20話 体調管理は業務の一環です──閣下が看病してくれなくていいです
倒れたのは、間者の証拠書類を書き上げた直後だった。
最後の一枚に署名して、インクを乾かして、封筒に入れて——立ち上がろうとした瞬間、視界が回った。
天井と床が入れ替わる感覚。膝から力が抜けて、体が傾いで——
「ねえちゃん!」
フィンの声が遠い。
床に着く前に、誰かの腕が受け止めた。レオン隊長の腕だった。
そこから先の記憶が、曖昧だ。
寝台に運ばれた。マルグリットが額に手を当てて「熱がある」と言った。フィンが走っていった。誰かに知らせに。
(……倒れた? 私が? まだ仕事が)
体が動かなかった。意志と体が切り離されている。
瞼が重い。思考が散らばる。帳簿の数字が頭の中でバラバラに浮かんでは消える。
(封筒は……ちゃんと封蝋を……あと、フィンに明日の出荷記録を……それと……)
意識が、沈んだ。
夢を見た。
前世の夢だ。深夜のオフィス。蛍光灯の白い光。机の上に書類の山。
隣の席は空だ。向かいの席も空だ。課の全員がとっくに帰っている。
自分だけが残っている。いつも、自分だけが。
キーボードを打つ手が止まらない。止められない。止まったら、明日の朝に間に合わない。
喉が渇いている。いつからだろう。自販機に行く時間すら惜しい。
視界が霞む。瞼が落ちそうになる。頬を叩く。まだだ。まだ終わっていない。
——ここで倒れたんだっけ。前世では。
救急車で運ばれて。医者に「過労です」と言われて。上司に「困るなぁ」と言われて。
誰も看病には来なかった。
一人で点滴を受けて。一人で退院して。翌週にはもう出勤していた。
そんな夢だ。
でも夢の中で、何かが違った。
深夜のオフィスに、足音が聞こえる。
誰もいないはずの廊下を、重い足音が近づいてくる。鎧が擦れる音。革のブーツ。
蛍光灯の光の中に、場違いな銀色の髪が見えた。
——夢だ。夢だとわかっている。こんな場所にあの人がいるはずがない。
でも夢の中のヴォルフは、エリーゼの机の前に立って、言った。
「帰るぞ」
……帰る? どこに?
「家に」
——目が覚めた。
熱い。
体が熱い。布団が重い。息が苦しい。
夢と現実の境界が曖昧だ。蛍光灯の白い光はもうない。代わりに、蝋燭の橙色が揺れている。
木の天井。石の壁。領主館の寝室だ。ここは——エルデ領。前世ではない。今の、自分の家。
額に何かが触れた。冷たくて、大きくて——
手だ。誰かの手。濡れた布を額に当てている。不器用な手つきで。慣れていない手つきで。
エリーゼは薄く目を開けた。
視界がぼやけている。熱のせいだ。輪郭がにじんで、色が混ざって、世界が水彩画みたいだ。
でも——銀色だけが、はっきり見えた。
「……かっ、か」
「喋るな」
低い声。近い。すぐそばにいる。
「ヴォ……ルフ、さ……」
「閣下でいい。いや——何でもいい。喋るな。寝ろ」
声が震えている。
この人の声が震えるのを、エリーゼは初めて聞いた。
(……なんで、いるんだろう。この人が。ここに)
意識が途切れ途切れになる。時間の感覚がない。
次に目を開けたとき、部屋の中の空気が変わっていた。何かの匂い。食べ物の——匂い?
「……っ」
体を起こそうとした。起き上がれなかった。腕に力が入らない。
「動くな」
ヴォルフがそこにいた。
椅子に座って——いや、椅子ではなかった。床に膝をつけて、寝台の横にいた。手に——何か持っている。
器だ。木の器。中に——スープ?
「食べられるか」
「……閣下が、作ったんですか」
「マルグリットに教わった」
エリーゼは信じられない思いでヴォルフを見た。ぼやけた視界でも、この人が割烹着を着ていないことだけはわかった。鎧は外している。シャツの袖がまくってある。
クルトの証言が後に判明する。
将軍は知らせを受けた瞬間、剣すら置いて馬に飛び乗った。砦からエルデ領まで、通常半日の道のりを4時間で走った。着くなり「何か食わせろ」と言い、マルグリットに「スープの作り方を教えてくれ」と頼んだ。将軍がこれほど取り乱したのは、20年の副官生活で初めてだった。
エリーゼはスープを一口すすった。
「…………」
「……どうだ」
「しょっぱいです」
正直に言ってしまった。熱で、嘘をつくフィルターが壊れている。
ヴォルフが黙った。
肩が、少し落ちた。
——いつもは無表情のこの人が、スープの感想で肩を落としている。
(だめだ。この人を、がっかりさせてはだめだ)
「でも——全部飲みます」
エリーゼは器を両手で持った。手が震えている。熱のせいだ。
一口。しょっぱい。二口。やっぱりしょっぱい。三口。慣れてきた。四口。なんだか——温かい。
全部飲んだ。器が空になった。
「……ごちそうさまでした」
ヴォルフが器を受け取った。大きな手が、微かに震えていた。
「……無理をするな」
「無理ではありません。美味しかったです」
「嘘をつくな。しょっぱいと言っただろう」
「しょっぱかったけど、美味しかったんです。矛盾していますが、本当です」
(この人が私のために作ってくれた。それだけで——味なんて、どうでもよくなる)
熱のせいで、思考の壁が薄い。普段なら言わないことが、口から漏れそうになる。
「閣下」
「何だ」
「……なんで、来てくれたんですか」
「お前が倒れたと聞いた」
「聞いただけで——馬を飛ばして?」
「当然だ」
「当然じゃないです。閣下には公務が——」
「体を壊されると、困る」
「業務に支障が出ますもんね」
「違う」
ヴォルフの声が、低く、静かになった。
「……お前がいないと、困るんだ」
業務に支障が出るから、ではない。
お前がいないと。お前が。
エリーゼの目から、涙が溢れた。
止められなかった。熱で弱っているせいだ。普段なら——泣かない。泣いたらインクが滲むから。でも今はペンを持っていない。書類もない。
あるのは、しょっぱいスープの温かさと、この人の声だけだ。
「……泣くな」
「泣いてません」
「泣いている」
「これは……発熱に伴う生理現象です」
「そうか」
ヴォルフはそれ以上何も言わなかった。
ただ、エリーゼの手を取って——静かに、握った。
大きな手。剣ダコだらけの、硬い手。でも、握り方は驚くほど優しかった。
エリーゼは握り返した。力が入らなくて、きっと弱い握り方だっただろう。
でも、離さなかった。
「……寝ろ」
「はい」
「明日も、明後日も、ここにいる」
「公務が——」
「いる」
一言。有無を言わせない一言。
エリーゼは目を閉じた。
手を握られたまま。温かい手。大きな手。
意識が沈んでいく。今度は——深夜のオフィスの夢ではなかった。
暖かい場所にいる夢だった。
翌朝。
目が覚めた。
熱は下がっていた。頭がすっきりしている。体はまだ重いが、思考は戻っている。
最初に見えたのは——銀色の髪だった。
ヴォルフが、寝台の横の椅子に座ったまま眠っていた。
首が不自然な角度に曲がっている。鎧は外したまま。シャツが皺だらけになっている。
そして——右手が、エリーゼの左手を握ったままだった。
一晩中、握っていたのだ。
エリーゼは動かなかった。手を引くこともできた。でも——しなかった。
この手を離したくなかった。
もう少しだけ。もう少しだけ、このまま。
窓から朝日が差し込んでいた。ヴォルフの銀色の髪が、金色に光っている。
寝顔を見るのは初めてだった。起きているときより——ずっと穏やかで、ずっと若く見える。
眉間の皺がない。口元が少し開いている。将軍でも鉄壁でもない、ただの男の顔。
(この顔を見られるのは——たぶん、世界で私だけだ)
そう思ったら、また泣きそうになった。
でも今度は——堪えた。
泣いたら、この人が目を覚ましてしまうから。
エリーゼは握られた手に、そっと力を込めた。
ありがとう、と。
声に出さずに。手のひらだけで。




