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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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番外編1 将軍閣下の秘密の日記──妻が尊い

 俺は日記をつけない人間だった。


 書類は苦手だ。帳簿は読めるが作れない。報告書は部下に任せる。個人的な文章を書く習慣など、生まれてこのかた一度もなかった。


 だが——ある日から、手帳に短い記録をつけるようになった。


 誰にも見せない記録だ。クルトにすら見せていない。見せたら一生からかわれる。


 きっかけは——あの日だった。



『国境の街で、小さな女にぶつかられた。書類を抱えていた。交易の許可申請書。書式が——美しかった。なぜそんなことを思ったのかわからない。帰営後も、あの書式が頭から消えない。異常だ。』


 これが最初の記録だ。


 読み返すと恥ずかしい。だが事実だ。書式が美しいと思った。あの整った文字の並び。余白の取り方。項目の配列。


 俺の人生で、書類を見て心が動いたのは初めてだった。


 それが——あの女だった。



『エルデ領を視察した。水路が崩壊していた。工兵を送ることにした。国境地帯の安定のためだ。それ以外の理由はない。クルトが笑っていた。理由は不明。


 追記:猫に懐かれた。名前はハンコ。猫アレルギーが発症した。目が痒い。鼻が詰まる。だが——あの女が「信頼できる人に懐く」と言った。降ろせなかった。』


 猫アレルギーは今も治っていない。薬を飲んでいるが、完全には効かない。


 それでもハンコを降ろさないのは——あの女の家族だからだ。


 あの女が大切にしているものは、全部大切にすると決めた。いつ決めたのか覚えていない。気づいたら、そうなっていた。



『エルデ領の帳簿整理を依頼した。3年分の未決裁書類を見せた。恥ずかしかった。将軍として——いや、一人の男として、恥ずかしかった。


 あの女は「腕が鳴ります」と言った。目が輝いていた。3年分の書類の山を見て、目を輝かせる人間を初めて見た。


 横で仕分けを手伝った。手が触れた。3回。偶然だ。偶然だが——心臓がうるさかった。』


 心臓がうるさい、という表現を、俺は自分の手帳で何度使っただろう。数えたくない。



『あの女が倒れた。


 クルトからの急報を受けた瞬間、体が動いていた。剣を置いた。馬に飛び乗った。砦からエルデ領まで、半日の道を4時間で走った。


 着いたとき、あの女は寝台で眠っていた。顔が白かった。呼吸が浅かった。


 怖かった。


 戦場で千の敵に囲まれても感じなかった恐怖を、あの女の白い顔ひとつで感じた。


 スープを作った。マルグリットに教わった。塩を入れすぎた。


 あの女は「しょっぱい」と言った。それから「でも全部飲みます」と言って、全部飲んだ。


 泣きそうになった。俺が。将軍が。スープを飲んでもらっただけで。


 手を握った。一晩中。離せなかった。離したら、この女がどこかに行ってしまう気がした。


 朝、目が覚めた。あの女がこちらを見ていた。目が合った。手を握ったままだった。


 あの女が——手に力を込めた。弱い力だった。でも、離さないという意思だった。


 ——俺は、この女を一生守る。


 このとき、決めた。』



『審問の日。あの女が王都に行った。一人で。


 俺は行けなかった。行けば通敵の証拠にされる。あの女がそう判断した。正しい判断だ。


 だから——街道に立った。


 毎朝、夜明け前にここに来た。日が暮れるまで立っていた。


 何もできない。将軍としての力は使えない。剣も、兵も、権威も——何一つ、あの女の役に立てない。


 できるのは——待つことだけだ。


 帰ってこいと言った。法的根拠を聞かれた。


 「俺の心臓だ」と答えた。


 あれは——俺が人生で言った中で、最も正直な言葉だった。


 3日目の朝。雨が降った。立ち続けた。


 5日目の朝。クルトが毛布を持ってきた。「閣下、せめてこれを」と言った。受け取った。


 7日目の朝。馬車が見えた。


 南から来る、小さな馬車。


 心臓が——止まるかと思った。


 あの女が降りてきた。目が赤かった。泣いていた。


 俺は——どんな顔をしていたのだろう。わからない。自分の顔は見えない。


 ただ——腕を広げることだけは、できた。


 あの女が、胸に飛び込んできた。


 小さかった。軽かった。震えていた。


 ——こんなに小さな体で、王家と戦ってきたのか。


 抱きしめた。二度と離さないつもりで。


 あの女が、俺の名前を呼んだ。「ヴォルフさん」と。


 名前を呼ばれただけで——世界が変わった。俺の世界が。


 もう一度呼んでくれと言った。情けない声だったと思う。


 三度呼んでくれた。三度目は「心臓に悪い」と言った。あの女が「帰ってから何度でも呼ぶ」と言った。


 ——この女と出会えたことが、俺の人生で最も幸運なことだ。


 帳簿が読めなくても。書式がわからなくても。プロポーズに提携契約書を持っていくような男でも。


 この女は——笑って、自分で婚姻届を書いてくれた。


 署名欄に、小さな花の模様を入れてくれた。あの日の花だ。俺が摘んで渡した、紫の花。


 気づいた。気づいて——手帳にこう書いた。


 『あの花の模様に気づいた。涙が出そうになった。我慢した。将軍が泣くわけにはいかない。だが——嬉しかった。言葉にならないほど。』



 今朝も、あの女が隣にいる。


 茶を淹れてくれる。自分で淹れる茶は上手くないと言うが、俺はこの茶が一番好きだ。


 並んで机に向かう。ペンの音が二つ。書類を手渡す。指が触れる。


 もう——数えていない。


 あの女が窓の外を見て、何かを考えていた。


 「何を考えている」と聞いた。


 「幸福度の評価指標について」と答えた。


 「数値化するのか」と聞いた。


 「数値化できないものもある」と——笑った。


 あの笑顔を見ると、胸の奥が温かくなる。何度見ても慣れない。


 慣れたくない。


 一生、慣れずにいたい。


 手帳を閉じた。今日の分は、あとで書く。


 今は——隣で書類を書いている、この女の横顔を見ている方がいい。


 「さて、今日も始めましょうか」とあの女が言った。


 ——ああ。


 今日も、明日も。


 お前の隣で。

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