12話 反論書を提出します──根拠法令は47条あります
回答書を王都に送って、5日が経った。
エリーゼは普段通りに仕事をしていた。薬草の出荷管理、灌漑設備の第三期工事の監督、新しい移住者の住民登録。
普段通りだ。何も変わらない。
——のはずだが。
「ねえちゃん、今日3回目だよ」
「何が」
「窓の外を見るの。王都からの使者を待ってるんでしょ」
「待っていません。外の天気を確認しているだけです」
「3回とも同じ方角見てたけど」
「……帳簿の練習しなさい」
正直に言えば、落ち着かなかった。
あの回答書は完璧だと確信している。法的根拠に隙はない。事実認定にも誤りはない。47条の王令を引用し、12件の事実根拠を示し、3件の先例を参照した。
(でも、法が正しくても、権力がそれを無視することはある。前世でもあった。合法的な住民訴訟が、政治的な判断で潰されたケースを何件も知っている)
だから、待っている。
返答が来るまでは——安心できない。
6日目の朝。早馬が来た。
王都からの使者だった。宰相府の紋章が入った書簡を手渡され、エリーゼは受領印を押して受け取った。
(受領印を押す手が、少し震えた。情けない)
封を切る。
『エルデ領領主 エリーゼ・ヴァイスフェルト殿
先般の返還要請について、貴殿より提出された回答書を精査した結果、当該要請については事実上の撤回とする。
なお、エルデ領の管理体制については、現状を適正と認める。
レヴァイン王国宰相府』
エリーゼは書簡を読み終えて、目を閉じた。
深く、息を吐いた。
勝った。
書類で、勝った。
「ねえちゃん? どうだった?」
フィンが不安そうに覗き込んでいる。マルグリットが台所の入り口から、こちらを見ている。
「……撤回されました。返還要請は、事実上の撤回です」
沈黙。
それからフィンが叫んだ。
「やったーー!」
マルグリットが大きく息を吐いた。
「はぁ……よかった。あんた、よくやったよ」
「いえ、私は書類を書いただけです」
「その書類で国に勝ったんだろう? 大したもんだよ」
村人たちにも知らせが広がった。領地は守られた。追い出されない。この村は、このまま続いていく。
安堵の声が、あちこちから聞こえてきた。
移住してきた大工の親父が、エリーゼに頭を下げた。
「領主様、ありがとうございます。うちは王都から逃げてきた身だ。ここを追い出されたら、もう行く場所がなかった」
「追い出しません。この村は、皆さんの村です。書類が証明しています」
大工の目が赤くなった。
エリーゼは笑って、大工の肩を叩いた。
(——この村を守れた。前世では、守れなかったものがたくさんあった。予算が削られて廃止になった児童館。統合で消えた小学校。でも今回は、守れた)
マルグリットがエリーゼの横に来て、小声で言った。
「あんた、泣かないんだね」
「泣きません。泣いたら書類のインクが滲みますから」
「……あんたらしいよ」
マルグリットが、そっとエリーゼの背中を叩いた。硬い手だった。温かい手だった。
だが、話はそれで終わらなかった。
エリーゼの回答書は、宰相府の中で波紋を広げていた。
バルトハイムの商人経由で、噂が伝わってきた。
「王都で『辺境の令嬢が書面で王家に勝った』って大騒ぎらしいよ」
商人が荷物を下ろしながら、面白そうに言った。
「宰相府の法務官僚が回答書を読んで、『反論不能』って匙を投げたんだとさ。47条の法令引用に、先例まで完璧に揃えてあって、どこにも突っ込む隙がなかったって」
「……そうですか」
「それだけじゃないよ。あんたの名前が王都で『伝説の事務官』って呼ばれ始めてる」
伝説の事務官。
(……大げさな。書類を書いただけなのに)
でも、この噂は両刃の剣だ。
名が知られるということは、味方が増えると同時に、敵も増える。
商人はさらに続けた。
「宰相のグラーフ爺さん、顔が真っ青だったって話だよ。回答書の写しが貴族の間で回覧されたらしくてね。『あの令嬢を追い出したのは誰だ』って声が上がってるんだとさ」
「聖女様は?」
「ルナリア様? あの方は最近ご機嫌が悪いって噂だね。何を怒ってるのかは知らないけど、侍女が二人辞めたって」
エリーゼは黙って聞いていた。
グラーフの冷や汗。ルナリアの苛立ち。追放した令嬢が辺境で力をつけ、王家の圧力を書面で跳ね返した。彼らにとっては面白くない展開だろう。
次は、もっと巧妙な手で来る。
(油断はできない。今回は法的根拠で正面突破できたけど、次は証拠を捏造してくるかもしれない。あるいは——もっと直接的な方法で)
フィンが聞いてきた。
「ねえちゃん、また何か来ると思う?」
「来るでしょうね。一度引いた相手が、大人しくしているとは思えない」
「怖くないの?」
「怖いわよ。でも、怖くても書類は書ける。手が震えても、ペンは握れる」
フィンが黙って頷いた。この少年は、言葉の重みがわかる子だ。
その日の夕方。ヴォルフが来た。
今回はクルトも一緒だ。事前の書面通知もある。いつもの「国境地帯の安全保障に関する現地調査」。
でも——馬を降りたヴォルフの表情を見た瞬間、エリーゼにはわかった。
結果を、聞きに来たのだ。
いつもの無表情だ。でも目の奥に、隠しきれない緊張がある。
この人は——心配していたのだ。ずっと。
「撤回されました」
エリーゼが言った瞬間、ヴォルフの肩から力が抜けた。
ほんのわずかな変化だ。他の人間なら気づかない。でもエリーゼは、この人の体の微細な動きを——いつの間にか、読めるようになっていた。
クルトが天を仰いだ。
「……ああ、よかった。閣下がここ数日、剣の稽古で新兵を5人泣かせた理由がようやくわかりました」
「クルト」
「心配しすぎて稽古が荒れたんですよね。兵舎では『閣下に何があったんだ』と噂になっていましたよ」
「黙れ」
(……心配で、稽古が荒れた? この人が?)
エリーゼの胸の奥で、何かが温かくなった。
「……そうか」
「閣下のおかげです。深夜に条文の確認を手伝っていただいたので、引用の精度が上がりました」
「俺は大したことはしていない。あの回答書は、お前の力だ」
ヴォルフが回答書の写しを受け取り、読み始めた。
全ページを、丁寧に読んだ。
読み終えて、顔を上げた。
「47条か」
「はい」
「……お前の書類は武器だな」
あの言葉が来た。第一印象で「書式が美しい」と言った男が、今度は「武器だ」と言っている。
書類への評価が、「美しい」から「武器」に変わった。それはつまり——この人がエリーゼの書類の本質を理解したということだ。
「ペンは剣より強いと言いますから」
「……俺の剣より強いと言っているのか?」
「閣下の剣は別格です」
さらっと言った。
ヴォルフが固まった。
クルトがにやにやしている。
「閣下、今のは褒められたんですよ。返答はいかがなさいますか」
「……黙れ」
「返答なしですか。もったいない」
「黙れと言っている」
エリーゼは笑いそうになるのを堪えた。この二人のやり取りは、何度見ても飽きない。
ヴォルフが咳払いをした。
「それで、今後の対策は」
「はい。返還要請は撤回されましたが、相手が諦めたとは思えません。次の手を打ってくる前に、こちらの足場を固めます」
「具体的には」
「通商協定の成果を数字で積み上げること。エルデ領の経済的価値が高まれば、手を出すコストも上がります。それと——」
エリーゼはヴォルフの目を見た。
「閣下との協力関係を、より強固にすること。これは業務上の判断です」
「……業務上の判断か」
「はい」
「業務上の、判断か」
二度言った。何かを確認するように。あるいは——何かを期待するように。
「……はい。業務上の判断です」
嘘ではない。業務上の判断だ。
——それだけではない、ということに気づき始めているけれど。
今はまだ、その言葉を使う準備ができていない。
ヴォルフは何も言わなかった。
ただ、帰り際に振り返って——こう言った。
「お前の書類が武器なら、俺の剣はその盾になる」
エリーゼは返事ができなかった。
胸がいっぱいで、言葉が出てこなかった。
代わりに、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、馬はもう遠くにいた。
秋の風が吹いて、エリーゼの髪を揺らした。
目が、少しだけ潤んでいた。
——風のせいだ。きっと。




