10話 隣国との通商協定を締結します──ただし条件があります
帳簿整理は、予告通り10日で完了した。
3年分の未決裁書類、全1,847件。仕分け、精査、決裁処理。横領案件の証拠整理を含めて、10日。
クルトが言った。
「閣下、あの令嬢に勲章を差し上げるべきでは」
「……検討する」
「冗談ですが、半分本気です」
エリーゼはエルデ領に戻り、日常業務に復帰した。
だが、帳簿整理をきっかけに、ヴォルフとの関係はもう「薬草の取引相手」では収まらなくなっていた。
ヴォルフから正式な提案が届いた。
『エルデ領とクラウゼン公国の間における通商協定の締結を提案する。詳細は別紙の通り。協議の日程を調整されたい。——ヴォルフガング・ゼルスト』
別紙には、協定の骨子が記されていた。薬草に限らず、農産物、加工品、技術協力を含む包括的な通商条約。
(……大きく出たな。でも、悪い提案じゃない。むしろ、エルデ領にとっては飛躍の好機だ)
エリーゼは協定文書の草案作成に取りかかった。
3日間、ほとんど眠らなかった。
通商協定は、薬草の売買契約とは次元が違う。二つの国の経済関係を規定する文書だ。一つの条文のミスが、何年にもわたって両国の不利益を生む。
前世で条例の起案に携わった経験を総動員した。主語と述語の対応。例外規定の漏れ。用語の定義条項。施行日と経過措置。
フィンが夜食を持ってきてくれた。マルグリットのスープだ。
「ねえちゃん、3日で4時間しか寝てないよ。死ぬよ?」
「死なないわ。前世ではもっと——」
「前世?」
「……前の職場では、もっとひどかった、という意味です」
「ねえちゃん、たまに変なこと言うよね」
スープを飲みながら、草案を見直した。全18条。一つ一つの条文を三度読み返し、曖昧な表現を潰していく。
完成したのは、出発の前夜だった。
交渉の日。場所はバルトハイムの商館。
テーブルを挟んで、エリーゼとヴォルフ。それぞれの後ろにクルトとフィンが控えている。
フィンを連れてきたのは、実地教育のためだ。交渉の場を見せておきたかった。
「では、協定案の読み合わせから始めましょう」
エリーゼが作成した協定文書は全18条。関税、輸送ルート、品質基準、紛争解決手続き、有効期間。あらゆる論点を事前に整理してあった。
ヴォルフ側の官僚が文書を受け取り、読み始めた。
沈黙が続く。ページをめくる音だけが響く。
官僚の一人が顔を上げた。
「……この文書、どなたが?」
「私が起案しました」
「これは……当国の法務局でも、ここまで精緻な協定文書は滅多に——」
「お褒めいただきありがとうございます。では、内容の協議に入りましょう」
交渉が始まった。
エリーゼは一歩も引かなかった。
関税率の設定。クラウゼン側が「薬草の関税を15%」と提案すれば、エリーゼは「10%。ただし加工品は5%とし、付加価値型産業の育成を相互に支援する」と返す。
輸送ルートの管理。「クラウゼン側が管理」と言われれば、「共同管理。ただし費用は輸送量に応じて按分」と切り返す。
すべての提案に、データと法的根拠がついていた。感情論は一切ない。数字と条文だけで押していく。
交渉が最も白熱したのは、第11条——紛争解決条項だった。
クラウゼン側の筆頭官僚が言った。
「紛争が生じた場合、クラウゼン公国の法令に準拠するものとする」
「お断りします」
エリーゼが即答した。
「いずれか一方の国内法に準拠すれば、その国が常に有利になります。紛争解決は両国の法令を比較参照し、二者間の協議によって解決すべきです」
「しかし、協議が決裂した場合は——」
「決裂しないよう、協定文書を精緻に作っています。曖昧さが紛争を生む。条文が明確であれば、解釈の余地は最小限に抑えられます」
官僚が押し黙った。
フィンが後ろで、目をまん丸にしていた。
(ねえちゃん……かっこいい……)
帰ったらノートに書こう。「交渉では、感情ではなく条文で殴る」と。
クラウゼン側の官僚たちが、何度も顔を見合わせた。この辺境の令嬢が、自国の行政エリートと互角以上に渡り合っている。
ヴォルフは黙って聞いていた。
口を挟まない。だが、エリーゼが鮮やかに反論するたびに——目が、動いた。
3時間の交渉の末、協定案が合意に達した。
最終的な関税率は12%。加工品は7%。輸送ルートは共同管理。紛争解決は第三国の仲裁ではなく、二者間協議を優先する。
エリーゼが勝ち取った条件だった。完全な勝利ではない。でも、辺境の小さな領地が隣国の大国と対等な条約を結んだ。それだけで、十分すぎる成果だ。
「では、双方の署名をもって発効とします」
エリーゼが署名した。ヴォルフが署名した。
二人のペンが、同じ羊皮紙の上を走る。
署名が終わった瞬間、フィンが後ろで小さくガッツポーズをしていた。クルトに肘で突かれて、慌てて姿勢を正した。
「……手加減がないな」
ヴォルフが言った。
エリーゼを見ている。
そして——口元が、微かに緩んだ。
笑みだ。
小さな、ほとんど見えない笑み。でも確かに、ヴォルフガング・ゼルストの口元が動いた。
クルトが目撃した。
「閣下が……笑った……?」
ヴォルフの口元が即座に元に戻った。
「笑っていない」
「いえ、今確かに——」
「笑っていない」
「閣下、私は20年お仕えしていますが、あの表情は初めて——」
「クルト。黙れ」
エリーゼは何も言わなかった。
ただ——見ていた。
見逃さなかった。
協定締結を祝う小さな宴が、バルトハイムの酒場で開かれた。
大げさなものではない。クラウゼン側の官僚数名と、エリーゼ、フィン、ヴォルフ、クルト。村人のために樽一つ分のエールが振る舞われた。
フィンが初めてのエールに目を輝かせている。
「ねえちゃん、これ美味い!」
「一杯だけよ。明日も帳簿があるんだから」
「えー」
「えー、じゃありません」
酒場の喧騒の中で、エリーゼはふと席を立った。
少し空気を吸いたかった。3時間の交渉は、精神的に消耗する。前世の予算折衝でもここまで疲れたことはなかった。
酒場の裏手に出ると、夜空が広がっていた。
星が多い。王都では見えなかった星が、ここでは手が届きそうなほど近い。
「……きれい」
思わず呟いた。
背後で足音がした。
振り向かなくても、わかった。鎧が擦れる音。重い足取り。
「暑かったか」
「少し。交渉は体力を使いますね」
ヴォルフが隣に来た。
二人で、夜空を見上げた。
沈黙。
でも、居心地のいい沈黙だった。
言葉が必要ない時間。前世では、こんな時間を共有できる相手がいなかった。
「こうして見ると、辺境も悪くないですね」
エリーゼが言った。
「…………ああ」
ヴォルフの返事は短かった。
でも——その声は、さっきまでの交渉の席の声とは違っていた。硬さが抜けて、低く、穏やかだった。
風が吹いた。秋の始まりの風。少し冷たい。
エリーゼが腕をさすった。薄着で出てきたことを後悔する。
ヴォルフの手が動いた。
マントの留め金に手をかけて——止まった。
コートを渡そうとしたのだ。たぶん。でも、途中でやめた。
代わりに、半歩だけ近づいた。
風よけになる距離。言葉にはしない。理由も言わない。ただ半歩。
でも——暖かかった。この人の体温は、鎧越しでもわかるくらい高い。
エリーゼは動かなかった。離れなかった。
半歩の距離。書類一枚分くらいの隙間。それが今の二人の距離だった。
「……閣下」
「何だ」
「今日の協定文書、閣下の署名がきれいでした」
「……署名の話か」
「ええ。前よりずっと、ペンの運びが安定していました。帳簿整理で練習されましたか?」
「…………」
ヴォルフが答えなかった。
答えなかったけれど、暗がりでもわかるくらい——耳が赤かった。
「……協定の発効は来月からです。忙しくなりますよ」
「構わない」
「私が忙しくなるという意味です」
「…………そうか」
また沈黙。でも——ヴォルフの声に、ほんの少し残念そうな色が混じった気がした。
(……気のせいだ。きっと気のせいだ)
二人は酒場に戻った。
フィンがエールを二杯目に手を伸ばしているのを、エリーゼが視線だけで阻止した。
翌日。エルデ領に戻ったエリーゼを、マルグリットが出迎えた。
「お帰り。交渉、うまくいったかい?」
「ええ。通商協定を締結しました。来月から正式に発効します」
「大したもんだねぇ。で、あの将軍さんとは?」
「何がですか」
「何がって……はぁ。もういいよ」
マルグリットが呆れた顔で台所に消えた。
エリーゼは執務室に入り、机の上の書類を確認した。
留守の間に届いた郵便物がいくつか。フィンが整理してくれている。
その中に、一通の手紙があった。
封蝋の紋章を見て、手が止まった。
王家の紋章。レヴァイン王国。
差出人は——第二王子リヒト。
エリーゼの表情が、一瞬だけ曇った。
封を切る。
中身を読んだ。
「…………」
手紙を、静かに机の上に置いた。
窓の外を見た。秋の空が広がっている。
あの夜空の星を、思い出した。隣に立っていた人の体温を、思い出した。
——そして、手紙の内容に、目を戻した。




