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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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1話 決裁印のない婚約破棄に法的拘束力はありません

 ——後にこの日のことを振り返って、エリーゼはこう記録している。


『当該婚約破棄は、手続き上の重大な瑕疵かしを含む無効な行政処分であった。なお、同日付で辺境エルデ領への異動辞令が発出されたが、結果として当該異動は本官の人生における最良の人事であったことを付記する。——理由:赴任先にて、生涯の伴侶と出会ったため』


 伴侶となった男は後にこう言った。


「防寒対策として、このコートの着用を命じる」

「書類の受け渡し効率化のため、隣の部屋に移れ」

「……婚姻届を決裁書類に紛れ込ませたのは、業務効率化の一環だ」


 全部嘘である。


 だがそれは、もう少し先の話。


 今はまだ——最悪の夜の話をしよう。


 王宮の大広間は、金色の魔灯に照らされていた。


 磨き上げられた大理石の床。銀の燭台。歴代国王の肖像画。レヴァイン王国の栄華を詰め込んだ空間だ。


 エリーゼ・ヴァイスフェルトは、その片隅に立っていた。


 いつもの指定席。壁際の、誰の視界にも入らない場所。


 (王太后の誕生祝賀会。出席は義務。帰宅予定は21時。それまでに明日の決算報告書の修正点を頭の中で洗い出しておきたい)


 社交の場でエリーゼに話しかける人間は少ない。「書庫の地味令嬢」——宰相府での通り名だ。


 別に構わない。


 (第三四半期の歳入が予算比で2.3%下振れしている。原因は南部の凶作。補正予算の起案が……いや、まず歳出の見直しが先か。宰相府の消耗品費、誰だあの金額を承認したのは)


 頭の中で予算書を開いていた、そのときだった。


 大広間の中央に、ひときわ華やかな人影が進み出た。


 金髪碧眼。白い軍装に宝剣を佩はいた青年。第二王子リヒト・レヴァイン。


 エリーゼの——一応、婚約者だ。


 「一応」と言うのは、この婚約が子爵家と王家の形式的な繋がりに過ぎず、リヒトがエリーゼと二人きりで会話した回数が片手で足りるからだ。


 その腕に、見知らぬ女性がすがりついていた。


 銀色の長い髪。大きな瞳に涙。人形のように美しい少女。白い法衣に聖印の刺繡。


 ——「浄化の聖女」ルナリア。


 嫌な予感がした。


 前世の勘だ。


 税務課時代、上司が金曜の17時に「ちょっといいか」と言うときの空気。議会答弁の前日に課長が目を逸らすときの空気。あの、胃が冷たくなる感覚だ。


 (——来るな。来ますね。はい来ましたね)


「皆、聞いてくれ」


 リヒトの声が広間に響いた。


「本日、私はこの場で宣言する。エリーゼ・ヴァイスフェルトとの婚約を——破棄する」


 広間がざわめいた。


 エリーゼは瞬きをひとつした。


 (——やっぱりそっちか。まあ、前兆はあった。先月から宰相府の私の決裁権限が妙に縮小されていたし、ルナリア聖女の予算要求が無審査で通っていたし)


 驚きは、ない。


 怒りは——ある。当然ある。


 でも前世で学んだ。感情的に書いた人事異議申立書は、必ず却下される。


「聖女ルナリアは、私に真実を教えてくれた」


 リヒトが芝居がかった仕草でルナリアの肩を抱く。


「エリーゼ、お前はもう不要だ」


 (不要。へぇ。前世でも同じことを言われたな。「君の仕事、AIで代替できるよね?」って。あのときの上司、翌月の議会で答弁できなくて泣いてたけど)


 ルナリアが涙を溢れさせた。完璧なタイミングで。完璧な角度で。


「わ、わたくし……ずっと我慢していたのですが……エリーゼ様に嫌がらせをされていたのです……。書庫で二人きりになったとき、『聖女の分際で』と……」


 貴族たちの視線がエリーゼに集まる。同情と非難が入り混じった目。


「まあ、あの地味な事務官が……」

「聖女様にそんな仕打ちを……」


 (書庫で二人きり? 私は書庫で帳簿としか二人きりになったことがないけど)


 ひそひそ声が広がる。


 エリーゼは黙って立っていた。


 ——冷静に。手続きに則って。


 感情で動かない。証拠で動く。それが行政職員の戦い方だ。


 エリーゼは一歩、前に出た。


「殿下」


 静かな声だった。ざわめきが少し収まる。


「この婚約破棄の手続きですが」


「……手続き?」


 リヒトが眉をひそめた。


 その反応で確信する。この人、何も調べていない。


「正式な破棄申請書は、どちらにございますか?」


 沈黙。


「王家の婚約は王令第12条に基づく公文書によって締結されております」


 エリーゼの声は、窓口で住民に制度を説明するときの声だった。丁寧で、正確で、一切の感情を含まない。


「口頭での破棄には——法的拘束力がございません」


 大広間が、凍った。


 泣くと思われていた。怒ると思われていた。あるいは、崩れ落ちると。


 誰もが期待した「惨めな令嬢」の絵面は、出てこなかった。


 代わりに立っていたのは——事務処理を始めた女だった。


「な、そんなものは後で——」


「では後日、正式な書面をご用意ください」


 エリーゼは止まらない。


「様式は宰相府の書庫に雛形がございます。なお、破棄に伴う慰謝料と財産分与の条項もお忘れなく」


「慰謝料だと?」


「はい。王令第12条の3。婚約破棄に関する補則です。破棄を申し立てた側が、相手方の逸失利益を補填する義務がございます」


 エリーゼは一呼吸置いて、こう付け加えた。


「算定には少々お時間をいただきますが——概算で、よろしいですか?」


 リヒトの顔から血の気が引いた。


「う、うるさい! 書類の話はいい!」


「書類の話が一番大事なのですが」


 (——本気で言っている。書類をなめるな)


 周囲の貴族たちがドン引きしている。聖女の涙も、王子の怒声も、この女の前では全部「決裁待ち案件」に変わる。


 ルナリアの涙が、引っ込んでいた。


 想定外だったのだろう。聖女の目が一瞬、冷たく光る。


 ——その目を、エリーゼは見逃さなかった。


 (なるほど。この人、泣いてない。目の奥が全く笑ってない。いや、笑ってないどころか、計算してる)


 けれど今は指摘しない。証拠がない。


 前世の上司の教え。「証拠のない告発は、告発した側が燃える」。


 覚えておこう。この目を。


「——よろしい」


 低い声が割って入った。


 宰相グラーフ。白髪の壮年。


 エリーゼの直属の上司だ。この男は知っている。エリーゼが宰相府の決算業務の三割を一人で回していることを。知っていて、黙っている。


 保身のためだ。


 (まあ、そうだよね。前世の課長もそうだった。部下の功績は自分のもの、部下の不始末は部下のもの。管理職の鑑かがみですね)


「エリーゼ・ヴァイスフェルト。婚約破棄の手続きは追って行うとして……」


 グラーフの目が泳いだ。


「辺境のエルデ領を与えよう。領主として、あの地を治めるがよい」


 エルデ領。


 王国の北端。クラウゼン公国との国境付近にある荒れ地。人口は数十人。街道もまともにない。


 実質的な——追放。


 周囲から哀れむ目が注がれる。ルナリアが、今度こそ本物の笑みを浮かべた。


 エリーゼの胸の奥で、何かが軋んだ。


 悔しい。理不尽だ。


 前世と同じだ。真面目に働いた人間が追い出される。声が大きいだけの人間が残る。二つの世界を生きて、二度同じ目に遭っている。


 拳を握った。爪が掌に食い込む。唇を噛む。


 ——でも。


 前世で泣いても、何も変わらなかった。


 怒鳴っても、何も変わらなかった。


 変わったのはいつも、正しい書類を正しい場所に出したときだけだった。


 エリーゼは拳を開いた。


「承知いたしました」


 頭を下げる。深く。しかし、折れてはいない。


「つきましては、辞令書をいただけますか。領地付与は王令第8条に基づく正式な行政処分ですので、書面なしでは赴任いたしかねます」


 グラーフが苦い顔をした。


「あと、引き継ぎ期間を2週間いただきたく存じます。現在担当している決算報告書の仕掛かり分がございますので。後任への申し送り事項も整理が必要です」


「……好きにせよ」


「ありがとうございます」


 エリーゼはもう一度だけ、広間を見渡した。


 哀れむ目。嘲笑う目。無関心な目。


 この中に、彼女が毎晩残業して整理していた帳簿の意味を知る人間は、ひとりもいない。


 (——いいよ。私の仕事の価値は、私が一番知ってる)


 背を向ける。大広間を出る。


 廊下に出た瞬間、足が少しだけ震えた。


 でも止まらなかった。


 歩きながら、もう頭は切り替わっている。


 (エルデ領。北部辺境。気候は寒冷。主要産業——不明。人口規模からして税収はほぼゼロ。インフラは期待できない)


 (クラウゼン公国との国境沿い。……ということは、隣国との通商ルートを確保できれば、立地は必ずしも不利ではない)


 (つまり——ゼロからの自治体立ち上げ)


 前世の記憶が蘇る。地方創生の研修。限界集落の再生事例。特産品開発。交付税の算定。


 口元が——持ち上がった。


 前世では、企画書を書いても予算がつかなかった。議会で否決された。上司に握りつぶされた。


 でも今度は違う。


 自分が領主だ。起案も、決裁も、執行も、全部自分でやれる。


 (……前世の企画政策課時代に比べたら、議会答弁がない分だけ天国かもしれない)


 宿舎に戻ったエリーゼは、机に向かった。


 白紙の羊皮紙を広げ、羽根ペンを取る。


『エルデ領赴任に伴う事前調査計画書(案)』


 日付。起案者名。


 決裁欄は——もう自分ひとりだ。


 少しだけ寂しくて、少しだけ、清々しい。


 ペンが走り出す。


 項目を書き連ねていく中で、ひとつの単語が目に留まった。


 ——クラウゼン公国。


 北の軍事国家。「北の鉄壁」と呼ばれる将軍が治める国。


 (隣国との関係構築は最優先課題。まずは情報収集から始めないと)


 このとき、エリーゼはまだ知らない。


 その将軍が、どんな顔をしているのかも。


 その将軍が、3年分の未決裁書類を机に積み上げているのかも。


 その将軍が、好意を全部「業務命令」の形でしか伝えられない不器用な男であることも。


 何も、知らない。


「さて」


 エリーゼは呟いた。


「仕事しますか」


 追放された令嬢の、静かな反撃が始まる。


 ——そしてそれは、書類から始まる恋の、最初の一ページでもあった。

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