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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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21話 閣下との距離が近すぎます──執務規則の見直しを提案します

 体調が回復してから、ヴォルフの行動が変わった。


 正確に言えば——加速した。


 最初の命令は、食事だった。


「栄養管理のため、今後は俺と食事を取れ」


 朝食。昼食。夕食。一日三回。ヴォルフの砦にいるときも、エルデ領にいるときも。ヴォルフがわざわざ馬を飛ばして来ることもあった。片道半日の距離を、昼食のためだけに。


「閣下、軍務に支障が出ませんか」


「出ない」


「出てると思います」


「出ていない。栄養管理は業務効率の基盤だ」


 反論の余地がない——わけではないが、反論する気力がなかった。正直に言えば、一緒に食べる食事は美味しかったのだ。


 マルグリットの料理を二人で食べる。ヴォルフは相変わらず「悪くない」しか言わないが、おかわりは毎回する。


 三日目の朝食で、事件が起きた。


 マルグリットが焼き菓子を出した。蜂蜜をかけた甘いパンケーキ。


 ヴォルフの目が——動いた。


 ほんの一瞬。甘い物を見た瞬間の、子どものような目。すぐに無表情に戻ったが、エリーゼは見逃さなかった。


 (クルト副官が言っていた。「甘い物が好きだが人前では絶対に食べない」と)


 エリーゼは何も言わず、自分のパンケーキをヴォルフの皿に一枚移した。


「……何だ」


「私は甘い物をそんなに食べないので。残すのはもったいないですし」


「…………」


 ヴォルフが、黙ってパンケーキを食べた。


 三枚全部食べた。


 フィンが横で「ねえちゃん、さっき蜂蜜おかわりしてたよね」と言おうとして、エリーゼの視線で黙った。


 次の命令は、散歩だった。


「冬季の健康管理として、毎日30分の歩行を命じる」


「一人で歩けます」


「俺も健康管理が必要だ。合同で行う方が効率的だ」


「閣下の健康管理は軍医の管轄では」


「歩くぞ」


 毎日、夕方になるとヴォルフが現れる。二人で村の周りを歩く。薬草畑の横を通り、水路沿いを歩き、丘の上まで行って帰ってくる。


 護衛のレオン隊長が後ろをついてくるが、10歩——ではなく、30歩ほど離れていた。


「レオン隊長、距離が伸びていませんか」


「閣下の命令で、散歩中は30歩に変更されました」


「なぜ30歩に」


「不明であります。ただ、30歩ですと会話の内容は聞こえません」


 (……聞こえないようにした、ということでは)


 散歩中の会話は、最初は仕事の話だった。通商協定の運用状況、讒言対策の進捗、灌漑設備の維持管理。


 でも徐々に——仕事以外の話が混ざり始めた。


「閣下、子どもの頃は何になりたかったんですか」


「……考えたことがない。生まれたときから、将軍になると決まっていた」


「選べなかったんですか」


「選ぶ必要がなかった。……いや」


 ヴォルフが少し黙った。


「選ばなかったのかもしれない。考えることを、やめていた」


「今は?」


「……今は、考えることがある」


「何をですか」


「…………」


 答えなかった。でも——横を歩くエリーゼを、ちらりと見た。


 ちらりと。


 (……今、見ましたね閣下)


 気づかないふりをした。気づいたら、たぶんこの人は黙ってしまうから。


 別の日の散歩。夕暮れの丘の上で、二人で並んで立った。


 エルデ領の街並みが眼下に広がっている。灯りが一つ、二つと灯っていく。半年前は真っ暗だった景色に、今は数十の灯がある。


「……きれいな村になった」


 ヴォルフが言った。


「閣下のおかげでもあります。水路も、通商も——」


「俺がやったのは、石を運んだことと印を押したことだけだ。この景色を作ったのはお前だ」


「……いつも思うんですが、閣下は人を褒めるのが上手ですね」


「褒めていない。事実を述べている」


「それを褒め上手と言うんです」


 ヴォルフが黙った。それから、ぽつりと言った。


「……俺は、人を褒めたことがほとんどない。褒め方を知らなかった」


「今は?」


「お前の前でだけ——言葉が出てくる。なぜかは、わからない」


 (わからない、か。……私にはわかりますよ、閣下)


 でも言わなかった。この人が自分で気づくまで、待ちたかった。


 ——いや、本当はもう気づいているのだ。この人も。ただ、名前をつけるのが怖いだけ。


 二人とも、同じだ。


 そして三つ目の命令。


 ある朝、エリーゼが領主館の執務室に入ると——机が増えていた。


 自分の机の横に、もう一つ。大きな、頑丈な机。椅子も置いてある。


「……これは?」


 後ろからヴォルフの声がした。


「書類の受け渡し効率化のため、俺もここで執務する」


「ここで。私の執務室で」


「砦との往復で書類の受け渡しに時間がかかる。同じ場所で執務した方が効率的だ」


 エリーゼは机の配置を見た。二つの机は、腕を伸ばせば届く距離に並んでいる。


 隣同士だ。


 椅子に座ったら、肩と肩の距離は——50センチもない。


「……閣下、一国の将軍が辺境の領主館で執務するのは、さすがに——」


「国境地帯の安全保障上、前線に近い場所での執務は合理的だ」


「それは砦の方が前線に近いのでは」


「ここの方が書類の質が高い」


 (書類の質で執務場所を選ぶ将軍がどこにいますか)


「……閣下」


「何だ」


「これ全部、業務命令の体裁をとった——」


「業務命令だ」


 真顔だった。碧い目が真っ直ぐこちらを見ている。微塵も揺らがない。


 嘘をつくのが下手な人だ。嘘をつくのが下手なのに、嘘をつき続けている。業務、効率化、健康管理。全部、建前だ。


 わかっている。エリーゼには、もうわかっている。


 この人が本当に言いたいのは——「そばにいたい」だ。


 たったそれだけのことを、業務命令でしか言えない人。


 でも——いつまでも、このままではいけない。


「閣下」


 エリーゼは椅子から立ち上がった。ヴォルフと向き合った。


「もう少し正直になってください」


 ヴォルフの目が、わずかに揺れた。


「……正直に、か」


「はい」


「正直になったら——」


 声が低くなった。


「お前は逃げるだろう」


 逃げる。


 この人は——怖がっている。


 正直に気持ちを伝えたら、エリーゼが離れていくと思っている。


 だから業務命令に隠す。建前で包む。「そばにいたい」を「効率化」に翻訳する。


 怖いから。失うのが怖いから。


 エリーゼの胸が、きゅっと締まった。


 ——あなたがそんなに怖がっているのに、私だけ安全な場所にいるわけにはいかない。


「逃げません」


 即答した。


 自分でも驚くほど、はっきりと。


「逃げません。私は——」


 ヴォルフの碧い目が、見開かれた。


 二人の間の空気が変わった。


 50センチの距離が——30センチになった。20センチになった。


 ヴォルフの手が動いた。エリーゼの頬に——触れようとした。


 大きな手。震えている。「北の鉄壁」の手が。


 エリーゼは逃げなかった。目を閉じなかった。


 この人の目を見ていたかった。この人が怖がりながらも手を伸ばす、その瞬間を——


 にゃあ。


 足元で、鳴き声がした。


 ハンコだった。


 三毛猫は、完璧なタイミングで二人の間に割り込んできた。ヴォルフの足に体を擦りつけ、そのままエリーゼの膝に飛び乗った。


 ヴォルフの手が止まった。


 エリーゼの膝にハンコ。ヴォルフの鼻がひくつく。


 くしゃみ。


「…………」


「…………」


 猫アレルギーの将軍が、涙目で立ち尽くしている。


 さっきまでの甘い空気が、跡形もなく消し飛んだ。


「……ハンコ」


 エリーゼが低い声で言った。


「あなた、空気を読む気はないの」


 にゃあ。


 全くない顔をしていた。


 ヴォルフが目を擦りながら、一歩下がった。


「……また、な」


「え?」


「また——ちゃんと話す。今度は猫のいないところで」


「……はい」


 ヴォルフが部屋を出ていった。くしゃみが廊下に響いた。


 エリーゼは膝の上のハンコを見下ろした。


「…………」


 ハンコがごろごろと喉を鳴らしている。悪びれる様子は一切ない。


「ハンコ。あなたのことは大好きだけど、今日だけは——恨むわよ」


 にゃあ。


 エリーゼは椅子に座ったまま、天井を仰いだ。


 心臓がまだ速い。指先がまだ震えている。


 (「逃げません」って、言った。言ってしまった。言った後に何を続けるつもりだったんだろう。「私は」——の後、何を言おうとした?)


 わかっている。本当は、わかっている。


 でもまだ——言えなかった。


 猫に邪魔されたのは、もしかしたらちょうどよかったのかもしれない。


 まだ、準備ができていないから。


 (でも——次は。次こそは)


 ヴォルフが「猫のいないところで」と言った。


 つまり——次がある。


 エリーゼは少しだけ笑って、仕事に戻った。


 隣の机は、空だった。さっきまでヴォルフがいた場所。


 椅子がまだ温かい。


 ——早く、戻ってきてほしい。


 仕事のために。


 ……仕事の、ために。

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