣の執務室——というか同じ部屋——では、ねえちゃんとヴォルフさんがまだ仕事をしている。
夕日が窓から差し込んで、二人の横顔を照らしている。
ヴォルフさんが書類から顔を上げる。ねえちゃんを見る。ねえちゃんは気づかない。帳簿に集中している。
ヴォルフさんが——ほんの少しだけ、口元を緩める。
笑ってる。この人、ねえちゃんの横顔を見て笑ってる。
ねえちゃんが顔を上げる。ヴォルフさんがすぐに書類に目を戻す。間に合ってない。ねえちゃんが「何か?」と聞く。「何でもない」とヴォルフさんが答える。
何でもなくない。俺は見た。
——こういうのが、一日に何回もあるんだ。
集中できるわけがない。
でも。
文句を言いながら——俺は、この光景が好きだ。
ねえちゃんは、1年前は一人だった。
俺が初めて会ったとき、ねえちゃんは一人で村を回って聞き取り調査をしていた。廃墟みたいな領主館で、一人で帳簿を書いていた。
笑わなかった。ほとんど。
今は——笑う。
ヴォルフさんの隣にいるとき、少しだけ口元が緩む。あれがねえちゃんの笑顔だ。派手じゃない。でも——あったかい。
ヴォルフさんも変わった。
最初は無表情の巨大な壁だった。今は——ハンコを膝に乗せてくしゃみしながら書類を決裁する、ちょっと面白い旦那さんだ。
二人が幸せそうだと、村の空気が変わる。マルグリットさんが鼻歌を歌う。レオン隊長が薬草の世話をしながら笑う。子どもたちが学校で「領主様とヴォルフ様みたいになりたい」と言う。
甘い空気は、村全体に伝染している。
俺?
俺は——帳簿の練習をしている。
ねえちゃんが教えてくれたことを、一つ一つ。
いつか、ねえちゃんみたいな事務官になりたい。書類で人を守れる人間になりたい。
そのために——今は、数字を。
(……でも頼むから、俺が帳簿つけてる隣で見つめ合うのはやめてくれ。集中できないから)
にゃあ。
ハンコが俺の足元に来た。
「お前もあの夫婦に挟まれて大変だよな」
にゃあ。
「だよな」
猫と共感する16歳の財務官補佐。
俺の日常は——甘い砂糖に囲まれている。




