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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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28話 新婚生活の業務分担表を作成しました

 ある朝のこと。


 エリーゼは目を覚ました。


 隣に、温かいものがある。大きくて、硬くて、微かに動いている。


 ——ヴォルフの背中だ。


 まだ慣れない。隣に人がいる朝。前世でも今世でも、朝は一人だった。


 ヴォルフの呼吸が規則正しく聞こえる。まだ眠っている。


 横顔を見た。眉間の皺がない。口元が少し開いている。銀色の髪が枕に散らばっている。


 将軍でも鉄壁でもない。ただの——夫の顔。


 (「夫」。まだこの単語に慣れない。書類上は確かに夫なのだけれど)


 しばらく眺めていた。


「……起きてますよ」


 ヴォルフが目を開けずに言った。


「え?」


「お前が見ていたのは——何分前からだ」


「…………3分くらいです」


「そうか」


「閣下——ヴォルフさんは、いつから起きてたんですか」


「お前が見始めてから、ずっと」


「…………」


「起きていたが——目を開けると、見るのをやめるだろうと思った」


 エリーゼの顔が沸騰した。


「……仕事します」


「まだ日の出前だ」


「日の出前から仕事できます。前世では——前の職場では普通でした」


「異常だ」


「異常ではありません。公務員の朝は早いんです」


「コウムイン?」


「……忘れてください」



 ある日の昼。


 エリーゼは羊皮紙を広げた。


「新婚生活の業務分担表を作成しました」


「……業務分担表」


「はい。家庭運営を効率的に行うには、役割の明確化が不可欠です」


 表を見せた。


『新婚生活 業務分担表(暫定版)』


 朝食準備:マルグリット(※エリーゼの調理は禁止)

 昼食準備:マルグリット(※同上)

 夕食準備:マルグリット(※同上)

 薪割り:ヴォルフ

 水汲み:灌漑設備により不要

 掃除:交代制

 家計管理:エリーゼ

 猫の世話:ヴォルフ

 執務:共同


「三食全てマルグリットさんになっている」


「私の料理が禁止されているので、やむを得ません」


「お前は料理をする気がないのか」


「する気はあります。結果が伴わないだけです」


「……猫の世話が俺になっている」


「ハンコはヴォルフさんに一番懐いていますから」


「猫アレルギーだが」


「慣れるとおっしゃいました」


「…………」


 反論できなかった。確かに言った。


 ハンコがヴォルフの足元に現れた。膝には乗らず、足首に頬を擦りつけている。


 ヴォルフがくしゃみをした。


 くしゃみをしながら、ハンコを撫でた。


 エリーゼがそれを見て、分担表の「猫の世話」の横に小さく書き足した。


『※くしゃみ薬の常備を推奨』



 ある日の早朝。


 エリーゼは執務室の窓から、中庭を見ていた。


 ヴォルフが薪を割っている。


 斧を振り上げる。振り下ろす。薪が真っ二つに割れる。正確な一撃。さすが武人だ。


 シャツの袖をまくった腕に、朝日が当たっている。汗が光っている。


 エリーゼは——仕事を、していなかった。


 帳簿を開いたまま、窓の外を見ていた。5分ほど。


 (……何を見ているんだ私は。帳簿を開いているのに数字を見ていない。これは業務怠慢だ)


 目を帳簿に戻した。


 3秒後に窓を見た。


 (だめだ)


 薪割りが終わるまで——帳簿は進まなかった。



 ある雨の午後。


 二人とも執務室にいた。外は雨。出かけられない。


 ヴォルフが珍しく手持ち無沙汰にしていた。決裁書類を全て処理してしまったのだ。


「……暇だ」


「決裁が早くなりましたね。良いことです」


「良いことだが、暇だ」


 エリーゼは自分の仕事をしながら、ちらりとヴォルフを見た。


 大きな男が、椅子に座って所在なげにしている。猫のハンコが膝の上で丸くなっている。くしゃみを我慢している。


「……ヴォルフさん、本でも読みますか? 書棚に法令集がありますけど」


「法令集を娯楽で読む人間はお前くらいだ」


「娯楽ではありません。教養です」


「…………」


 ヴォルフが窓の外の雨を見ていた。


「雨の日は嫌いだった」


「嫌いでしたか?」


「戦場で雨が降ると、視界が悪くなる。足場も悪くなる。不利だ」


「今は?」


「…………嫌いではなくなった」


「なぜ?」


「出かけられないから——ここにいる理由ができる」


 エリーゼのペンが、一瞬だけ止まった。


 (この人は。こういうことを、不意に言う)


「……ヴォルフさん」


「何だ」


「雨が降らなくても、ここにいていいんですよ」


「…………」


「ここは、あなたの家でもありますから」


 ヴォルフが——エリーゼを見た。


 碧い目が、少しだけ揺れた。


 それから——小さく頷いた。


 ハンコがにゃあ、と鳴いた。ヴォルフがくしゃみをした。


 雨音と、くしゃみと、ペンの音。


 穏やかな午後だった。



 ある日の夕方。


 フィンが領主館に来た。正装している。見慣れない姿だ。


「ねえちゃん、改まった話があるんだけど」


「どうしたの」


「俺——正式にエルデ領の財務官補佐になりたい」


 エリーゼは手を止めた。


 フィンの目を見た。まっすぐな目。半年前、塀の上に座っていた痩せた少年の面影は、もうほとんどない。


「理由を聞かせて」


「ねえちゃんは——ヴォルフさんの奥さんになった。そうすると、クラウゼンとの仕事が増える。エルデ領の帳簿を、ねえちゃん一人で見続けるのは無理だ」


「……よく見てるわね」


「ねえちゃんに鍛えられたからね。あと——俺、この仕事が好きなんだ。数字が並んで、計算が合って、帳簿が閉じたときの感じが。ねえちゃんが教えてくれなかったら、この気持ちを知らなかった」


 エリーゼの目の奥が、じわりと熱くなった。


「フィン。あなたの申請を——正式に受理します」


「やった!」


「ただし、条件があります」


「なに」


「月次の収支報告書を、自分一人で作成すること。私は最終確認だけ行います」


「了解。……ねえちゃん」


「なに」


「ありがとう。字と数字を教えてくれて」


「……お礼は、帳簿の精度で返してね」


「へへ。任せろ」


 フィンが帰った後、ヴォルフが隣の机から言った。


「いい弟子だな」


「最高の弟子です」


「お前に似てきた。帳簿を見るときの目つきが」


「それは褒め言葉ですか?」


「最高の褒め言葉だ」



 ある夜のこと。


 二人で並んで執務をしていた。いつもの風景だ。


 蝋燭の灯りが揺れている。ペンの音が二つ。時々、書類を手渡す。指が触れる。もう——照れなくなった。


 嘘だ。まだ少し、心臓が跳ねる。


 ヴォルフが決裁書類にペンを走らせている。決裁基準表に沿って、てきぱきと処理していく。半年前は3年分溜め込んでいた男が、今は即日処理だ。


「ヴォルフさん」


「何だ」


「今日の決裁、早かったですね」


「お前が基準表を作ってくれたからだ」


「基準表を使いこなしているのは、ヴォルフさんの力です」


「…………」


 ヴォルフが黙った。それから——ぽつりと言った。


「お前がいなかった日々が、もう思い出せない」


 ペンが止まった。エリーゼのペンが。


「……急に、何ですか」


「事実を述べている」


「事実にしても——不意打ちは心臓に悪いです」


「心臓なら丈夫だ。俺の心臓が法的根拠だと言っただろう」


「…………あれを引用しないでください」


 でも——嬉しかった。死ぬほど嬉しかった。


 マルグリットが茶を持ってきた。二人の様子を見て、何も言わずに茶だけ置いて去った。


 去り際に、小さく呟いた。


「……大したもんだ。あの地味な令嬢が、ねぇ」


 エリーゼには聞こえていた。


 地味な令嬢。


 そうだ。自分は地味な令嬢だ。書庫の地味令嬢。前世は地方公務員。特別な力もない。魔法も使えない。剣も振れない。


 持っているのは——ペンと、帳簿と、行政事務のスキルだけ。


 でもそれで——ここまで来た。


 ここまで来て、隣に、この人がいる。


 茶を一口飲んだ。


 美味しかった。


 いつもの茶だ。特別な茶葉じゃない。マルグリットがいつも通り淹れた、普通の茶。


 でも——隣にヴォルフがいて、足元にハンコがいて、窓の外に村の灯りが見える。


 それだけで、世界一美味しい茶になる。


「ヴォルフさん」


「何だ」


「お茶、もう一杯いかがですか」


「もらう」


 エリーゼは立ち上がって、茶を淹れに行った。


 自分で淹れた茶を、この人に出す。


 たったそれだけのことが——幸せだった。


 ずっと。

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