11話 王都からの文書は──エルデ領の返還要請でした
手紙の内容は、こうだった。
『エルデ領領主 エリーゼ・ヴァイスフェルト殿
近頃、辺境エルデ領の急速な発展が報告されている。王家はこれを喜ばしく思うと同時に、当該領地の管理体制について懸念を抱いている。
エルデ領は本来、王家直轄領としての性質を有する辺境地であり、現状の管理が適切であるか、再検討の必要がある。
ついては、エルデ領の王家への返還について協議の場を設けたい。
レヴァイン王国宰相府 宰相グラーフ』
エリーゼは手紙を三度読んだ。
一度目で内容を把握し、二度目で法的根拠を検証し、三度目で——怒りを飲み込んだ。
(「管理体制について懸念」。よく言えたものだ。管理を放棄して追放した側が、うまくいったら返せと言っている)
リヒトの名前が差出人にあったのは、手紙の封蝋だけだった。本文の差出人はグラーフ。つまり、王子の名を使って宰相が動いている。
——いや、逆かもしれない。聖女ルナリアが王子を動かし、宰相を動かしている。
どちらにしても、答えは同じだ。
「マルグリットさん」
「なんだい」
「留守の間、何か変わったことはありましたか」
「……実はね。三日前に、王都から役人が一人来たんだ。村の中を見て回って、帳簿を見せろって言われたよ。フィンが対応してくれたけど」
「帳簿を見せろ……」
(事前調査か。発展の度合いを確認して、返還の根拠に使おうとしている)
フィンが来た。
「ねえちゃん、おかえり。あの役人、なんか感じ悪かったよ。帳簿を見て、ずっとメモ取ってた」
「どんなメモ?」
「税収の数字と、クラウゼン公国との取引額を書き写してた。あと『隣国との通商は王家の承認が必要ではないか』って聞かれた」
エリーゼの目が細くなった。
(なるほど。「管理の不備」ではなく「通敵」の線で攻めてくるつもりか。隣国との協定を、王家の承認なしに結んだと)
だが、それは通らない。
辺境領の通商権限は、領主に帰属する。王令第15条。辺境領の特例として、国境交易に関する裁量権が認められている。エリーゼは赴任前に条文を全て読み込んでいた。
問題は、相手がそんな法的根拠を気にするかどうかだ。
権力は、法を曲げる。前世でも見てきた。合法的な手続きを踏んでいても、上が「だめだ」と言えばひっくり返る。
(でも——逆に言えば、法的根拠が完璧なら、ひっくり返すコストが跳ね上がる。相手に「これを押し通すと自分が傷つく」と思わせれば、引き下がる)
エリーゼは机に向かった。
羊皮紙を広げ、ペンを取る。
『エルデ領返還要請に対する回答書(案)』
まず、返還の法的根拠の不在を指摘する。
辺境領の付与は王令第8条に基づく行政処分であり、同条には返還条項が存在しない。付与は一方的な恩恵ではなく、正式な辞令に基づく法的行為だ。辞令の撤回には、同等以上の法的手続きが必要になる。
次に、「管理の不備」の主張を事実で潰す。
決算報告書を添付する。税収の推移、人口の増加、インフラの整備状況。数字で示せば、「不適切な管理」という主張は根拠を失う。
さらに、通商協定の合法性を証明する。
王令第15条の条文を引用し、辺境領の通商裁量権を明示する。加えて、先例を3件。過去に辺境領が独自の通商協定を締結した事例を、宰相府の書庫で読んだ記録から引く。
(前世の行政訴訟の知識が、こんなところで役に立つとは)
ペンが走る。
条文の引用。事実の整理。反論の構成。一つ一つ、隙のない文章を組み上げていく。
夜が更けた。ハンコが膝に乗った。マルグリットが茶を持ってきてくれた。フィンが暖炉に薪をくべてくれた。
みんなが、エリーゼの背中を見守っていた。
翌日。回答書を仕上げる前に、もう一通の手紙を書いた。
宛先——クラウゼン公国将軍ヴォルフガング・ゼルスト。
王都からの返還要請の事実と、エリーゼの対応方針を報告する文書。通商協定のパートナーとして、情報を共有すべきだと判断した。
——それだけの理由だ。それ以外の理由は、ない。
返事は翌日の夕方に届いた。異例の速さだった。
書簡ではなかった。
ヴォルフ本人が来た。
馬を駆って、クルトすら連れずに、一人で。
マルグリットが窓から見て目を丸くした。
「あの将軍さん、一人で来たよ。護衛もなしに」
フィンが駆け出して馬を受け取った。馬が汗だくだった。相当な速さで飛ばしてきたのだろう。
(手紙を出したのが昨日の朝。届くのが今朝。読んですぐに馬を走らせたとしても——休まずに来た計算になる)
「閣下? なぜ——」
「手紙を読んだ」
ヴォルフの声が硬かった。碧い目に、あの横領の時と同じ冷たさがあった。
ただし、あのときの怒りは部下に向けられたものだった。今の怒りは——エリーゼを脅かす者に向けられている。
「……王家が動くなら、こちらも動く。あの領地はお前のものだ」
「閣下、お気持ちはありがたいのですが。これはレヴァイン王国の内政問題です。隣国の介入は、むしろ返還の口実を——」
「わかっている」
ヴォルフがエリーゼを見た。
「わかっている。国として動けば、お前の立場が悪くなる。だから国としては動かない」
「では——」
「お前個人として守りたいと言っている」
エリーゼの心臓が、一拍止まった。
国ではなく。将軍としてでもなく。個人として。
「…………え?」
「聞こえなかったか」
「聞こえました。聞こえましたが、今の発言の——意味を——」
ヴォルフの目が逸れた。
耳が赤い。
この人は今、何を言ったのか、自分でわかっているのだろうか。
「……忘れろ」
「忘れません」
即答した。自分でも驚くほど、速かった。
ヴォルフが顔を戻した。エリーゼを見た。
沈黙が落ちた。長い沈黙。
秋の風が、二人の間を吹き抜けた。
エリーゼの心臓が、うるさかった。前世でも現世でも、こんな音を聞いたことがない。鼓動が耳の奥で反響している。
これは——何だ。
この感覚は——何なのだ。
前世で徹夜明けに動悸がしたのとは違う。健康診断で心電図を取ったときの規則正しい波形とも違う。これはもっと不規則で、もっと温かくて、もっと——怖い。
「……ありがとうございます、閣下」
かろうじて、声を出した。
ヴォルフの耳がまだ赤い。
「……回答書を読ませてくれ」
「はい。今夜中に仕上げます」
「手伝う」
「閣下が?」
「法令の条文は読める。確認作業くらいはできる」
断る理由がなかった。
二人で机に向かった。エリーゼが書き、ヴォルフが条文を確認する。
肩が近い。
呼吸の音が聞こえる距離。
ハンコがヴォルフの足元に来た。ヴォルフがくしゃみをした。でも足を動かさなかった。
深夜。回答書が完成した。
王令の引用47条。事実認定の根拠12件。先例の参照3件。
完璧な反論書。一点の隙もない。
「……47条か」
ヴォルフが回答書を読み終えて、呟いた。
「お前の書類は武器だな」
「ペンは剣より強いと言いますから」
「……俺の剣より強いと言っているのか?」
「閣下の剣は別格です」
さらっと言った。本心だった。
ヴォルフが固まった。
数秒間、微動だにしなかった。
「…………帰る」
「お気をつけて。夜道は——」
「俺を誰だと思っている」
「北の鉄壁の将軍閣下ですね。でも、暗い道では馬の足元にお気をつけください」
「…………」
ヴォルフが馬に乗った。
去り際に、振り返った。
「回答書、送ったら知らせろ。何かあれば——すぐに来る」
「……はい」
馬蹄の音が夜に消えていく。
エリーゼは領主館の入り口に立ったまま、しばらく動けなかった。
胸の音が、まだ収まらない。
(「お前個人として守りたい」)
あの言葉が、頭の中でずっと響いている。
前世で、こんなことを言われたことがあっただろうか。ない。断言できる。
この世界でも。誰にも。一度も。
——忘れろ、とあの人は言った。
忘れない。忘れるわけがない。
エリーゼは執務室に戻り、完成した回答書を封筒に入れた。
明日、王都に送る。
この書類で、勝つ。
あの人が「守りたい」と言ってくれた場所を——自分の力で、守ってみせる。




