15話 中間報告を行います──エルデ領の現状と今後の展望
エルデ領に赴任して、半年が経った。
エリーゼは中間報告書を作成していた。
数字が、半年前とは別世界だった。
人口は50世帯を超えた。9世帯だった村が、半年で5倍以上に膨らんだ。商人が定期的に往来し、市場が立つようになった。薬草に加えて加工品——軟膏と薬湯の生産が始まり、商品の幅が広がっている。
学校を設立した。フィンが教師補佐を務めている。識字率の向上は、長期的に村の自治能力を底上げする。
簡易診療所も開設した。バルトハイムの薬師ギルドから、月に一度の巡回診療を取りつけた。
税収は赴任時のゼロから、月あたり銀貨80枚。半年前の30枚からさらに倍増している。
灌漑設備は全工程が完了し、畑の作付面積が3倍に拡大。来年からは食料自給も視野に入る。
(前世で「限界集落の再生は不可能」と言った大学教授に、この報告書を読ませたい)
報告書は全24ページ。収支計算、事業評価、人口動態、インフラ整備状況、来期の事業計画。
書き上げたとき、マルグリットが茶を持ってきてくれた。
「また徹夜?」
「最後の仕上げです。数字の確認が残ってて」
「フィンに任せたら?」
「最終確認は自分でやらないと気が済まないんです」
「あんたの『気が済まない』は、この村を救ってきたけどさ。体も大事にしなよ」
マルグリットの声が、前より柔らかくなった気がする。赴任初日の「また左遷されてきた方ですか」とは、もう別人の声だ。
「マルグリットさん」
「なんだい」
「この村、良くなりましたか」
「何言ってんだい、今さら。数字を見ればわかるだろう?」
「数字はわかります。でも、数字じゃない部分を聞きたくて」
マルグリットが少し黙った。窓の外を見た。
朝の村。子どもたちが学校に向かっている。市場の準備をする商人。水路から畑に水を引く農夫。半年前にはなかった景色だ。
「……いい村になったよ。あたしはここで生まれて、ここで育って、この村が死んでいくのを見てきた。でも今は——生きてる。この村が、生きてる」
「……ありがとうございます。その言葉が、どんな勲章より嬉しいです」
「勲章ね。あんたが本当に欲しい勲章は、別にあるんじゃないかい?」
「何のことですか」
「とぼけるんじゃないよ。報告書、何部作ったんだい」
「…………2部です」
「もう1部の宛先は?」
「……クラウゼン公国将軍府です」
「ほらね」
マルグリットが笑った。エリーゼは何も言い返せなかった。
報告書を送って2日後。ヴォルフが来た。
今回は——珍しく、事前の書面通知が丁寧だった。いつもより長い文面。日時だけでなく、「報告書の内容について協議したい」と目的まで明記されている。
クルトも同行していたが、村に着くなり「マルグリットさんにスープの作り方を教わる約束がある」と言って姿を消した。
(……明らかに口実だ。いつからマルグリットさんと料理教室の仲になったんだ)
領主館の執務室。二人きり。机を挟んで、向かい合う。
ヴォルフが報告書を広げた。
「読んだ。半年でここまでやるとは思わなかった」
「ありがとうございます」
「人口50世帯。税収80枚。加工品の生産開始。学校と診療所の設立。……これは、もはや辺境の村ではない」
「まだまだです。課題は山積みで——」
「第3章の薬草加工事業の収支分析が特に良い」
「え?」
「原材料費と加工コストの比率を出した上で、損益分岐点を明示している。うちの財務局の報告書には、この発想がない」
エリーゼは少し驚いた。第3章は全24ページの中でも最も技術的な部分だ。そこを真っ先に指摘するということは、この人は全ページを精読している。
「それと、第2章の人口動態分析。移住者の年齢構成から将来の労働力予測を出しているのは——正直、感嘆した」
「……閣下、全部読んでくださったんですか」
「当然だ。お前が書いた報告書だ」
当然、と言った。
当然だ、と。お前が書いた報告書だから、全部読むのが当然だと。
エリーゼの胸が熱くなった。前世で、自分の報告書を最後まで読んでくれた上司は何人いただろう。大抵は「長い」と言われて要約を求められた。全ページを読んで、内容にまで踏み込んで評価してくれる人は——
いなかった。この人が、初めてだ。
「エリーゼ」
ヴォルフの声が、少し変わった。
報告書を閉じて、エリーゼを見た。
「今後のことを話したい」
「今後、ですか。来期の事業計画であれば、報告書の第4章に——」
「事業計画の話ではない」
エリーゼの手が止まった。
「俺は——お前に、長期的な提携を申し入れたい」
「提携。通商協定の拡大ですか?」
「それもある。だが、それだけではない」
ヴォルフが言葉を選んでいた。この人が言葉を選ぶとき、その先にあるのは——いつも、大きなものだ。
「エリーゼ。俺の隣で——」
一拍。
「ずっと帳簿をつけてくれないか」
静かな声だった。
将軍の命令ではなく。公国の提案でもなく。
一人の男の、声だった。
「……閣下。それは提携というより——」
言いかけて、止まった。
提携というより、何だ。
何と言えばいい。
この人は今、何を言おうとしている。
ヴォルフの目がまっすぐにこちらを向いていた。碧い目。嘘のない目。この目を見ると、いつも胸が苦しくなる。
「……わかっている」
ヴォルフが先に言った。
「提携ではない。俺は——」
言葉が詰まった。
この人は、気持ちを言語化することが世界で一番下手な人だ。剣を振れば大陸最強なのに、言葉を紡ぐことはできない。
「だが今はまだ、そう言わせてくれ」
低い声だった。
「提携」という嘘の中に、本当の気持ちを包んで差し出す。不器用で、回りくどくて——でも、この人なりの精一杯。
「……はい」
エリーゼは答えた。
「提携のお申し出、前向きに検討いたします」
嘘だ。検討の余地なんてない。答えはもう決まっている。
でも——今すぐ答えたら、たぶん泣いてしまう。泣いたらインクが滲む。
「……前向きに、か」
「はい」
「却下ではないのか」
「却下する理由がありません。……むしろ、こちらからお願いしたいくらいです」
ヴォルフの目が見開かれた。
それから——耳が、赤くなった。首まで赤くなった。
この人が首まで赤くなるのを見たのは、初めてだった。
「……そうか」
「はい」
「…………そうか」
二度言った。噛みしめるように。
クルトがいたら「閣下、それは告白では?」と言うだろう。マルグリットがいたら「やっとだよ」と笑うだろう。フィンがいたら「ねえちゃん、顔」と言うだろう。
でも今は二人きりだ。誰もいない。
ハンコだけが、窓辺で二人を見ていた。にゃあ、と一声鳴いた。空気を読まない猫だ。
でもその鳴き声で、少しだけ肩の力が抜けた。
「……閣下」
「何だ」
「提携の条件ですが。詳細は書面で取り交わしましょう」
「書面か」
「はい。私たちは書面の人間ですから」
ヴォルフが少し目を細めた。
「……ああ。そうだな」
書面で取り交わす。いつか——本当の気持ちを、きちんと言葉にして。
それまでは「提携」でいい。
この不器用な二人には、その方が似合っている。
沈黙が落ちた。
でも、苦しい沈黙ではなかった。むしろ——温かかった。
二人の関係が「業務上の協力関係」から、一歩踏み出した瞬間だった。
たった半歩かもしれない。でも、その半歩が——エリーゼにとっては、前世から数えて初めての一歩だった。
ヴォルフが帰った後、エリーゼは執務室で一人、報告書の表紙を見つめていた。
あの引き出しを開けた。
書簡。視察申請書。添え状。クルトの手紙。押し花。
そこに——今日のヴォルフの言葉を書き留めた紙を、一枚加えた。
「俺の隣で、ずっと帳簿をつけてくれないか」
書き留めないと忘れそうだったから——ではない。忘れるわけがない。
ただ、文字にしておきたかった。この気持ちを、この瞬間を、書類として残しておきたかった。
事務官の、恋の仕方だった。
引き出しを閉じて、窓の外を見た。
夕暮れの空。エルデ領の街並み。かつての荒れ地が、人の暮らす土地に変わっている。
あの人がいなかったら——この景色を、こんな気持ちで眺めることはなかっただろう。
(ありがとう。まだ言えてないけれど——いつか、ちゃんと伝えます)
穏やかな夕暮れだった。
——けれどその夜、王都では不穏な噂が流れ始めていた。
「辺境の令嬢が隣国と通じている」。
聖女ルナリアの口から放たれた讒言が、貴族たちの間に静かに広がっていく。
嵐の前の、最後の凪だった。




