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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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26話 婚姻届の書式について、確認させてください

 プロポーズは、書類で来た。


 正確に言えば——間違った書類で来た。


 その日、ヴォルフがエルデ領の領主館に現れたのは、いつもの時間だった。護衛のレオン隊長が扉を開け、ヴォルフが入ってきて、エリーゼの机の隣に座る。もう日常だ。


 ただし今日は——クルトも一緒だった。しかもクルトが妙にそわそわしている。


「副官殿、どうされました? 落ち着きがないですが」


「いえ。何も。何もありません。全く何も」


 嘘が下手だった。この人たちの周辺には、嘘が上手い人間がいない。


 ヴォルフが席についた。いつも通りの無表情——ではなかった。唇が微かに引き結ばれている。緊張している。この人が緊張するのは、大切なことを言おうとするときだけだ。


 (何だろう。嫌な予感はしない。でも——何かある)


「エリーゼ」


「はい」


「書類がある」


「はい。いつもの決裁書類ですか?」


「違う」


 ヴォルフが、革の筒から一枚の羊皮紙を取り出した。


 丁寧に巻かれている。封蝋がされている。公印もある。


 受け取った。封を切った。広げた。


 表題を読んだ。


『領地間長期提携契約書』


 目を通す。


 契約当事者。クラウゼン公国ゼルスト領と、レヴァイン王国エルデ領。提携期間——「無期限」。提携内容——「あらゆる分野における包括的な相互協力」。


 特記事項の欄に、こう書いてあった。


『本契約は、両当事者の合意に基づき、生涯にわたり有効とする』


 エリーゼは契約書から目を上げた。


 ヴォルフが——目を逸らしていた。


「……閣下」


「何だ」


「これは婚姻届ではなく、提携契約書ですが」


 沈黙。


 長い沈黙。


 クルトが廊下で壁に頭を打ちつける音が、かすかに聞こえた。


「……わかっている」


 ヴォルフの声が小さくなった。


「だが——婚姻届の書式がわからなかった」


「わからなかった」


「クラウゼン公国の婚姻届はレヴァイン王国の書式と異なる。両国にまたがる婚姻の場合、どちらの書式に準拠すべきかの規定が見つからなかった」


「それで——提携契約書を」


「……法的に最も近い書式だと判断した」


 エリーゼは契約書を見た。


 ヴォルフの字だ。丁寧な字。この半年で、ずいぶん上手くなった。一画一画に力が入っている。何度も書き直したのだろう。


 ——待てよ。


 契約書の裏面を見た。うっすらと、消した文字の跡がある。書いては消し、書いては消した痕跡が、いくつも重なっている。


 (この羊皮紙——何度も書き直している。表面が毛羽立っているのは、文字を削り取った跡。最低でも5回は書き直したんじゃ——)


 感謝状を7回書き直した自分を思い出した。


 この人も——同じだったのだ。


 さらに、提携内容の条項を読み込んだ。「あらゆる分野における包括的な相互協力」。その下に、びっしりと細目が書き込まれていた。


 「食事に関する相互扶助」「健康管理の共同実施」「住居の共有に関する取り決め」「休日の合同活動」。


 これは——提携契約の体裁をとった、新婚生活の計画書だ。


 (この人……婚姻届の書式はわからなかったのに、結婚生活の具体的な中身は全部書いてある。優先順位がおかしい。おかしいけれど——この人らしくて、もう)


 ——この人は。


 プロポーズの書類を自分で書いて、書式がわからなくて、一番近い書類を選んで、それを持ってきた。


 大陸最強の将軍が。


 婚姻届の書式がわからなくて。


 でも——一緒に食事をすることと、一緒に休日を過ごすことは、ちゃんと書いてあった。


「……笑ってはだめですか」


「笑うな」


「すみません。でも——嬉しいんです。嬉しくて笑ってるんです」


「…………そうか」


 ヴォルフの耳が赤い。いつもの赤さの、たぶん3倍くらい赤い。


 エリーゼの口元が——崩れた。堪えきれなかった。


「……私が作りますよ」


「何を」


「婚姻届を。閣下の分と、私の分と。両国の法令を確認して、正式な書式で」


 ヴォルフが目を見開いた。


「お前は……自分のプロポーズの書類を自分で作るのか」


「書式の不備で却下されたくありませんから」


「…………」


「それに、こういうことは得意です。書類を作るのは」


 エリーゼは新しい羊皮紙を引き出した。ペンを取った。


「少々お待ちくださいね」


「……今、作るのか」


「ええ。今すぐに」


 ペンが走り始めた。


 両国の婚姻に関する法令を頭の中で照合する。クラウゼン公国法の婚姻条項、レヴァイン王国の王令第12条。国際婚姻の場合の準拠法。


 前世の知識も総動員した。婚姻届の書式は、どの世界でも似ている。当事者の氏名、生年月日、住所、婚姻の意思確認、証人の署名。


 10分で書き上げた。


 完璧な書式だった。余白の取り方も、文字の大きさも、項目の配列も。見る人が見れば、これを書いた人間の実力がわかるように。


「できました」


 ヴォルフが受け取った。読んだ。


「…………完璧だ」


「当然です」


「10分で」


「7分です。署名欄の装飾に3分かかりました」


「装飾?」


「少しだけ——きれいにしたくて」


 エリーゼの声が、小さくなった。


 署名欄の周りに、小さな花の模様を入れた。紫色の花。アオスミレの花弁を図案化したもの。


 あの日の花。


 ヴォルフが気づいたかどうかは——わからない。でも、長い間その部分を見つめていた。


「……署名を」


「はい」


 エリーゼがペンを取って、署名した。


 エリーゼ・ヴァイスフェルト。迷いのない字。一本の線にためらいがない字。


 ペンをヴォルフに渡した。


 ヴォルフが署名した。


 ヴォルフガング・ゼルスト。大きな字。不器用だけど——力強い字。


 二人のペンが、同じ羊皮紙の上を走った。


 あの通商協定のときと同じだ。でも今度は——協定ではない。


 世界一ロマンチックで、世界一事務的なプロポーズが、完了した。


「証人の署名が必要です」


 エリーゼが言うと、廊下からクルトが転がり込んできた。


「お待ちしておりました!」


「盗み聞きしてましたね?」


「護衛任務の一環です」


 クルトが証人欄に署名した。手が震えていた。20年仕えた主人のプロポーズの証人だ。震えない方がおかしい。


 マルグリットが入ってきた。


「聞こえたよ。全部聞こえてた。壁が薄いんだよ、この領主館は」


「マルグリットさん、証人の署名をお願いできますか」


「喜んで。……あんたたち、本当に書類でプロポーズしたんだねぇ。あんたたちらしいよ」


 マルグリットが署名した。字は上手くない。でも、力強い字だった。


 フィンが駆け込んできた。


「ねえちゃん、結婚するの!?」


「ええ。書類上は、今」


「今!? 早くない!?」


「書式が整えば、あとは署名するだけよ。手続きは迅速に」


 フィンが目を丸くして——それから、泣いた。


「ねえちゃん……おめでとう……」


「フィン、泣かないで」


「泣いてない。目から汗が——」


「それは涙よ」


 エリーゼはフィンの頭をぽんと叩いた。この子は弟みたいなものだ。前世にも今世にも弟はいなかったけれど——こんな気持ちなんだろう。


 ハンコが、その場の空気を読んだのか読まなかったのか——ヴォルフの膝に飛び乗った。


 くしゃみ。


 ヴォルフが涙目になりながら——ハンコを撫でた。くしゃみしながら撫でた。


「……閣下、降ろしても——」


「いい。今日は——いい日だ」


 くしゃみ。


 全員が笑った。


 小さな領主館の執務室に、笑い声が満ちた。


 エリーゼは完成した婚姻届を、丁寧に持ち上げた。


 インクが乾くのを待つ。


 この一枚の紙には、二人の名前が並んでいる。


 二人と、二人の証人と、一匹の猫の——小さくて、温かな世界。


 ヴォルフの提携契約書は——そっと引き出しにしまった。


 却下ではない。永久保存だ。


 あの引き出しに。ヴォルフの書簡と、視察申請書と、添え状と、クルトの手紙と、押し花と一緒に。


 引き出しが——いっぱいになった。

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