30話 決裁完了──これからも、よろしくお願いします
朝が来た。
何の変哲もない朝だった。
窓から差し込む光が、執務室の机を照らしている。二つの机が並んでいる。片方はエリーゼの。もう片方はヴォルフの。
エリーゼは先に起きて、茶を二人分淹れた。
自分で淹れる茶は、マルグリットほど上手くない。でも毎朝淹れている。朝の茶だけは、自分で。
ヴォルフが起きてきた。銀色の髪が少し跳ねている。寝癖だ。将軍に寝癖がつくことを知っているのは、おそらくこの世界でエリーゼだけだ。
「おはようございます」
「……ああ」
朝のヴォルフは言葉が少ない。もともと少ないのが、さらに少なくなる。でも茶を受け取るとき、指がエリーゼの指に触れる。毎朝、触れる。
もう——数えていない。
二人で机に向かった。
「ヴォルフさん、今日の決裁書類は17件です」
「わかった」
「そのうち3件は予算関連なので、私が先に精査します。残りの14件は閣——ヴォルフさんが先に目を通してください」
「ヴォルフでいいと言っているだろう」
「……まだ『さん』は取れません。もう少し待ってください」
「いつまでだ」
「……そのうち」
ヴォルフが何か言いたそうな顔をしたが、黙って書類を手に取った。
ペンの音が二つ、響き始めた。
ハンコが執務室に入ってきた。二人の机の間——ちょうど真ん中のあたりに、どっかりと寝転がった。
ヴォルフの鼻がひくついた。
くしゃみは——しなかった。
「……最近、くしゃみが減りましたね」
「慣れた」
「本当に慣れたんですか?」
「……薬を飲んでいる。レオンが薬師ギルドで買ってきてくれた」
「レオン隊長が?」
「あいつは気が利く」
レオン隊長と護衛兵たちは、今も交代でエルデ領に駐在している。護衛任務はとっくに形骸化して、実質的には行政補助要員だ。全員が帳簿の基礎を身につけ、薬草の収穫にも参加している。
ヤンセンに至っては、薬草の品質鑑定ができるようになった。エリーゼが「あなたは薬師に転職した方がいいかもしれない」と言ったら、本気で悩んでいた。
ペンの音が続く。
書類を手渡す。受け取る。確認する。承認印を押す。
何千回と繰り返してきた動作だ。
でも——飽きない。
隣にこの人がいるから。
午前中の決裁を終えて、エリーゼは伸びをした。
窓の外を見た。
エルデ領の街並みが広がっている。
市場に人が集まっている。商人が荷を並べ、婦人たちが品定めをしている。学校から子どもたちの声が聞こえる。フィンの声もある。今日も算術を教えているのだろう。
水路が日差しを反射している。畑は冬の準備に入っている。薬草の加工施設から煙が上がっている。宿屋の前には旅人の馬が繋がれている。
1年前——ここは荒れ地だった。
屋根の崩れた石造りの建物。道の真ん中を歩く鶏。蝶番が外れた領主館の扉。9世帯の、疲弊した村。
あの日、馬車を降りて立ち尽くした。
あの日、壊れた机で帳簿を開いた。
あの日、膝に乗ってきた三毛猫に「ハンコ」と名付けた。
——全部、昨日のことみたいだ。
でも1年が経った。365日分の書類が、書棚に並んでいる。
そしてその365日の間に——出会った人たちがいる。
マルグリット。「また左遷されてきた方ですか」と皮肉を言いながら、パンを焼いてくれた人。今は毎朝、三人分の朝食を作ってくれている。
フィン。「ねえちゃん、俺に字を教えてくれるか?」と言った少年。今は財務官補佐として、月次報告書を一人で書いている。
クルト。将軍の恋を20年の副官生活で最も楽しそうに見守った男。今も変わらずにやにやしている。
レオン隊長。「令嬢の業務を妨げたら俺が斬る」と言われて来た護衛兵。今は複式簿記ができる。
そして——ヴォルフ。
「書式が美しい」と呟いた人。3年分の帳簿を見てくれと言った人。押し花をコートのポケットに入れた人。心臓を法的根拠にした人。
全部——この1年の中にある。
マルグリットが昼食を運んできた。
「はい、お昼だよ。二人とも、根を詰めすぎないようにね」
「ありがとうございます」
「あんたたち、毎日同じ時間に同じ場所で同じことしてるね。飽きないのかい?」
「飽きません」
即答した。エリーゼも。ヴォルフも。同時に。
マルグリットが噴き出した。
「息ぴったりだね。……大したもんだよ。本当に」
マルグリットが去っていく。背中が笑っている。
エリーゼはふと、前世のことを思い出した。
深夜のオフィス。蛍光灯の白い光。一人きりの残業。誰もいない帰り道。
あの日々があったから——今がある。
あの世界で学んだ全てが、ここに来て、花を咲かせた。
税務課で覚えた帳簿の読み方。企画政策課で学んだ事業計画の立て方。限界集落の再生事例。補助金の申請書。議会答弁の作法。住民アンケートの取り方。
全部——ここで使った。ここで意味を持った。
前世の自分に言ってあげたい。無駄じゃなかったよ、と。
あの深夜の残業も、報われなかった企画書も、握りつぶされた提案書も。全部、無駄じゃなかった。
この景色を作るための——準備だった。
「何を考えている」
ヴォルフの声がした。
振り向くと、隣の机からこちらを見ていた。碧い目。1年前と同じ色。でも——温度が違う。
「……幸福度の評価指標について」
「数値化するのか」
「いえ」
エリーゼは少し笑った。
「数値化できないものも、あるんだと気づいたので」
数字では測れないもの。書類には載らないもの。
この人の隣にいる時間。ペンの音が二つ並ぶ朝。くしゃみを堪える横顔。不器用に淹れた茶を飲んでくれる手。
全部——数値化できない。でも、確かにある。
ヴォルフが——笑った。
口元だけの、小さな笑み。
いや——今日は、少し大きかった。目尻が下がっている。頬が微かに動いている。
笑った。
この人が笑うのを見ると、胸の奥が温かくなる。どれだけ見ても慣れない。慣れたくない。
ハンコが二人の間で、のびをした。にゃあ、と鳴いた。
そろそろ昼だと言っているのかもしれない。あるいは、何も言っていないのかもしれない。猫の言葉は——数値化できない。
エリーゼは窓から目を戻した。
机の上に、午後の書類が積まれている。通商協定の更新案。学校の増設計画。来年度の予算案。フィンが作った月次報告書の最終確認。
やることは、まだ山ほどある。
でも——それでいい。
やることがある朝は、幸せな朝だ。
「ヴォルフさん」
「何だ」
「来年度の事業計画なんですが」
「ああ」
「学校をもう一つ増やしたいんです。それと、薬湯を使った湯治場の建設。観光資源になります」
「湯治場か」
「ええ。遠方からも人を呼べます。宿屋の増築と合わせて、エルデ領を大陸有数の滞在型交易拠点に育てたい」
「…………お前は、まだまだやる気だな」
「当然です。まだ全然足りません。道路も、教育も、医療も。やりたいことは——帳簿10冊分くらいあります」
「10冊」
「概算です」
ヴォルフが小さく笑った。
「……付き合おう。10冊でも20冊でも」
「ありがとうございます。では、まず1冊目から」
ペンを取った。
隣でヴォルフもペンを取った。
目が合った。
「さて」
エリーゼは言った。
「今日も始めましょうか」
ヴォルフが頷いた。
ペンの音が、二つ。
窓から秋の光が差し込む。ハンコがあくびをする。遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
何の変哲もない朝だった。
前世では一度も辿り着けなかった、何の変哲もない——完璧な朝だった。
【完】




