16話 将軍閣下の護衛が24時間体制になりました──過剰です
朝靄の中を、騎馬の一隊がエルデ領に入ってきた。
先頭の騎士が掲げる旗には、獅子と剣の紋章。クラウゼン公国軍。
村人たちが不安そうに窓から覗く。商人が足を止める。子どもたちが指をさす。
「ねえちゃん、兵隊が来た。8人いる」
フィンが息を切らせて領主館に飛び込んできた。
エリーゼは机から立ち上がった。兵隊。8人。事前通告なし。
嫌な予感がした——が、旗の紋章を確認して少し安堵した。クラウゼン軍だ。敵ではない。
外に出ると、騎士たちが整列していた。鎧が朝日を反射して眩しい。
先頭の騎士が馬を降り、片膝をついた。
「エリーゼ・ヴァイスフェルト殿。ヴォルフガング・ゼルスト将軍閣下の命により、貴殿の護衛任務に就きます。隊長のレオンと申します」
護衛。
「……護衛?」
「はい。24時間体制で、貴殿の安全を確保せよとの命令です」
「24時間?」
「はい。交代制で昼夜を問わず——」
「少々お待ちください」
エリーゼはレオンを制して、領主館に戻った。机の上にヴォルフからの書簡が置いてあった。今朝届いたもので、まだ開封していなかった。
封を切る。
『エリーゼへ
王都でお前に対する讒言が流れている。「辺境の令嬢が隣国と通じている」という噂だ。発信源はまだ特定できていないが、聖女ルナリアの周辺から出ている可能性が高い。
噂だけなら放置できる。だが、噂が行動に変わる前に手を打つ。護衛を送った。受け入れてくれ。
これは業務上の判断ではない。
ヴォルフガング・ゼルスト』
最後の一行を、二度読んだ。
「これは業務上の判断ではない。」
この人が「業務ではない」と明記するのは——初めてだった。
いつもは「国境地帯の安全保障」だの「投資」だの、業務の建前を用意する人だ。それが今回は、建前を一切省いた。
(……それだけ、切迫しているということか。あるいは——もう、建前を使う余裕がないほど、心配しているということか)
外に出た。レオン隊長が直立不動で待っている。
「護衛の件、承知しました。ただし、条件があります」
「条件、でありますか」
「まず、村人を怯えさせないでください。武装は最小限。巡回は目立たない形で。この村は武力に慣れていません」
「了解しました」
「次に、私の業務を妨げないでください。執務室の中には入らないで。書類は機密です」
「……将軍閣下から、『令嬢の業務を妨げたら俺が斬る』と言われております」
「……そうですか」
(閣下、過保護すぎます)
護衛兵たちが配置についた。領主館の周囲に2名。村の入り口に2名。巡回に4名。確かに24時間体制だ。
マルグリットが横に来た。
「大事おおごとだねぇ。何があったんだい」
「王都で私に対する讒言が流れているそうです。隣国と通じているという噂」
「通じてるって……あんたが将軍さんと仲がいいのは、通商協定の——」
「ええ。正当な外交関係です。でも、悪意を持って歪めれば『通敵』になる」
マルグリットの表情が険しくなった。
「……あの王都の連中、まだ懲りないのかい」
「懲りないでしょうね。前回は書面で勝ちましたが、今度は噂という形のない攻撃で来た。書面では戦いにくい」
「どうするの」
「まず情報を集めます。噂の内容、広がり方、発信源。対策はそれからです」
エリーゼの目が鋭くなっていた。書類を前にしたときの目——いや、それ以上に冷たい目。
大切なものを守るときの、目だった。
護衛兵がいる生活は、想像以上にやりにくかった。
市場に行けば後ろに兵士がついてくる。畑を視察すれば横に兵士が並ぶ。薬草の乾燥小屋を確認すれば、入り口で兵士が直立不動で待っている。
「……少し、距離を取ってもらえますか」
「申し訳ありません。閣下の命令で、10歩以上離れるなと」
「10歩」
「はい。10歩であります」
(10歩。なぜ10歩。その数字の根拠は何ですか閣下)
夜間の巡回も徹底していた。深夜に目が覚めて窓を見ると、月明かりの中で兵士が立っている。交代は6時間ごと。
「レオン隊長、兵士たちの休息は十分ですか。睡眠不足は業務効率を下げます」
「ご心配なく。将軍閣下直属の精鋭です。3日寝なくても戦えます」
「3日寝ないのは労働基準法に——いえ。ちゃんと休ませてください」
「労働基準法とは?」
「……忘れてください。とにかく、適切な休息を取らせること。これは領主としての要請です」
レオンが困惑した顔をした。この人は根が真面目で、将軍の命令と領主の要請の板挟みになるタイプだ。
「あと、食事は領主館で一緒に取ってください。マルグリットさんが多めに作ってくれていますから」
「よろしいのですか」
「護衛していただく以上、飢えさせるわけにはいきません。それに、村人と食事を共にすれば、お互いの警戒心も解けます」
レオンが目を瞬いた。それから、不器用に頭を下げた。
「……閣下が貴殿を守れとおっしゃった理由が、わかる気がします」
「何がですか?」
「いえ。独り言であります」
フィンが笑っていた。
「ねえちゃん、すごいね。将軍の精鋭がねえちゃん専属って」
「笑い事じゃないの。これじゃ仕事がしにくくて——」
「でもさ、守ってもらえるのは悪いことじゃないだろ?」
「……それは、そうだけど」
「ねえちゃんが素直に『そうだけど』って言うの、初めて聞いた」
「帳——」
「帳簿の練習でしょ。もう行ってるよ」
フィンが笑いながら走っていった。いつの間にか、この少年はエリーゼの言葉を先読みできるようになっている。
その日の夕方。ヴォルフ本人が来た。
護衛の配置確認、という名目。でもエリーゼにはわかっていた。自分の目で確かめたかったのだ。
「過剰な警備は領民を不安にさせます」
「必要な措置だ」
「8人は多すぎます。4人で十分です」
「足りない」
「閣下——」
「お前が危険に晒されることは許容できない」
エリーゼは言い返そうとした。業務上の判断として、4人が適正であると。コスト面でも、村人の心理面でも。
でも——ヴォルフの目を見て、言葉が止まった。
怒りではない。焦りでもない。
恐れだ。
この人は、怖がっている。エリーゼに何かが起きることを。
「北の鉄壁」と呼ばれる男が、戦場で千の敵を前にしても揺るがない男が——たった一人の女のことで、恐れている。
「……業務上の判断ですか?」
聞いた。聞かずにいられなかった。
「違う」
即答だった。
「個人的な感情だ」
二度目。ヴォルフが「個人的」と言い切った。
前回は「お前個人として守りたい」と言って、直後に「忘れろ」と撤回した。
今回は——撤回しなかった。
エリーゼの心臓が跳ねた。
「閣下……」
「8人は減らさない。これだけは譲れない」
エリーゼは黙って、ヴォルフの目を見た。
碧い目の奥にある恐れ。この感情を、数字では測れない。書類では処理できない。
——だから、受け取るしかない。
「…………わかりました。8人、受け入れます」
ヴォルフの肩から力が抜けた。
「ただし」
肩が戻った。
「条件があります」
「……条件?」
「護衛兵全員に、帳簿のつけ方を教えます。巡回以外の時間は識字教育に参加してもらいます。人手を遊ばせるのは行政の怠慢です」
「…………」
「あと、薬草の収穫も手伝ってもらいます。体力のある方が8人もいるのに、護衛だけでは資源の無駄遣いです」
「……お前は、護衛兵を行政職員にする気か」
「使える人手は全て使います。閣下の精鋭なら、帳簿も薬草も3日で覚えるでしょう」
ヴォルフが絶句した。
それから——口元が動いた。笑いを堪えている。堪えきれていない。
「……好きにしろ」
「ありがとうございます。では明日から、レオン隊長には複式簿記の研修を行います」
「レオンが泣くぞ」
「泣いても覚えていただきます」
譲った。
エリーゼ・ヴァイスフェルトが、交渉で譲った。通商協定で1%の関税率も譲らなかった女が、この男の前では——譲った。
ただし、譲った上で自分の条件を通すあたりが、この女だった。
クルトがいたら記念日に指定するだろう。
そのとき、ハンコが現れた。
三毛猫は、いつものようにまっすぐヴォルフに向かった。
今日は足元に擦り寄るだけでは終わらなかった。
ヴォルフの膝に——飛び乗った。
「……っ」
くしゃみ。
「ハンコ、降りて。閣下がアレルギーで——」
「いい」
「よくありません。目が充血して——」
「この猫は、お前の家族だろう」
ヴォルフが赤い目のまま、ハンコを見下ろした。
「なら俺も慣れる」
エリーゼの心が、ぎゅっと掴まれた。
この人は——アレルギーで涙を流しながら、エリーゼの猫を受け入れようとしている。
「お前の家族だから」。
その一言に込められた意味を、エリーゼは正確に理解した。
お前の大切なものは、俺も大切にする。
そう言っているのだ。言葉にはしないけれど。
「……閣下」
「何だ」
「ハンコは、人を見る目があるんです。この子が懐く人は——信頼できる人だって、私は思ってます」
ヴォルフの手が、そっとハンコの背中に触れた。くしゃみをしながら、撫でた。
ハンコがごろごろと喉を鳴らした。
エリーゼは、その光景を目に焼き付けた。
涙目の将軍と、喉を鳴らす三毛猫。
世界で一番不器用で、世界で一番優しい人。
(——守らなきゃ。この人のことも、この村のことも、全部。讒言ごときで壊させてたまるか)
エリーゼは立ち上がった。
「閣下、護衛の件は了承しました。その上で、私からも提案があります」
「何だ」
「讒言への対策を、攻めの姿勢で行います。噂の出所を突き止め、証拠を押さえて、こちらから叩く。守るだけでは、この手の攻撃は止まりません」
ヴォルフが顔を上げた。膝の上にはまだハンコがいる。赤い目。でも——その奥に、見慣れた光がある。
信頼の目だ。
「……お前の書類は武器だったな」
「はい。今度は、盾ではなく矛として使います」
エリーゼは執務室に向かった。
ペンを取る。羊皮紙を広げる。
書くべき書類は山ほどある。情報収集の依頼書。バルトハイムの商人への聞き取り項目。王都の法令集の取り寄せ申請。
守りの書類ではない。攻めの書類だ。
背中に、8人の護衛兵の気配を感じながら——エリーゼは、ペンを走らせた。




