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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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14話 不測の事態が発生しました──胸の動悸が止まりません

 異変は、翌日から始まった。


 朝。いつも通り机に向かった。いつも通り帳簿を開いた。いつも通りペンを取った。


 ——数字が、頭に入らない。


「…………」


 薬草の出荷記録。今月の集計。単純な足し算だ。


 112束。114束。108束。


 足し算をしている途中で、銀色の髪がちらつく。


 碧い目がちらつく。


 雨の中の腕の感触が——


「……集中」


 自分に言い聞かせた。数字を最初から読み直す。


 112束。114束。


 紫の花が浮かんだ。


 あの大きな手が浮かんだ。


 「お前に、渡している」という声が——


「集中しなさい、エリーゼ・ヴァイスフェルト」


 声に出した。帳簿を睨んだ。


 112束。114束。108束。合計——


 合計が出ない。


 前世で税務課にいた8年間、帳簿の集計を間違えたことは一度もなかった。一度も。


 それが今、三桁の足し算ができない。


「ねえちゃん、同じ行を3回読んでるよ」


 フィンが横から覗き込んでいた。


「……そんなことないわ」


「あるよ。ねえちゃん、さっきから112、114って呟いてるけど、その行はもう4回目だよ」


「…………」


「体調悪いの?」


「悪くない。……たぶん」


「たぶん?」


 フィンが怪訝な顔をした。エリーゼが「たぶん」を使うのは珍しいのだ。この人は普段、断定しかしない。


 マルグリットが茶を持ってきた。エリーゼの顔を見て、ニヤリと笑った。


「あんた、恋だねぇ」


「違います」


 即答した。即答しすぎた。


「業務に支障をきたす感情は不適切です」


「それが恋っていうんだよ」


「恋ではありません。不測の事態です」


「不測の事態ね。で、その不測の事態は、銀色の髪をしてるかい?」


「…………」


 返す言葉がなかった。


 マルグリットが大笑いした。フィンが「あー」という顔をした。


「ねえちゃん、あの将軍のこと——」


「帳簿」


「まだ何も」


「帳簿の練習をしなさい」


「ねえちゃん、それもう通用してないよ」


 エリーゼは茶を飲んだ。美味しかった。ヴォルフがくれた紅茶だ。


 ——あの人がくれた紅茶だから美味しいのではない。茶葉の品質が高いからだ。


 (……もうこの言い訳、自分でも信じてない)


 気を取り直して、仕事に戻る。


 帳簿がだめなら、別の業務をやろう。灌漑設備の第三期工事の工程表。これは数字が少ないから、集中できるはず——


 工程表を開いた。


 「合流地点の角度を120度に修正」という自分のメモが目に入った。


 ヴォルフと一緒に描いた図面。あの日、指さしてくれた場所。「鋭角は水の敵だ」と言ったあの声——


 工程表を閉じた。


 薬草の品質管理報告書。これなら。


 報告書を開いた。「アオスミレの一種」という記述があった。


 花畑。紫の花。ヴォルフの指。


 報告書を閉じた。


 (……何を開いても、この人が出てくる。業務妨害だ。出頭を命じたい。いや、出頭されたらもっと集中できなくなる)


 ならば、と思った。通商協定の運用報告書を書こう。ヴォルフ宛ての定期報告。業務連絡だ。感情の入る余地はない。


 羊皮紙を広げた。ペンを取った。


『クラウゼン公国軍将軍 ヴォルフガング・ゼルスト殿


 通商協定に基づく第二期運用報告を下記の通りお送りいたします。』


 ここまでは書けた。ここまでは業務だ。


『なお——』


 ペンが止まった。


 「なお、先日の視察ではお世話になりました」と書きたかった。


 いや、違う。


 「花を、ありがとうございました」と書きたかった。


 もっと正確に言えば——「あの日から、閣下のことが頭から離れません」と。


 (……書けるわけがない。公文書に何を書こうとしているんだ私は)


 羊皮紙をくしゃくしゃに丸めた。


 ハンコが丸まった紙に飛びかかった。おもちゃだと思ったらしい。


「……ハンコ、それは私の感情の残骸です。遊ばないで」


 にゃあ。


 遊んでいた。



 問題は、エリーゼだけではなかった。


 バルトハイムの商人から、こんな噂が流れてきた。


「クラウゼンの将軍、最近どうしたんだ? 剣の稽古がひどいって兵士が嘆いてるぞ。いつもは一撃で仕留めるのに、最近は隙だらけだとか」


 クルトからの手紙(私信。エリーゼ宛て)にも書いてあった。


『閣下の状態が深刻です。


 剣の稽古で新兵に打ち込まれること3回。食事中にスープを溢すこと2回。書類を読んでいて突然手を止め、窓の南(エルデ領の方角)を眺めること、1日平均7回。


 昨日は執務室で、花の押し方を兵士に聞いていました。将軍がです。花の押し方をです。兵舎が騒然としました。


 何か心当たりがあれば、ご教示いただけますと幸いです。副官として限界が近いです。


 クルト


 追伸:閣下がコートを手配されたようです。仕立て屋に「肩幅はこのくらいで」と自分の手で寸法を示していました。いつ測ったのかは不明です。』


 エリーゼは手紙を読み終えて、顔を両手で覆った。


 (花の押し方を兵士に聞いた。将軍が。花の押し方を)


 (肩幅を手で示した。いつ測った。……あのとき。雨の中で抱きとめたとき。あのときに)


 心臓がうるさい。


 (やめてくださいクルト副官。こっちまで動悸が止まらなくなるので)


 手紙を引き出しにしまった。ヴォルフの書簡と、視察申請書と、添え状と、同じ引き出しに。


 引き出しが、もう半分埋まっている。



 数日後。届け物があった。


 大きな箱。クラウゼン公国の紋章。


 開けると——コートが入っていた。


 深い紺色の、上質なウールのコート。裏地は絹。ボタンは銀細工。どう見ても——高価だ。


 添え状が一枚。


『辺境は冬の到来が早い。防寒対策として、本品の着用を命じる。——ヴォルフガング・ゼルスト』


 命じる。


「……命じる?」


 他国の将軍が、他国の領主に、コートの着用を「命じる」。


 法的根拠はどこにもない。命令権限もない。主権の侵害と言ってもいい。


 なのに——嬉しい、と思ってしまった自分が、一番問題だ。


「これ、防寒対策にしては高価すぎませんか……」


 コートの裏地を確認する。仕立ても一流だ。どう概算しても銀貨200枚は下らない。


「ねえちゃん、受け取ったものの原価計算するの、あんたくらいだよ」


「……物品の受領には適切な評価が必要です」


「それ、好きな人からのプレゼントに言うこと?」


「好きな人からのプレゼントではありません。業務上の防寒対策の支給品です」


「ねえちゃん、自分で何言ってるかわかってる?」


「……わかってます。わかってるから、黙って」


 コートを羽織ってみた。


 ぴったりだった。


 肩幅も、袖の長さも、着丈も。まるで採寸したかのように。


 ——採寸したのだ。あのとき。雨の中で、抱きとめたときに。


 クルトの手紙の一文が蘇る。「肩幅はこのくらいで」と自分の手で示していた将軍の姿。


 (……この人は。不器用すぎる。不器用すぎて——泣きたくなる)


 コートのポケットに手を入れた。何かが挟まっている。


 取り出す。


 小さな押し花。


 紫色の、あの花。


 あの日——花畑で摘んで、エリーゼに渡してくれた花と、同じ種類の花。


 ヴォルフも、あの花を持ち帰っていた。


 兵士に押し方を聞いて。兵舎を騒然とさせて。


 それでも——押し花にして、コートのポケットに忍ばせた。


「…………」


 エリーゼは押し花を両手で包んだ。


 壊れないように。潰れないように。


 目の奥が、また熱くなった。


 (これは——もう、業務命令とか、防寒対策とか、そういう話じゃない)


 わかっている。もうわかっている。


 ただ、その名前をつけるのが——怖い。


 名前をつけたら、もう後戻りできない気がする。


 前世で、感情に名前をつけることを避けて生きてきた。怒りも、悲しみも、全部「業務上の支障」として処理してきた。名前をつけなければ、傷つかなくて済むから。


 でも——


 この気持ちに名前をつけなかったら、この人に失礼だ。


 あの人は、不器用ながらも、全力で気持ちを伝えようとしている。「命じる」しか言えなくても、兵舎を騒然とさせてでも、押し花をポケットに忍ばせるような人だ。


 その人に対して、自分だけ逃げるのは——卑怯だ。


「マルグリットさん」


「なんだい」


「……さっきの話。もしかしたら、合ってるかもしれません」


「さっきの話?」


「…………恋、かもしれない、って話です」


 マルグリットが目を丸くした。それから——優しく笑った。


「やっと気づいたかい」


「やっと、です。遅すぎました」


「遅くないよ。気づいたなら、それでいい」


「でも、どうすればいいかわかりません。恋の手続きに関するマニュアルが——」


「マニュアルはないよ。あんた、初めてだろう? 恋」


「前世でも——いえ。……はい。初めてです」


「なら、そのまま飛び込みな。書類じゃどうにもならないこともあるんだよ、この世にはね」


 エリーゼは押し花を、あの引き出しにしまった。


 ヴォルフの書簡。視察申請書。添え状。クルトの手紙。そして——押し花。


 引き出しが、もう八分目まで埋まっている。


 それは、エリーゼの心と同じだった。


 もうほとんど、いっぱいだ。


 あの人で。


 エリーゼは引き出しを閉じて、机に向かった。


 明日こそ、帳簿の集計を終わらせなければ。


 112束。114束。108束。


 ——合計、334束。


 やっと、足し算ができた。

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