17話 共同執務の提案──業務効率化のためです(自分に言い聞かせる)
護衛の関係で、ヴォルフの砦とエリーゼの領主館を行き来する生活が始まった。
週の半分はエルデ領で領地経営。残りの半分はバルトハイム近郊のヴォルフの砦で、讒言対策の情報収集と、通商協定の運用業務。
行き来すること自体は問題ない。距離は馬で半日。護衛もいる。
問題は——ヴォルフの砦での執務環境だった。
「閣下、この部屋は何ですか」
「お前の執務室だ」
案内されたのは、ヴォルフの執務室の隣の部屋だった。
広い。窓が大きい。暖炉つき。机は新品で、上質な木材。椅子にはクッションが敷いてある。書棚には紙とインクが既に用意されていた。
明らかに——急ごしらえではない。
「……いつ準備されたんですか」
「先週だ」
「先週。護衛を送った時点で、もうこの部屋を?」
「書類業務の効率化には、適切な執務環境が不可欠だ」
(効率化。はい。効率化ですね。私が隣の部屋にいるのは効率化ですね)
ヴォルフの執務室との間には、扉がひとつ。ノックすれば3秒で行き来できる距離。
クルトがお茶を運んできた。にやにやしている。
「令嬢、居心地はいかがですか。閣下は家具の配置を5回やり直させましたよ」
「クルト」
「窓からの光が書類に当たる角度まで計算されていたのには、さすがの私も感心しました」
「クルト。出ていけ」
「はい。お茶をどうぞ。閣下が令嬢の好みに合わせて取り寄せた茶葉です」
クルトが扉を閉めた。最後まで、にやにやしていた。
エリーゼは茶を一口飲んだ。
美味しかった。好みのど真ん中だった。
(……いつ好みを調べたんだろう。まさか、あの引き出しの中の茶葉の銘柄を確認した? いや、あの人は私の執務室に入ったことはない。では誰に——クルト副官だ。絶対にクルト副官だ)
文句を言う相手を間違えている気もするが、今はいい。仕事をしよう。
朝。それぞれの執務室で業務を開始する。
間の扉は開けたままだ。書類の受け渡しがあるから——という名目で。
エリーゼは讒言対策の情報整理を進めた。バルトハイムの商人から集めた噂の出所、内容の変遷、拡散経路。すべてを時系列で帳簿に落とし込んでいく。
隣の部屋から、羽根ペンが走る音が聞こえる。
ヴォルフも執務中だ。軍の報告書の決裁。エリーゼが教えた決裁基準表を使って、自分で処理している。
あの3年分の書類山を一緒に崩した日から、ヴォルフの事務処理能力は目に見えて上がっていた。
時折、隣から声がかかる。
「エリーゼ。この予算申請、前年比で30%増になっているが妥当か」
「内容を見ないと判断できません。持ってきてください」
ヴォルフが書類を持って隣に来る。エリーゼの机に書類を広げる。二人で数字を確認する。
手渡すとき、指が触れる。
毎回触れる。
毎回、何食わぬ顔をする。
(——もう17回目だ。今日だけで。偶然は3回まで。それ以上は故意です閣下)
でも、言わない。言ったら、触れなくなるかもしれないから。
(……私は今、何を考えて——やめよう。仕事に集中しよう)
昼。マルグリットが作ってくれた弁当を、執務室で食べた。
ヴォルフが隣の部屋から自分の弁当を持って来て、エリーゼの机の向かいに座った。
「……閣下、ご自分の部屋で食べないんですか」
「ここの方が効率がいい。食後にすぐ書類の確認ができる」
「なるほど」
なるほど、ではない。
向かい合って黒パンを食べながら、エリーゼはヴォルフの食べ方を観察していた。
パンをちぎる手。スープを掬う動き。相変わらず丁寧だ。
ヴォルフの口元にパンくずがついた。
指摘すべきだ。業務上の——いや、業務とは関係ない。人としての礼儀として。
「閣下、口元に」
「ん?」
「パンくずが」
ヴォルフが手の甲で拭おうとした。場所が違う。
「そこではなく、もう少し右——左です。いえ、もう少し——」
エリーゼの手が、自然に伸びた。
ヴォルフの口元に触れて、パンくずを取った。
取ってから——気づいた。
何をしたのか。
指先に、ヴォルフの唇の温度が残っている。
二人とも、固まった。
「…………失礼しました」
「……いや」
「業務上の……衛生管理として……」
「……ああ」
沈黙。
エリーゼは弁当の残りを無言で食べた。味がしなかった。いや、味はあった。パンくずを取った指先の感触だけが、異常に鮮明だった。
ヴォルフも無言で食べた。耳が赤かった。
午後。作業を再開する。
さっきの出来事には、二人とも触れなかった。
触れない方がいい。触れたら——何かが決壊する気がする。
書類の受け渡しを繰り返す。今度は指が触れないように、机に置く形で受け渡した。
それはそれで——寂しかった。
(寂しいと思うな。仕事中だ)
午後の半ば。ヴォルフが書類を持って来た。
「エリーゼ。この決裁基準表だが」
「はい」
「俺なりに改訂案を作った。見てくれ」
差し出されたのは、エリーゼが作った決裁基準表を、ヴォルフが自分で書き直したものだった。
軍事関連の項目が細分化されている。予算規模による承認ラインの段階分け。緊急案件の例外処理規定。
「……閣下、これ、ご自分で?」
「お前の方式を参考にした。不備があれば指摘してくれ」
エリーゼは書類を読んだ。
驚いた。よくできている。エリーゼの作った枠組みを理解した上で、軍の実情に合わせた応用ができている。
「閣下、一箇所だけ。この例外規定の発動条件が曖昧です。『緊急時』の定義を具体的に——」
「敵襲があった場合、災害時、あとは——」
「文書化しましょう。定義が曖昧だと、なんでも『緊急』で通ってしまいます」
「わかった。書き直す」
ヴォルフが自分の執務室に戻っていく。その背中を見ながら、エリーゼは胸の中で何かが温かくなるのを感じた。
この人は、学んでいる。エリーゼのやり方を吸収して、自分のものにしようとしている。
(……この人に教えたことが、この人の中で育っている。これは——嬉しい、とは少し違う。もっと深い何かだ)
レオン隊長が扉をノックした。
「失礼します。巡回の報告です。異常ありません。……あと、帳簿の練習ですが」
「進んでますか?」
「……部下の三名が、複式簿記の概念で挫折しました」
「明日、私が直接教えます」
「ありがとうございます。それと、薬草の収穫は順調です。部下のヤンセンが意外と手先が器用で」
「それは良いですね。収穫量の記録もお願いしますね」
「了解であります」
レオンが去った後、隣の部屋からヴォルフの声がした。
「……レオンに帳簿を教えているのか」
「ええ。護衛以外の時間を有効活用しています」
「あいつは剣一筋の男だぞ。帳簿など——」
「ヤンセンさんは薬草の収穫が上手だそうです。人には意外な適性があるものです」
「…………」
「閣下だって、半年前は帳簿が全くできなかったでしょう? 今は決裁基準表の改訂案を自分で書いている」
隣の部屋が、沈黙した。
しばらくして。
「……お前に言われると、反論できない」
その声が——少しだけ、嬉しそうだった。
夕方。日が傾いて、窓からの光が橙色に変わった。
ヴォルフが計算したという光の角度が、今まさに効いている。夕日が書類を照らして、文字が読みやすい。
(……本当に計算していたのか。この人は)
ペンの音だけが響く時間が続いた。
静かだった。でも、孤独ではなかった。
前世の残業は、いつも一人だった。深夜のオフィスに自分だけ。蛍光灯の音と、キーボードを叩く音。
今は隣に、ペンの音がある。
同じ速さで、同じリズムで、書類と向き合っている人がいる。
たまに顔を上げると、ヴォルフも書類から顔を上げている。目が合う。すぐに戻す。
——それだけのことが、こんなに温かい。
夜。
気づいたら、日がとっくに暮れていた。
暖炉の火が低くなっている。蝋燭の灯りだけで書類を読んでいた。
エリーゼの瞼が重い。昨夜は讒言対策の資料を読み込んでいて、3時間しか寝ていない。
(あと少し。この資料だけ読み終わったら——)
意識が、ふっと遠くなった。
机に突っ伏す感覚があった。でも、もう体が動かなかった。
——温かい。
何かが肩にかけられた。重くて、温かいもの。
革と鉄の匂いがする。
ヴォルフの匂いだ。
薄い意識の中で、声が聞こえた。
「……執務中の居眠りは減給対象だ」
低い声。でもいつもより——柔らかい。
上着はそのまま、かけられていた。
エリーゼは目を開けなかった。開けたら、この温かさが消えてしまう気がした。
でも——聞こえた。
ヴォルフの足音が、離れていく。
隣の部屋に戻っていく。
扉は——閉まらなかった。開けたまま。
その向こうから、ペンの音が聞こえてきた。
ヴォルフが、まだ仕事をしている。エリーゼの隣で。
(……ずるい)
薄い意識の中で、そう思った。
(こんなことされたら——好きにならないわけがない)
目を閉じたまま、エリーゼは少しだけ笑った。
ヴォルフの上着は、朝まで肩にかかっていた。




