表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/34

25話 閣下、迎えに来てくださったんですか?──業務外の行動では?

 馬車が止まった。


 エリーゼは扉を開けた。


 降りた。


 街道の真ん中に、ヴォルフガング・ゼルストが立っていた。


 鎧を着ていなかった。剣も帯びていなかった。シャツに革のベスト。ブーツだけが軍のものだ。


 将軍ではない姿で、そこにいた。


 ただの男として。


 銀色の髪が、朝日を受けて光っている。碧い目がこちらを見ている。無表情——ではなかった。


 今まで見たことのない顔をしていた。


 安堵と、恐れと、喜びと、苦しさが全部混ざった顔。感情が不器用に渋滞している顔。


「……閣下」


「ああ」


 それだけだった。しばらくの間、それだけだった。


 街道の上で、朝の風が二人の間を吹き抜けた。


 レオン隊長が馬車の横で直立不動になっている。気配を消そうとしているが、鎧が朝日を反射して全く消えていない。


 後ろから馬が一頭、近づいてきた。


 クルトだった。


「令嬢、おかえりなさい」


 クルトの目が赤い。泣いていた——のか、泣きそうなのか。


「閣下は審問の日からずっとここに立っておられました」


「……ずっと?」


「はい。毎朝、夜明け前にここに来て、日が暮れるまで立っていました。雨の日も」


 エリーゼはヴォルフを見た。


 ブーツに泥がこびりついていた。シャツの袖口が擦り切れていた。頬が少しこけている。


 何日も——何日も、ここに立っていたのだ。


 エリーゼが王都で審問を受けている間、この人は何もできずに、ただ街道に立って、南から来る馬車を待っていた。


 北の鉄壁が。


 千の敵を前にしても揺るがない男が。


 一本の街道の上で、一人の女を待つことしか——できなかった。


「閣下……」


「ヴォルフでいい」


「え?」


「閣下はやめろと——いや。そうではなく」


 ヴォルフが言葉に詰まった。


 この人が言葉に詰まるのを、何度も見てきた。帳簿を見てくれと言ったとき。個人的な感情だと言ったとき。帰ってこいと言ったとき。


 いつも——大切なことを言おうとするとき、この人は詰まる。


「……業務外だ」


 低い声だった。


「これは完全に、個人的な行動だ」


 業務ではないと。国境警備でも、通商協定でも、安全保障でもないと。


 何の建前も、何の名目もなく——ここに立っていたのだと。


 エリーゼの目から、涙が溢れた。


 止められなかった。昨夜馬車の中で泣いたばかりなのに、また。


 ヴォルフの表情が変わった。慌てている。「北の鉄壁」が、女の涙を前にして、完全に動揺している。


「な——泣くな。俺は——俺が何かしたか?」


「何もしていません。何もしていないから泣いているんです」


「意味がわからない」


「私もわかりません」


 嘘だ。わかっている。


 この人が何もせずにただ待っていてくれた——それだけのことが、どれだけ嬉しいか。


 前世でも今世でも、自分を待っていてくれた人は——いなかった。


 深夜のオフィスで倒れても。婚約を破棄されても。辺境に追放されても。


 誰も、待っていなかった。


 でもこの人は——何日も、街道に立っていた。何もできないまま。将軍としての力を全て封じられて。ただ、待つことだけを選んだ。


 それは——剣で千の敵を斬るより、ずっと難しいことだったはずだ。


 ヴォルフの手が動いた。


 今度は——止まらなかった。


 エリーゼの肩に触れた。それから——引き寄せた。


 不器用だった。力の加減がわからないみたいに、ぎこちなかった。


 でも——温かかった。


 ヴォルフの胸に、顔を埋めた。


 鎧がない。シャツ越しに、心臓の音が聞こえる。


 速い。この人の心臓も、速い。


 (……ああ。この人も、怖かったんだ。ずっと)


「……勝ったのか」


 頭の上から、低い声がした。


「勝ちました。証拠書類で」


「……そうか」


「聖女は追放。宰相は罷免。エルデ領は世襲領になりました」


「そうか」


「あと、殿下に婚約破棄の手続き不備を指摘しました」


「…………それは、聞きたくなかった」


「え?」


「あの男の話は——今はいい」


 ヴォルフの腕が、少しだけ強くなった。


 (……もしかして、殿下の話が出て嫉妬した? この期に及んで?)


 嬉しい、と思った。嬉しいと思った自分に驚いた。


 どのくらい——そうしていたのかわからない。


 クルトの咳払いが聞こえた。控えめな咳払い。「そろそろ離れないと、護衛兵たちが目のやり場に困っています」という意味の咳払い。


 二人は——離れた。


 名残惜しそうに。ゆっくりと。


 エリーゼは——自分から手を伸ばした。


 ヴォルフの手を、掴んだ。


 大きくて、硬くて、温かい手。何日も街道で風に晒されて、少し荒れている手。


 握った。強く。


 ヴォルフの体が固まった。石のように。呼吸すら止まったように。


 それから——ゆっくりと、握り返してきた。


 不器用に。加減がわからないように。でも——離さないように。


「二度と一人で行かせない」


 ヴォルフの声が震えていた。


「次は俺も行く。……お前の隣に」


「閣下——」


「ヴォルフだと言っている」


「……ヴォルフ、さん」


 初めて、名前で呼んだ。


 ヴォルフの体がもう一度固まった。耳が赤くなった。首まで赤くなった。今度は——手まで赤かった。握られている手が、熱を持っている。


「……もう一度」


「え?」


「もう一度、呼んでくれ」


 エリーゼは——少し恥ずかしかった。でも、この人がこんな顔で頼んでいるのだ。断れるわけがない。


「…………ヴォルフさん」


 碧い目が、揺れた。


 この人が——泣きそうな顔をしているのを、エリーゼは初めて見た。


 泣かなかった。でも、限りなく近かった。


 エリーゼは握った手をもう一度、強く握った。


「ヴォルフさん」


「……三度目は心臓に悪い」


「じゃあ、帰ってから何度でも呼びます」


「…………」


 ヴォルフが前を向いた。耳だけが、ずっと赤かった。


 クルトが後ろで天を仰いでいた。レオン隊長が顔を背けていた。護衛兵が鼻をすすっていた。


 街道の上に、朝の光が満ちていた。


「……帰るぞ」


 ヴォルフが言った。


「家に」


 家。


 エルデ領。あの荒れ地から始まった、小さな村。フィンがいて、マルグリットがいて、ハンコがいて、護衛兵たちがいる場所。


 帰る場所。


 エリーゼは頷いた。


「はい。帰りましょう」


 手を繋いだまま、歩き出した。


 ヴォルフの手は大きかった。エリーゼの手をすっぽり包んでいた。


 歩調が合わなかった。ヴォルフの一歩が大きすぎて、エリーゼが小走りになる。ヴォルフが気づいて歩幅を縮める。今度は小さすぎて、ぎこちない。


 二人とも、手を繋いで歩くのが——下手だった。


 どちらも、やったことがなかったから。


 前世でも。今世でも。


 それでも——離さなかった。


 歩きながら、エリーゼは審問の結果を伝えた。手短に。数字と事実だけを。


 ヴォルフは黙って聞いた。時々、握った手に力が入った。グラーフの罷免のとき。ルナリアの追放のとき。そしてエルデ領の世襲領認定のとき——一番強く、握った。


「……よくやった」


 それだけ言った。


 それだけで十分だった。


 街道に木漏れ日が落ちている。北に向かう道。辺境に続く道。


 二人の歩調が——少しずつ合ってきた。


 クルトが馬車に戻って、レオンに言った。


「隊長、あの二人は放っておけ。馬車は後ろからゆっくりついていこう」


「了解であります。……副官殿、目が赤いですよ」


「風だ」


「風、でありますか」


「風だと言っている」


 馬車がゆっくりと動き出した。


 街道を歩く二人の影が、朝日に照らされて長く伸びている。


 大きな影と、小さな影。


 手と手が繋がった、一つの影。


 丘を越えたとき、エルデ領が見えた。


 煙が上がっている。パンを焼く煙だ。市場の喧騒が、風に乗ってかすかに聞こえる。水路が朝日を反射して光っている。


 半年前の荒れ地が——生きている村が、そこにあった。


「……きれいな村だ」


 ヴォルフが言った。


「ええ」


 エリーゼは頷いた。握った手に、力を込めた。


「ただいま」


 辺境へ。


 二人の家へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ