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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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13話 週末の合同視察を提案します──業務上の必要性からです

 ヴォルフから書面が届いた。


 いつも通りの完璧な書式。公印あり。だが——内容が、いつもと違った。


『国境地帯の治安状況に関する合同視察の提案


 下記の通り、エルデ領領主との合同視察を実施したい。


 日時:今週末

 視察ルート:国境沿いの丘陵地帯 → 花畑平原 → 湖畔の休憩所

 目的:国境地帯の地形把握及び治安状況の確認

 備考:昼食は現地にて調達予定


 クラウゼン公国軍将軍 ヴォルフガング・ゼルスト』


 エリーゼは書面を二度読んだ。


 花畑平原。湖畔の休憩所。昼食は現地にて調達。


「…………」


 (これは視察なのだろうか)


 いや、視察だ。ヴォルフがそう書いている。公印もある。業務だ。


 フィンが横から覗き込んだ。


「ねえちゃん、花畑と湖って書いてあるけど、これデー——」


「視察よ」


「まだ何も言ってないのに」


「言わなくていいの」


 マルグリットが台所から顔を出した。


「あんた、何着ていくの?」


「普段の服ですが」


「……あんたねぇ。少しは気を遣いなよ」


「視察に着飾る必要はありません」


「はいはい。視察ね」


 マルグリットの目が「この子は……」と言っていた。



 週末。快晴。


 ヴォルフが馬で迎えに来た。今日はクルトがいない。護衛も最小限——というか、二人きりだ。


「クルト副官は?」


「今日は非番だ」


「視察に副官を連れないんですか」


「……地形の確認に大人数は不要だ」


 (それはそうだけど。二人きりで花畑と湖を回るのは、どう考えても——)


 ——視察だ。ヴォルフがそう言っているのだから、視察だ。


 馬を並べて走る。秋の空が高い。風が心地いい。


 ヴォルフの馬術は見事だった。大きな体なのに、馬との一体感がある。無駄な動きが一切ない。


 エリーゼは乗馬が得意ではない。宰相府の事務官に馬術の訓練はなかった。前世に至っては、馬に乗ったことすらない。


「……揺れますね」


「手綱を緩めろ。馬に任せた方が安定する」


「手綱を緩めると制御が——」


「馬は賢い。お前が力を抜けば、向こうも楽になる」


 言われた通りにすると、確かに揺れが収まった。


 (制御を手放した方がうまくいく……。前世の上司が聞いたら卒倒しそうな理論だ)


「閣下、乗馬は好きですか」


「好きだ。馬は嘘をつかない」


「嘘をつかない?」


「機嫌が悪ければ暴れる。気に入れば懐く。人間より——わかりやすい」


 (この人は、人間よりも馬の方がわかりやすいと感じているのか。……少しだけ、わかる気がする。私も人間より帳簿の方がわかりやすい)


 国境沿いの丘陵地帯を抜けると、視界が開けた。


 花畑が広がっていた。


 秋の野花が一面に咲いている。紫、白、薄い黄色。風に揺れて、まるで色の波のようだ。


「……きれい」


 思わず声が漏れた。


 ヴォルフがエリーゼを見た。


「……ああ」


 何を見て「ああ」と言ったのか、エリーゼは気づかなかった。


 馬を降りて、花畑の中を歩く。


 エリーゼは——花ではなく、地面を見ていた。


「この土壌、黒土ですね。保水性が高い。花の群生が多いということは、腐葉土の層が厚いんでしょう。薬草の栽培にも向いているかもしれません」


「…………」


「あ、この花。見たことがあります。乾燥させると解熱作用があるんです。自生地の範囲を記録しておけば、新しい採取ルートとして——」


「エリーゼ」


「はい?」


「花を見ろ」


「見てますよ。この花の薬効成分は——」


「……そうではなく」


 ヴォルフが何か言いかけて、やめた。


 代わりに、足元の野花を一本摘んだ。


 紫色の小さな花。茎が細く、可憐な姿。


 それを——エリーゼに差し出した。


「これは何の花だ」


「え? えっと……アオスミレの一種ですね。乾燥させれば単価は——」


「……値段の話はしていない」


「はい?」


「お前に、渡している」


 エリーゼの手に、花が載せられた。


 ヴォルフの指が、エリーゼの指に触れた。一瞬だけ。


 大きな手。剣ダコだらけの、硬い指先。それが——そっと、丁寧に、花を手渡した。


 戦場で剣を振るう手だ。帳簿の仕分けを手伝ってくれた手だ。猫アレルギーなのにハンコを撫でる手だ。


 その手から、花を受け取った。


「……ありがとうございます」


 声が小さくなった。自分でもわかるくらい。


 花を見た。紫色の、小さな花。


 これに薬効がどうとか、単価がどうとか、もう言えなかった。言いたくなかった。


 ただの花だ。ヴォルフがくれた花だ。それだけで——十分だった。


 (……なんだろう、この感じ。花を一本もらっただけなのに、心臓がうるさい)


 ヴォルフが前を向いて歩き出した。耳が赤いのは、秋の風のせいだろう。きっとそうだ。



 湖畔の休憩所は、小さな宿屋だった。


 国境付近の旅人が立ち寄る場所らしく、素朴だが清潔な店だ。


 窓際の席に座った。湖が一望できる。水面が秋の日差しを反射して、きらきらと光っている。


「……いい場所ですね。この湖、水質が良ければ養殖ができるかもしれません。淡水魚の需要は——」


「エリーゼ」


「はい」


「今日は仕事の話をするな」


「…………」


 エリーゼは口を閉じた。


 仕事の話以外、何を話せばいいのかわからない。


 前世でもそうだった。飲み会で何を話していいかわからず、隅で一人でウーロン茶を飲んでいた。会話の引き出しが「業務」しかない人間。


 沈黙が流れた。


 気まずい——と思ったのは、エリーゼだけだったようだ。


 ヴォルフは窓の外の湖を見ながら、穏やかな顔をしていた。沈黙が苦にならない人なのだ。


「閣下は……休みの日、何をされるんですか」


「剣の手入れ」


「それは仕事では」


「違う。趣味だ」


「……趣味が剣の手入れ」


「他には城壁の巡回と、兵糧の在庫確認だ」


「それは全部仕事です」


「……そうか」


 二人とも、仕事以外の話題がなかった。


 なぜかそれが、可笑しかった。


 エリーゼが笑った。小さく、でも確かに。


 ヴォルフが驚いた顔をした。


「……お前が笑うのは、珍しいな」


「そうですか?」


「ああ。書類を見ているときは目が鋭くなるが、笑うと……」


 言いかけて、止めた。


「笑うと?」


「……何でもない」


 (何でもなくはないでしょう)


 食事が運ばれてきた。パンとシチューとチーズ。素朴だが、温かい。


 二人で食べた。ヴォルフが「ここのパンは悪くない」と言った。この人の最高の褒め言葉は「悪くない」なのだと、最近わかってきた。



 帰り道。


 丘陵の下り坂で、急に雲行きが変わった。


 秋の空は気まぐれだ。さっきまで晴れていたのに、ぽつぽつと雨が落ちてきた。


「走りましょう。あの木の下まで——」


 足を速めた瞬間、石に足を取られた。


 体が傾ぐ。雨で濡れた草の上を、靴が滑る。


 ——転ぶ。


 そう思った次の瞬間、体が止まっていた。


 腕を掴まれていた。


 引き寄せられていた。


 ヴォルフの腕の中に。


 至近距離。


 雨に濡れた銀色の髪が、エリーゼの頬の横にある。碧い目が、すぐそこにある。


 吐息がかかる距離。


 心臓が——止まった。止まってから、倍の速さで動き出した。


「あ、あの——」


 声が裏返った。


「業務上の……事故対応として……」


 何を言っているんだ自分は。


「……ああ。事故対応だ」


 ヴォルフの声が低い。いつもより、ずっと低い。


 離さない。


 腕が離れない。


 雨が二人の上に降っている。でも——寒くない。


 数秒か、数十秒か。時間の感覚がなかった。


 ヴォルフの手が——ゆっくりと、離れた。


「……怪我はないか」


「ないです」


「そうか」


「……はい」


 二人とも、目を合わせられなかった。


 雨の中、木の下まで走った。


 並んで雨宿りをした。肩が近い。濡れた服が冷たい。でもヴォルフの隣だけ、温かい。


 何も言わなかった。何も言えなかった。


 雨が止むまで、ずっと。



 エルデ領に戻ったのは、夕暮れ時だった。


 ヴォルフは短く「また来る」とだけ言って、馬を走らせた。


 エリーゼは領主館に入り、扉を閉めた。


 ハンコが足元に来た。にゃあ、と鳴いた。


 返事をする余裕がなかった。


 寝室に行った。枕を抱えた。


 そして——顔を埋めて、小声で叫んだ。


「これは業務じゃない……!」


 ハンコが不思議そうに首を傾げた。


 エリーゼの手の中に、まだあの紫の花があった。


 潰さないように——ずっと、握りしめていた。

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