2話 辺境の赴任先が廃墟でした
引き継ぎには、きっちり2週間を使った。
決算報告書の仕掛かり分を片付け、担当業務の申し送り書を作成し、書庫の整理目録を更新した。後任は決まっていない。おそらく決めるつもりもないのだろう。
(私がいなくなった後の決算、誰がやるんだろう。……まあ、知ったことではない。退職者に責任はない。ないったらない)
辞令書は3日目に届いた。婚約破棄の正式書面は10日目。慰謝料の条項は見事に空欄だった。
(……やっぱりね。でもいい。受領印は押した。写しも取った。いつか使う日が来る)
そして2週間後——エリーゼは王都を発った。
見送りは、なかった。
馬車に揺られること5日。
石畳の街道が土の道に変わり、商人の往来が消え、畑が荒れ地に変わった。最後の1日は、道ですらなかった。
(……前世の離島出張を思い出す。あのときはフェリーで6時間揺られて、着いた先の役場にエアコンがなかった)
窓の外を見る。灰色の空。枯れた草原。遠くに見える山脈は雪を被っている。
北部辺境。クラウゼン公国との国境付近。
「お客さん、着きましたよ。エルデ領です」
御者が馬車を止めた。
エリーゼは降りて——立ち尽くした。
廃墟だった。
石造りの建物が数軒。屋根が半分崩れたもの、壁に蔦が絡まったもの。かろうじて原型を留めている家屋は十軒ほどだろうか。
道の真ん中に鶏が歩いている。柵が壊れたらしい。
領主館と思しき建物は、正面の扉が蝶番ごと外れていた。
「…………」
(——固定資産台帳は、まず存在しないだろうな。この建物、減価償却どころか残存価値がゼロに見える)
事前調査計画書に書いた「インフラは期待できない」が、控えめすぎたことを知る。
鶏がエリーゼの足元まで来て、じっと見上げた。
エリーゼも、じっと見下ろした。
「……あなた、家畜台帳に登録されてます?」
鶏は答えなかった。当然だ。
「あんたが新しい領主かい」
声がした。
振り向くと、腰に手を当てた女性が立っていた。赤毛を後ろで束ね、日に焼けた肌。エプロンには粉がついている。パンを焼いていたのだろう。
「マルグリットだよ。一応、この村の元村長代理。まあ、村長が逃げてからはあたしが仕切ってるけどね」
「エリーゼ・ヴァイスフェルトです。本日付で着任いたしました」
「ヴァイスフェルト……子爵家の? はぁ、また左遷されてきた方ですか」
「また?」
「前の領主もそう。王都で何かやらかして飛ばされてきた貴族のボンボンだったよ。税だけ搾り取って、半年で逃げた」
マルグリットの口調には、諦めと皮肉が混じっていた。
新しい領主なんて期待していない。どうせまた同じだろう。そういう目をしている。
(——わかる。前世で「地方創生」を掲げて赴任してきた国のキャリア官僚が、3ヶ月で東京に帰ったときの、住民の目と同じだ)
でも、エリーゼには帰る場所がない。王都に戻る椅子はもうない。
だから——ここで仕事をするしかない。
いや。「しかない」ではない。
ここで仕事を「する」のだ。
「マルグリットさん。いくつか質問してもよろしいですか」
「なんだい」
「この村の世帯数は?」
「……十世帯。いや、先月ひと家族出ていったから、九かね」
「主な生計手段は」
「畑仕事。でも土が痩せてて、ろくに育たない」
「税の徴収記録はどこに?」
「帳簿なんて立派なもんはないよ。前の領主が持っていったか、燃やしたか」
「水源は」
「山の湧き水を汲みに行ってる。片道半刻はかかるね」
「周辺で採れる特産品は」
「特産? こんな荒れ地に——」
マルグリットが少し考えて、首を傾げた。
「……強いて言えば、裏の森に薬草が自生してるね。たまに行商人が買いに来るけど、二束三文だよ」
薬草。
エリーゼの目が変わった。
マルグリットは、その変化を見逃さなかった。
「……あんた、今すごい顔してるよ」
「失礼。少し興奮しました」
「薬草ごときで?」
「薬草は立派な地域資源です。二束三文なのは、おそらく仲買人に買い叩かれているからでしょう。品質と供給量次第では、薬師ギルドへの直接取引で単価を数倍にできます」
「…………」
「あと、加工すればさらに付加価値がつきます。乾燥、粉末化、軟膏への調合。前世——いえ、以前の職場で学んだ地域おこしの、えっと、手法がありまして」
危うく「前世」と言いかけた。
マルグリットが怪訝な顔をしている。
「……あんた、本当にただの令嬢かい?」
「ただの事務官です」
嘘ではない。前世が地方公務員なだけだ。
「それと、もうひとつ聞いてもいいですか」
「まだあるのかい」
「国境の向こう——クラウゼン公国とは、交易の実績はありますか」
「ないね。あっちは軍人の国だよ。『北の鉄壁』とかいう怖い将軍がいるって話だ。国境を越えようなんて村人はいないよ」
北の鉄壁。
エリーゼはその言葉を頭の片隅に留めた。
(隣国との通商ルートが開ければ、この立地は一気に化ける。問題は、軍事国家との交渉をどう進めるか……)
「マルグリットさん、ご協力感謝します。明日、薬草の自生地を案内していただけますか」
「……いいけど。あんた、まず領主館に荷物を入れなよ。日が暮れるよ」
領主館の中は、外見以上にひどかった。
埃が積もった床。蜘蛛の巣だらけの天井。家具は最低限しかなく、その最低限すら壊れている。
(……前世で配属された出先機関の分室を思い出す。エアコン故障、雨漏り、ネズミ。あのときも「予算がない」の一言で片付けられたっけ)
荷物を降ろす。着替えは最低限。代わりに、羊皮紙の束と筆記用具がトランクの半分を占めている。
同僚に「夜逃げする人の荷物じゃない」と言われた。知ったことではない。事務官にとって筆記用具は武器だ。
壊れかけの机を窓際に引きずり、椅子を据える。
そして——帳簿を探し始めた。
書棚を片端から調べる。引き出しを開け、戸棚を覗き、床板の下まで確認する。
出てきたのは、虫に食われた紙の束。
かろうじて読める部分を拾い読みしていく。
——目つきが、変わった。
税の二重徴収。使途不明金。記録の欠損。日付の改竄。同じ日付で異なる金額が記載された領収書が三枚。支出項目に「雑費」としか書かれていない高額出費が五件。
前世の税務課時代、脱税調査で帳簿を調べたときと同じパターンだ。
素人の横領は、いつも手口が同じ。
「……前任者、横領してますね」
声が冷たかった。自分でも驚くほどに。
この帳簿の向こうに、九世帯の生活がある。搾取されるだけ搾取されて、何も還元されなかった人たちの暮らしがある。
(——怒るのは後。まずは証拠の保全。それから実態調査。話はそれからだ)
虫食いの帳簿を丁寧に広げ、読み取れる数字をすべて書き写す。
白紙の羊皮紙に、新しい台帳のフォーマットを引き始めた。
『エルデ領 現状調査票(暫定版)』
人口。世帯数。年齢構成。生計手段。税収見込み。インフラ状況。教育。医療。水利。土地利用。特産品。周辺国との関係。
(住民台帳がないから、一軒一軒回って聞き取りだ。前世の国勢調査の要領で——)
ペンが止まらない。何百回と書いた調査票のフォーマットが、手に染みついている。
暖炉に火を入れる。ようやく部屋が温まり始めた頃——
足元で、何かが動いた。
「……?」
見下ろすと、猫がいた。
三毛猫。痩せている。野良だろう。壊れた扉の隙間から入り込んだらしい。
猫はエリーゼの足元をくるりと回って、膝の上に飛び乗った。
小さくて、温かい。
ごろごろと喉を鳴らしている。
「……あなた、どこから来たの」
猫は答えない。代わりに、エリーゼの手に頭を押しつけてきた。
——不意に、目の奥が熱くなった。
王都を出てから、誰にも触れていなかった。
見送りもなく、馬車に5日揺られ、廃墟に着いた。マルグリットの目は「また来たか」という諦めの色だった。
でもこの猫だけは、エリーゼの膝を選んだ。
温かかったから。それだけだろう。
でも——今は、それだけで十分だった。
「……名前、つけてもいいかな」
猫が顔を上げた。丸い目がエリーゼを見つめている。
少し考えて——エリーゼは笑った。
ここに来て初めての、小さな笑み。
「ハンコ。あなたの名前は、ハンコよ」
(決裁印がないと何も始まらない。あなたが私の最初の決裁印)
三毛猫のハンコは、にゃあ、と一声鳴いて、エリーゼの膝で丸くなった。
窓の外は、もう真っ暗だ。遠くに山脈の稜線が見える。あの向こうが、クラウゼン公国。「北の鉄壁」の将軍がいるという国。
エリーゼは猫を膝に乗せたまま、調査票に戻った。
書き出した項目の横に、ひとつずつ対策案を書き加えていく。
水利——灌漑設備の設計が必要。薬草——品質調査の上、直接取引ルートを開拓。住居——最低限の修繕から。教育——識字率の向上が急務。国境交易——隣国との接触方法を検討。
気づけば、羊皮紙が3枚目に突入していた。
「問題点42件」
呟く。
「改善施策……18件」
ペンを置いて、深呼吸をした。
膝の上のハンコが寝息を立てている。
42件の問題と、18件の施策。前世の企画政策課時代に比べれば——議会の承認も、上司の決裁も、財務省の査定もいらない。全部、自分で決められる。
口元が持ち上がった。
「さて、ハンコ」
眠る猫の頭をそっと撫でる。
「ここから——楽しくなるわよ」




