19話 不審な情報提供がありました──王都から間者が来ています
最初に気づいたのは、インクの色だった。
朝の執務。いつも通り帳簿を開いた。薬草の出荷記録。昨日の分を確認する。
——違う。
エリーゼの手が止まった。
数字は合っている。記載内容にも、一見して不備はない。
でも——インクの色が、微かに違う。
エリーゼが使っているのは、バルトハイムの文具店で仕入れた黒インクだ。鉄と胆汁ベースの標準品。乾くと青みがかった黒になる。
帳簿の一箇所だけ、乾いた色が赤みを帯びていた。
同じ黒インクに見えるが、成分が違う。別のインクで書かれている。
つまり——誰かが、この帳簿に手を加えた。
「フィン」
「ん?」
「昨日、この帳簿に触った?」
「触ってないよ。昨日の記帳はねえちゃんが全部やったでしょ」
「私以外に、この部屋に入った人は?」
「……レオン隊長が巡回の報告に来たくらいかな。あと、昨日の夕方、村に来た旅の商人が領主館を訪ねてきたけど」
「商人?」
「うん。バルトハイムから来たって言ってた。薬草の取引について相談したいって。ねえちゃんが砦に行ってる間だったから、マルグリットさんが対応して帰した」
エリーゼの目が細くなった。
「その商人、領主館のどこまで入った?」
「えっと……応接間で待ってたけど、途中でお手洗いに行くって言って——」
「お手洗いの方角は、この執務室の前を通る」
フィンの顔色が変わった。
「ねえちゃん、まさか——」
「帳簿に触った人間は特定できます」
エリーゼは帳簿を丁寧に開いた。改竄された箇所を、指で触れずに目だけで追う。
変えられていたのは、クラウゼン公国との取引記録だった。数字が微妙にいじられている。本来の取引額より大幅に多い金額に書き換えられ、かつ「軍事物資」という品目が追加されていた。
(なるほど。薬草の通常取引を「軍事物資の横流し」に見せかけようとしている。これが「通敵の証拠」として王都に送られたら——)
エリーゼの中で、何かが冷たく燃え始めた。
怒りだ。
帳簿を改竄された。
自分が一枚一枚、正確に記録してきた帳簿を。フィンが毎日集計し、マルグリットが見守り、村人たちの暮らしの土台となっている帳簿を。
汚された。
「フィン」
「は、はい」
「この村に来た『商人』の特徴を、できるだけ詳しく教えて」
エリーゼの声は静かだった。いつもの事務的な声だ。
でもフィンは——この声が一番怖いことを、もう知っていた。
「えっと……三十代くらいの男。茶色い髪。右手に火傷の痕があった。荷物は小さい。商人にしては荷が少ないなって思った」
「服装は」
「商人の旅装だけど、靴が妙にきれいだった。長旅してない感じ」
「他には」
「……あ、そうだ。インクの染みが指先にあった。商人なら帳簿をつけるからおかしくないけど、左手の薬指だったんだ。左利きってこと?」
「よく見てたわね、フィン」
「ねえちゃんに鍛えられたからね。『観察は帳簿の基本』って」
エリーゼの口元が少し緩んだ。すぐに引き締めた。今は笑っている場合ではない。
マルグリットが来た。
「商人のことかい? あたしも話すよ」
「お願いします」
「三十代の男で、愛想は良かった。でも——商人にしちゃ、物を売る気がなかったね。薬草の取引がどうとか言ってたけど、具体的な数字を一つも出さなかった。商売人なら真っ先に価格の話をするだろう?」
エリーゼは頷いた。マルグリットの観察眼は鋭い。村長代理をやっていただけのことはある。
「それと——お手洗いに行くって言って出た後、戻ってくるまでに随分かかったんだ。おかしいとは思ったけど、道に迷ったのかと」
「その間に執務室に入った。帳簿を書き換えるのに必要な時間は、慣れた人間なら5分もあれば足りる」
エリーゼはペンを取った。
帳簿の改竄箇所の文字を、じっと見る。
筆圧。ペンの傾き。文字の流し方。
——左利きの筆跡だ。
「間違いない。この『商人』が帳簿を書き換えた」
エリーゼは新しい羊皮紙を広げた。
証拠の整理を始める。
改竄箇所の特定。インクの違いの記録。書き換えられた数字の原本との照合。筆跡の分析。フィンの証言の記録。
全てを一枚の報告書にまとめていく。
「フィン、マルグリットさんを呼んできて。あの商人の顔を覚えているか確認したい。それと、レオン隊長にも伝えて。村に入った人間の記録を提出するように」
「わかった」
フィンが走っていった。
エリーゼは一人、帳簿に向かった。
改竄された数字を見つめる。
(——許さない)
前世で見てきた。公文書の改竄がどれだけ重い罪か。どれだけ多くの人を傷つけるか。
数字を信じて生きてきた人間にとって、帳簿の改竄は——最大の侮辱だ。
2時間後。ヴォルフの砦に急使を送った。
さらに3時間後。ヴォルフが来た。今回も速い。書簡ではなく本人が来るあたり、もう驚かない。
「報告書を読んだ。間者か」
「はい。帳簿を改竄して通敵の証拠を捏造しようとした。おそらく、この偽の帳簿を王都に送って、私を告発するつもりだったのでしょう」
エリーゼが証拠を広げた。改竄箇所、インクの分析結果、筆跡の照合。
ヴォルフが一枚ずつ確認していく。
「……相変わらず、完璧な証拠整理だ」
「帳簿に触った人間は特定できます。筆跡鑑定とインクの調合が違いますから」
「間者の身元は」
「まだ特定できていません。ですが、フィンの証言から特徴は掴めています。バルトハイムの宿屋を当たれば、足取りが追えるはずです」
「クルトに手配させる。国境を越える前に捕まえる」
ヴォルフの目が、冷たく光った。あの横領のときと同じ——いや、それ以上の怒り。
自国の帳簿を汚されたときとは、温度が違う。
エリーゼの帳簿を汚されたときの方が——この男は、怒る。
「閣下」
「何だ」
「怒ってくださって、ありがとうございます。でも——この件は、私に任せてください」
「……お前に?」
「間者を捕まえるのは閣下にお任せします。でも、その後の処理——証拠の組み立てと告発の書類は、私が書きます」
エリーゼの声は静かだった。静かで、硬くて、冷たかった。
「この帳簿は、私が書いたものです。フィンが集計し、村人たちが信頼してくれている記録です。それを——汚した人間を、私は許しません」
ヴォルフが黙ってエリーゼを見た。
しばらくして——頷いた。
「わかった。間者は俺が捕まえる。書類はお前が書け」
「はい」
「だが——無理はするな」
「無理ではありません。怒っているだけです」
「怒っていることは——見ればわかる」
ヴォルフの声が、少しだけ柔らかくなった。
「お前が怒ると、目が鋭くなる。書類を前にしたときより——もっと」
「……そうですか」
「ああ。だから——気をつけろ。怒りで手元を狂わせるな。お前の書類が鈍ったら、俺が困る」
(……この人は。こんなときでも、私の書類の心配をしている)
「鈍りません。怒っていても、ペンは真っ直ぐです」
「知っている」
短い言葉だった。でもその二文字に——信頼の全てが込められていた。
翌日。クルトの部隊がバルトハイムの宿屋で間者を確保した。
右手に火傷の痕。左利き。所持品の中に、宰相グラーフの署名入りの密書があった。
そして——聖女ルナリアの名前が、密書に記されていた。
間者が白状した。指示者は宰相グラーフ。首謀者は聖女ルナリア。目的は、エリーゼの通敵容疑を捏造し、エルデ領を取り上げること。
「エリーゼ、王都に乗り込む」
ヴォルフの声が低かった。
「まだです」
エリーゼは言った。
「証拠を完璧に整えてから。拙速は禁物です。間者の自白だけでは弱い。物的証拠と状況証拠を積み上げて、誰が見ても覆せない証拠書類を作ります」
「……お前は冷静だな」
「怒っていないわけではありません。ただ、感情で動くと書類に不備が出ますので」
ヴォルフが——微かに笑った。
「お前らしい」
エリーゼは机に向かった。
証拠書類の作成に取りかかる。間者の自白調書。改竄された帳簿の原本とコピーの対照表。筆跡鑑定書。インク分析の記録。密書の写し。
一枚一枚、丁寧に、正確に。怒りを込めて——でも、手は震えず。
この書類が、王都に届いたとき。
聖女とやらの化けの皮が——剥がれる。
エリーゼは、ペンを握る手に力を込めた。




