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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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3話 まずは実態調査です──現地視察報告書を作成します

 翌朝、エリーゼは日の出とともに起きた。


 前世の癖だ。始業時刻の1時間前に出勤し、メールチェックと書類整理を終わらせてから業務に入る。あの習慣が、世界を跨いでも抜けない。


 領主館の台所で湯を沸かし、持参した茶葉で一杯だけ淹れる。


 ハンコが足元で鳴いた。


「ごめんね、猫用のごはんがないの。今日マルグリットさんに相談するから」


 にゃあ。


「……その鳴き方は『早くしろ』に聞こえるわ」


 ハンコは答えない。代わりにエリーゼの足にすり寄って、のどをごろごろ鳴らした。


 (この子、催促の仕方が前世の課長に似てる)


 茶を飲み干して、羊皮紙の束を鞄に詰めた。ペン、インク壺、予備の羽根ペン2本、定規、方位磁針。


 装備は完璧だ。


 今日の業務は——聞き取り調査。全世帯訪問。


 前世で何度もやった住民アンケートの要領で、この村の実態を丸裸にする。



 最初の一軒目。村の東端に住む老夫婦。


「あの、新しい領主のエリーゼです。少しお時間をいただけますか」


「領主様? ……またなにか取り立てかい」


 老人の目が警戒で曇った。


 (——「また」か。前任者がよほどひどかったんだな)


「いいえ。今日は税の話ではありません。お暮らしのことを教えていただきたいのです」


「暮らし?」


「はい。困っていること、足りないもの、あったら嬉しいもの。なんでも結構です」


 老人は怪訝な顔をしたが、隣にいた妻がぽつりと口を開いた。


「……水が、遠いんだよ。毎朝、山まで汲みに行くのが辛くてねぇ」


 エリーゼはペンを走らせた。


「片道どのくらいですか」


「半刻はかかるね。往復で一刻。年寄りにはこたえるよ」


「他にはありますか」


「冬が厳しい。薪が足りなくなることがある。それと、この辺りには医者がいないから、病気になったら街まで行かないといけない」


 ひとつひとつ、丁寧に書き取っていく。


 老婦人の表情が、少しずつ柔らかくなった。


「……こんなこと聞いてくれた領主様は、初めてだよ」


「当然のことをしているだけです。住民の声を聞かずに政策は立てられませんから」


 (前世の上司に聞かせてやりたい。「住民の声はアンケート結果で十分」とか言って、現場に一度も来なかった人に)



 二軒目。三軒目。四軒目。


 どの家でも、最初は警戒された。でも話し始めると、みんな堰を切ったように語り出す。


 水が遠い。道が悪い。冬が長い。子どもに字を教えてくれる人がいない。薬草を売りたいけど、商人に足元を見られる。前の領主は税を取るだけで何もしてくれなかった。


 同じ不満が、何度も繰り返される。


 エリーゼは全部書いた。一言も聞き漏らさなかった。


 (この村の問題は、ひとつひとつは小さい。でも全部が繋がっている。水が遠いから農業が伸びない。農業が伸びないから収入が少ない。収入が少ないから人が出ていく。人が出ていくから人手が足りない。人手が足りないから水を引けない。——典型的な負のスパイラルだ)


 前世の地方創生研修で学んだ構造そのものだった。


 でも裏を返せば、どこか一箇所を突破すれば、スパイラルが逆転する。


 (突破口は——水か、薬草か)



 五軒目を訪ねた帰り道だった。


「ねえちゃん」


 声がした。低い塀の上に、少年が座っていた。


 痩せた体。くすんだ茶髪。服はつぎはぎだらけ。年齢は十五、六だろうか。


 目だけが、妙に鋭い。


「あんたが新しい領主?」


「そうです。エリーゼ・ヴァイスフェルトと申します」


「フィン。親はいない」


 短い自己紹介だった。孤児か。


「ねえちゃん、さっきから村中回って何書いてんの」


「聞き取り調査です。村の現状を把握するための」


「ふぅん」


 フィンが塀から飛び降りて、エリーゼの手元を覗き込んだ。


 羊皮紙に書き連ねた聞き取りメモ。世帯ごとの情報、困りごとの分類、数値データの集計欄。


「……ねえちゃん、これ、数字が並んでるけど」


「はい。世帯数、水汲みの所要時間、薬草の売却単価、年間の推定支出。数字がないと対策が立てられませんから」


 フィンの目が光った。


「俺、数字好きなんだ」


「好き?」


「行商人が来るとさ、値段を聞くだろ。そうすると頭の中で勝手に計算が始まるんだ。あの薬草、1束3銅貨で売って、10束で30銅貨、1ヶ月で200束採れるから——」


「600銅貨。銀貨に換算すると6枚ですね」


「——そう。でもあの行商人、仕入れ値の倍で街に卸してるから、本当は1束6銅貨の価値がある」


 エリーゼは足を止めた。


 この子、暗算が速い。しかも市場構造を直感的に理解している。字は読めないかもしれないが、数字の感覚は天性のものだ。


 (前世でいえば——簿記の適性がある。それも高い)


「フィン。ひとつ聞いてもいいですか」


「なに」


「字は読めますか」


「……読めない。教えてくれる人がいなかった」


「数字は」


「数字はわかる。指で数えてるうちに覚えた」


 エリーゼは少し考えてから、フィンの目をまっすぐ見た。


「字を教えましょうか」


 フィンが目を見開いた。


「……なんで」


「字が読めて、数字が扱えれば、帳簿がつけられます。帳簿がつけられれば、この村の経済を動かす側に立てる」


「俺が?」


「あなたが。フィン、あなたには才能がある」


 大げさな言い方だと思われたかもしれない。でもエリーゼは本気だった。


 前世で見てきた。予算書を読める人間が一人いるだけで、自治体の判断の質が変わる。数字がわかる人材は、どんな組織でも希少だ。


 フィンはしばらく黙っていた。


 それから——不器用に、笑った。


「ねえちゃん、俺に字を教えてくれるか?」


「字だけでなく、数字の使い方も教えましょう。帳簿のつけ方、予算の立て方、収支計算」


「なんだそれ。面白そうだな」


「面白いですよ。……世界で一番面白い仕事です」


 (我ながら、地方公務員の勧誘みたいなことを言っている)


 フィンが調査に同行することになった。


 この少年は使える。現地の事情に詳しいし、足が速い。何より、数字の話をするとき目が輝く。


 残りの四軒を回り終える頃には、フィンはエリーゼの聞き取り手法を真似し始めていた。


「ねえちゃん、あの家の婆ちゃんが言ってた『薬草の自生地が3箇所ある』って、地図に落としといた方がいいんじゃね?」


「その通り。よく気づきましたね」


「へへ」


 (この子を育てたい。この村の、将来の財務官に)


 前世では後輩の育成をする余裕がなかった。自分の仕事を回すだけで精一杯だった。


 でも今は違う。


 ここでは、人を育てる時間がある。



 夕方。領主館に戻ったエリーゼは、机に向かった。


 膝の上にはハンコ。横にはフィンが座って、エリーゼの手元を食い入るように見つめている。


「ねえちゃん、何してるの」


「視察報告書を作成しています」


 聞き取った情報をすべて整理し、分類し、一枚の報告書にまとめていく。


 問題点は——42件。


 水利の不備。街道の未整備。医療の不在。教育機関の不在。前領主による横領の痕跡。税制の不均衡。住居の老朽化。食料自給率の低さ。


 そして、改善施策。


「改善施策18件」


 エリーゼは呟いた。


 灌漑設備の設計。薬草の直接取引ルート開拓。住民台帳の整備。簡易診療所の設置。識字教育の開始。街道の最低限の修繕。そして——隣国クラウゼン公国との通商交渉。


「フィン、見てごらんなさい」


 報告書を広げて見せた。


「左の列が問題点。右の列が対策。一番下が優先順位。限られた予算と人手で最大の効果を出すには、何から手をつけるかが重要なの」


「……すげぇ。全部繋がってんだな」


「そう。全部繋がっている。だから、正しい順番でひとつずつ解決すれば、この村は変わる」


 フィンが報告書を見つめる目は、真剣だった。


「ねえちゃん」


「なに」


「あんた、すごい人だな」


「すごくないわ。これは技術です。学べば誰でもできる」


「じゃあ俺にも教えてくれ。全部」


「もちろん」


 エリーゼは報告書の末尾に、最後の一行を書き加えた。


『最優先課題:薬草の交易ルート確保。隣国クラウゼン公国との国境の街バルトハイムにて、取引先の開拓を行う』


 ペンを置いて、窓の外を見た。


 山脈の向こうに、夕日が沈んでいく。


 あの山を越えれば、クラウゼン公国。軍事国家。「北の鉄壁」の将軍の国。


 交渉相手としては手強いだろう。でも、通商なくしてこの村の未来はない。


「フィン、ハンコの世話をお願いしていいかしら。近いうちに、国境の街に行ってきます」


「商売の交渉?」


「そう。この村の薬草を、正当な値段で買ってくれる相手を見つけに」


 フィンが頷いた。ハンコがにゃあと鳴いた。


 エリーゼは新しい羊皮紙を引き寄せた。


 交易の許可申請書。取引条件の草案。想定される交渉シナリオ。


 書くべき書類は山ほどある。


 でも——書類を書いている時間が、エリーゼは一番好きだ。


 (さて。国境の街で、どんな相手と出会うことになるのやら)


 ペンが走る。夜が更ける。ハンコがエリーゼの膝で丸くなる。


 辺境の小さな領主館の窓から、一本の蝋燭の灯りが、遅くまで消えなかった。

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