25話 閣下、迎えに来てくださったんですか?──業務外の行動では?
馬車が止まった。
エリーゼは扉を開けた。
降りた。
街道の真ん中に、ヴォルフガング・ゼルストが立っていた。
鎧を着ていなかった。剣も帯びていなかった。シャツに革のベスト。ブーツだけが軍のものだ。
将軍ではない姿で、そこにいた。
ただの男として。
銀色の髪が、朝日を受けて光っている。碧い目がこちらを見ている。無表情——ではなかった。
今まで見たことのない顔をしていた。
安堵と、恐れと、喜びと、苦しさが全部混ざった顔。感情が不器用に渋滞している顔。
「……閣下」
「ああ」
それだけだった。しばらくの間、それだけだった。
街道の上で、朝の風が二人の間を吹き抜けた。
レオン隊長が馬車の横で直立不動になっている。気配を消そうとしているが、鎧が朝日を反射して全く消えていない。
後ろから馬が一頭、近づいてきた。
クルトだった。
「令嬢、おかえりなさい」
クルトの目が赤い。泣いていた——のか、泣きそうなのか。
「閣下は審問の日からずっとここに立っておられました」
「……ずっと?」
「はい。毎朝、夜明け前にここに来て、日が暮れるまで立っていました。雨の日も」
エリーゼはヴォルフを見た。
ブーツに泥がこびりついていた。シャツの袖口が擦り切れていた。頬が少しこけている。
何日も——何日も、ここに立っていたのだ。
エリーゼが王都で審問を受けている間、この人は何もできずに、ただ街道に立って、南から来る馬車を待っていた。
北の鉄壁が。
千の敵を前にしても揺るがない男が。
一本の街道の上で、一人の女を待つことしか——できなかった。
「閣下……」
「ヴォルフでいい」
「え?」
「閣下はやめろと——いや。そうではなく」
ヴォルフが言葉に詰まった。
この人が言葉に詰まるのを、何度も見てきた。帳簿を見てくれと言ったとき。個人的な感情だと言ったとき。帰ってこいと言ったとき。
いつも——大切なことを言おうとするとき、この人は詰まる。
「……業務外だ」
低い声だった。
「これは完全に、個人的な行動だ」
業務ではないと。国境警備でも、通商協定でも、安全保障でもないと。
何の建前も、何の名目もなく——ここに立っていたのだと。
エリーゼの目から、涙が溢れた。
止められなかった。昨夜馬車の中で泣いたばかりなのに、また。
ヴォルフの表情が変わった。慌てている。「北の鉄壁」が、女の涙を前にして、完全に動揺している。
「な——泣くな。俺は——俺が何かしたか?」
「何もしていません。何もしていないから泣いているんです」
「意味がわからない」
「私もわかりません」
嘘だ。わかっている。
この人が何もせずにただ待っていてくれた——それだけのことが、どれだけ嬉しいか。
前世でも今世でも、自分を待っていてくれた人は——いなかった。
深夜のオフィスで倒れても。婚約を破棄されても。辺境に追放されても。
誰も、待っていなかった。
でもこの人は——何日も、街道に立っていた。何もできないまま。将軍としての力を全て封じられて。ただ、待つことだけを選んだ。
それは——剣で千の敵を斬るより、ずっと難しいことだったはずだ。
ヴォルフの手が動いた。
今度は——止まらなかった。
エリーゼの肩に触れた。それから——引き寄せた。
不器用だった。力の加減がわからないみたいに、ぎこちなかった。
でも——温かかった。
ヴォルフの胸に、顔を埋めた。
鎧がない。シャツ越しに、心臓の音が聞こえる。
速い。この人の心臓も、速い。
(……ああ。この人も、怖かったんだ。ずっと)
「……勝ったのか」
頭の上から、低い声がした。
「勝ちました。証拠書類で」
「……そうか」
「聖女は追放。宰相は罷免。エルデ領は世襲領になりました」
「そうか」
「あと、殿下に婚約破棄の手続き不備を指摘しました」
「…………それは、聞きたくなかった」
「え?」
「あの男の話は——今はいい」
ヴォルフの腕が、少しだけ強くなった。
(……もしかして、殿下の話が出て嫉妬した? この期に及んで?)
嬉しい、と思った。嬉しいと思った自分に驚いた。
どのくらい——そうしていたのかわからない。
クルトの咳払いが聞こえた。控えめな咳払い。「そろそろ離れないと、護衛兵たちが目のやり場に困っています」という意味の咳払い。
二人は——離れた。
名残惜しそうに。ゆっくりと。
エリーゼは——自分から手を伸ばした。
ヴォルフの手を、掴んだ。
大きくて、硬くて、温かい手。何日も街道で風に晒されて、少し荒れている手。
握った。強く。
ヴォルフの体が固まった。石のように。呼吸すら止まったように。
それから——ゆっくりと、握り返してきた。
不器用に。加減がわからないように。でも——離さないように。
「二度と一人で行かせない」
ヴォルフの声が震えていた。
「次は俺も行く。……お前の隣に」
「閣下——」
「ヴォルフだと言っている」
「……ヴォルフ、さん」
初めて、名前で呼んだ。
ヴォルフの体がもう一度固まった。耳が赤くなった。首まで赤くなった。今度は——手まで赤かった。握られている手が、熱を持っている。
「……もう一度」
「え?」
「もう一度、呼んでくれ」
エリーゼは——少し恥ずかしかった。でも、この人がこんな顔で頼んでいるのだ。断れるわけがない。
「…………ヴォルフさん」
碧い目が、揺れた。
この人が——泣きそうな顔をしているのを、エリーゼは初めて見た。
泣かなかった。でも、限りなく近かった。
エリーゼは握った手をもう一度、強く握った。
「ヴォルフさん」
「……三度目は心臓に悪い」
「じゃあ、帰ってから何度でも呼びます」
「…………」
ヴォルフが前を向いた。耳だけが、ずっと赤かった。
クルトが後ろで天を仰いでいた。レオン隊長が顔を背けていた。護衛兵が鼻をすすっていた。
街道の上に、朝の光が満ちていた。
「……帰るぞ」
ヴォルフが言った。
「家に」
家。
エルデ領。あの荒れ地から始まった、小さな村。フィンがいて、マルグリットがいて、ハンコがいて、護衛兵たちがいる場所。
帰る場所。
エリーゼは頷いた。
「はい。帰りましょう」
手を繋いだまま、歩き出した。
ヴォルフの手は大きかった。エリーゼの手をすっぽり包んでいた。
歩調が合わなかった。ヴォルフの一歩が大きすぎて、エリーゼが小走りになる。ヴォルフが気づいて歩幅を縮める。今度は小さすぎて、ぎこちない。
二人とも、手を繋いで歩くのが——下手だった。
どちらも、やったことがなかったから。
前世でも。今世でも。
それでも——離さなかった。
歩きながら、エリーゼは審問の結果を伝えた。手短に。数字と事実だけを。
ヴォルフは黙って聞いた。時々、握った手に力が入った。グラーフの罷免のとき。ルナリアの追放のとき。そしてエルデ領の世襲領認定のとき——一番強く、握った。
「……よくやった」
それだけ言った。
それだけで十分だった。
街道に木漏れ日が落ちている。北に向かう道。辺境に続く道。
二人の歩調が——少しずつ合ってきた。
クルトが馬車に戻って、レオンに言った。
「隊長、あの二人は放っておけ。馬車は後ろからゆっくりついていこう」
「了解であります。……副官殿、目が赤いですよ」
「風だ」
「風、でありますか」
「風だと言っている」
馬車がゆっくりと動き出した。
街道を歩く二人の影が、朝日に照らされて長く伸びている。
大きな影と、小さな影。
手と手が繋がった、一つの影。
丘を越えたとき、エルデ領が見えた。
煙が上がっている。パンを焼く煙だ。市場の喧騒が、風に乗ってかすかに聞こえる。水路が朝日を反射して光っている。
半年前の荒れ地が——生きている村が、そこにあった。
「……きれいな村だ」
ヴォルフが言った。
「ええ」
エリーゼは頷いた。握った手に、力を込めた。
「ただいま」
辺境へ。
二人の家へ。




