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顔しか取り柄のないやたら態度が悪いイケ好かない男

 俊宏(ジュンホン)の店での一見以来、世海(シーハイ)はもやもやした気持ちがずっと続いていた。

 最後に見た海帆の後ろ姿が忘れられず、ふとした瞬間に蘇ってくる。

 ドラマの仕事が始まり、顔合わせや稽古などと慌ただしくしていても、集中している頭の中で彼女のシルエットは常にそこにいて、世海を悩ませた。

 このままでは仕事に支障が出る。

 そう思い至った世海はとうとう観念して、久しぶりに実家へ帰ることにした。

 海帆がいつも休日に世海の実家に来ていることは知っていたので、彼女の休みに合うように調整してスケジュールを立てる。

 一度ちゃんと話そう。ようやくそう決心がついてわざわざ行ったのに、そういう肝心な時に限って海帆はいなかった。

 あの大食漢が食事の時間に間に合わないはずがない、と実家の居間で世海は落ち着きなく外を気にしていたが、脳裏に焼き付いたすらりとした姿勢のいい姿が現れることはなかった。

 しかも、海帆が来ないことに家族の誰も気にする様子がなかった。

 世海の祖母、林淑芬(リンシュフェン)ですら、孫に近況を尋ねるだけで、他のことは何も聞いてこない。

 家族が揃ってるテーブルで、世海は途方に暮れた。

 海帆とここで食事をしたのはたった一回だけなのに、彼女がいないだけでなぜこんなにも物足りなさを感じるのだろうか。

 ころころとよく笑って、恵君(フェンジュン)の食事を楽しんでいた姿を思い出す。食べる仕草は優雅なのに、みるみるうちに皿が空になっていくのが不思議で、ずっと見ていられた。

「…………あいつはどうしたの?」

「あいつって誰のこと?」

 母親の問い返しに、世海は小さく呟く。

「…………あいつだよ。ミホ。今日は休みだから来るはずだろ」

「あんた知らないの? 小帆(シャオファン)は担当部署が増えたから、休みの日が変わったのよ。一昨日、来てくれたわ」

「……………………ふーん」

 知らなかった。

 ていうか、そういうことは頼まなくても恵君(フェンジュン)が世海に連絡してきてたのに、なぜ知らせてくれなかったのか。

 恨みがましく睨む息子の目付きもどこ吹く風で、恵君は涼しい顔で箸を動かしている。

 顔しか取り柄のないやたら態度が悪いイケ好かない男、で終わっちゃうぞ。

 俊宏の言葉が、ずうぅんと胸に重く響く。

 これはヤバい。絶対によくない。

 気持ちだけは焦るのに、世海はどうしたらいいのか、まるで分らなかった。


王宇(ワン・ユー)さん、在庫チェック済みました。上がりますね」

 注文票の記入とサインを終え、海帆は厨房担当のスタッフに声をかけた。

「ミホさん、おつかれ」

 穏やかな四十代男性特有の、落ち着きのある深い声に心密かに癒されながら、海帆はバックヤードへ向かった。

 ネクタイをゆるめ、カマーベストを外し、ふうと息をつく。

 海帆は今、空き要員が出てしまったグロンブル台湾のメインバー「Seagull」のバーテンとして、週に数回夜勤シフトに入っている。

 以前のスタッフが突然辞めてしまい、求人はかけているものの、他のスタッフではバーが回りきらないため、大学時代にバーテンのバイトをしていた海帆が急遽ヘルプとして入ったのだ。

 最初は少々戸惑ったが、店内の配置や在庫更新のタイミング、客層などを把握したらすぐに馴染むことができた。

 ホテルグロンブル台湾を使用するお客様は家族連れが多く、バーを利用する人もあまり長居をしないで穏やかに過ごされる方が多い。困った酔客も滅多に現れないので、新宿のバーでクセが強すぎる酔っ払いをあしらっていた海帆としては、余裕を持って店内に意識を行き渡らせることができた。

(でも最近お客様増えたよな)

 着替えをし、バーテンの制服をきれいに畳みながら、海帆はため息をつく。少し疲れが溜まっている。

 バーは男性客が多く、大半が寡黙に飲む人ばかりなのだか、ここ最近なぜか女性客が増えてきており、しかも連れ立って来店される方が多い。

 とてもありがたいことなのだが、なぜ急に客足が増えたのか分からない。

 しかもやたらと声をかけられる。

 身に沁みた接客業魂で顔や態度には出さないが、結構戸惑っている。

 実はグロンブル台湾のバーに新しく入ったバーテンが性別不詳な上、やたらミステリアスな雰囲気があると噂が出回っていて、その物見遊山で来店している客が増えているのだが、そのことを海帆は知らない。

 しかも初見時の海帆の落ち着いた佇まいときめ細やかなサービスに惚れ込む人が多く、リピーターも着実に増えている。ついでに、カマーベストとスラックスという彼女のバーテン姿を拝もうと、他のホテルスタッフまでもが、バーのヘルプに立候補してくるくらいだ。

 ただ当の本人は、お客様が増えて嬉しいなと思うのと、グロンブル台湾のスタッフは仕事熱心な人が多いなと感心するだけだった。

 着替えを終え、バックヤードから出る。

 一度スタッフルームへ寄って、次のシフトのスタッフと簡単な打合せと報告書を作成して、ようやくホテルを出た。

 深夜だが、こういう時に寮が近くにあると安心する。

 グロンブル台湾は、ホテルの近くにあるマンションを丸ごと従業員の寮として借りているので、出退勤が非常に楽だ。

 もちろん管理人が厳しく目を光らせているので、友人や恋人などは家に呼べないし、新人などは相部屋となってしまうが、海帆は日本での勤続年数と実績を加味してもらえたので、早々に個室をもらえた。

 基本的に誰とでもそつなく付き合うことはできるが、やはり個室はありがたい。

(お腹空いたな。なんか買っていこう)

 深夜という時間帯だが、結構ご飯ものを提供してくれるお店はある。

 最近お気に入りの鉄板焼のお店は、当然鉄板焼がメインなのだが深夜帯はお粥を出してくれる。その上、テイクアウトにも応じているので、海帆は今やこの店の常連だ。じゃことピーナッツを炒めたおかずや、ネギ入りの卵焼きなどと一緒に食べるのが最近のお気に入りで、一日三食毎回これでもいいかも、と思えてしまうほど美味しい。

 テイクアウトにしようかな。

 管理人の奥さんは料理自慢で、寮生相手に手料理を振る舞うのを生き甲斐にしている。実際とても美味しいので喜んでいただくのだが、無類の話し好きなのが少々難で、一度捕まると簡単には解放してくれない。

 今日は疲れたし、食事が済んだらさっさと寝てしまいたい。海帆はテイクアウトすることに決め、鉄板焼屋へ向かった。

 夕飯を決め、歩き出しながら携帯電話をチェックすると、着信があった。

 場所は日本、雄一からだ。

 かけ直して数秒で懐かしい声が聞こえてくる。

『悪い、電話料金かかるだろう? かけ直すよ』

「ううん、いいよ。そんなに長くかからなければ。どうしたの?」

 久しぶりに聞く雄一の声と日本語に、海帆の顔に穏やかな笑みが広がる。

『いや、なんかちょっと声が聞きたくなって』

「なあに、なんかやましいことでもしたの?」

 からかうと、実はさ〜と雄一が冗談を返してくる。

 数か月前まで普通に交わしていたやり取り。意識していなかった緊張感が静かにほどけていくのを感じる。

 思っていたよりも海帆は疲れていたようで、雄一とのこういったやり取りにほっとする。近くにあったコンクリートブロックに腰掛け、しばらくの間、恋人との語らいを楽しんだ。

 とはいえ国際電話なので、そんなに長くは話せない。また電話をすることを約束し、だらだらと話しを長引かせながらようやく通話を切る。

 久しぶりの恋人との語らいに、満足げなため息が出る。予定外に長く話してしまった。急いで夕飯を買って帰ろう。急ごうとする海帆の顔には、微笑みが浮かんでいた。

 だが、暗い夜道に出て数歩、海帆はバッと後ろを振り返った。

 誰もいない。

 なんだろう、なんだかとても無視できない視線を感じたんだけど。

 周囲を見渡しても、怪しい人影は見当たらない。

 ホテルに戻るか、鉄板焼屋に行くか、それとも寮に帰るか。

 悩んだのは一瞬、海帆は足早に寮へと急いだ。


 何をやっているんだ、俺は。

 急ぎ足で去っていく海帆の足音を聞きながら、世海は暗がりで頭を抱えた。

 怖がらせてどうするんだ、完全に不審者じゃないか。

 この間の無礼を謝ろうと彼女の勤め先まで来たのはいいが、カウンターやロビー、海帆がいそうな場所に尋ね人は現れず、かといってホテルスタッフに気軽に聞いて回れる身分でもないため、世海は難儀した。

 しばらくしてようやく、海帆らしきバーテンダーがいるという話しを聞きつけ、世海はホテルの地下にあるバーへと向かい、そこでバーテンとして働いてる海帆を見つけたのだ。

 普段の清潔感のあるコンシェルジュの装いとは違い、白シャツにカマーベスト、ラフにアップにした髪型の海帆は夜の大人の雰囲気が漂ってとても色っぽく、そつなく客の相手をしながら店内に気配りをしていた。

 素直にカッコいいと思った。

 話しを聞きつけた時の女性が、少し興奮気味に海帆のことを褒めていたのが分かる。

 海帆はどこか人を惹きつける雰囲気がある。昼間のコンシェルジュの時は親しみやすく、どんな問題も顔色一つ変えず解決できる有能さを感じさせるのに、夜の装いを纏うと一変して近寄りがたいミステリアスな人物になる。

 職業柄、彼女よりも美人な女性には何人も会っているのに、海帆という存在は世海に強く印象を残すのだ。

 そのことに気づいた世海は激しく動揺した。

 気づいたというより、気づきたくなかったのにうっかり認識してしまった、という方が正しいか。

 とにかく世海は店内に入って勤務中の海帆に会う気にはなれず、彼女の仕事が終わるまで待つことにしたのだ。

 だが、上りの時間になって外に出てきた海帆は、携帯電話を確認してすぐに誰かに電話をかけ始めた。

 誰と話しているのか、すぐに分かった。

 日本語は分からないけど、彼女の表情を見れば察しはつく。

 世海は奮い立たせていた意気込みが急に萎えてしまい、立ち去ることもできずその場に留まるしかなかった。

 俺はこんなに情けないやつだったのか?

 暗がりをぼんやりと見つめながら、世海は自問する。答えは出ない。

「……………………帰ろう」

 ぽつんと呟いて、世海は海帆とは反対方向へと歩き出した。

 そんなことがあったからか、翌日の世海の一日は散々なものとなった。

 出演ドラマの台本の読み合わせが上手く出来ず、監督に何度もダメ出しをくらいひどく落ち込んだ上、共演者が遅刻してしまったので世海の予定も狂ってしまい、その後の仕事の調整もせざるを得なくなり、現場は静かなのに時限爆弾を抱えているかのような緊張感の中で仕事をする羽目になった。

 特に世海のマネージャーの宇翔(ユーシャン)は、胃が破けるのを心配しているのか、常に胸の下あたりをさすりながら携帯電話片手に四六時中どこかと連絡をとっていた。

「エリック! 待って」

 呼び止められ、世海はため息を押し殺して振り返る。

 今日のトラブルの張本人がすぐ後ろに立っていた。

「歩くの早えーな。置いて行くなよ」

 爽やかな笑顔の青年が、世海の肩に強引に腕を回した。

 カイル・チェンは今人気の五人組アイドルグループの一員で、押し出しの強い兄貴風キャラで人気がある。最近、ドラマ出演も増えてきており、俳優業として本腰を入れているらしい。

「なあ、エリック。今日はごめんな? 俺が遅刻したせいでそっちの仕事まで遅れちゃったみたいで」

「別にいいよ。気にするな」

 素っ気なく言って、世海はカイルの太い腕から逃れようと体をひねった。

 潔癖症の気があるので、世海は人に近づかれて触れられるのが苦手だ。今後、恋愛ドラマものに出るのは必須なのだから、なんとかしてその性癖を治せ、と宇翔から口を酸っぱくして言われているのだが、小さい頃からの習性はどうしようもなくて、カイルのようにぐいぐいと距離を詰めてくる奴がいると離れたくなる。

「気にするよ。エリックが仕事に一生懸命なの、知ってるからさ。なあ、お詫びと言ったらなんだけど、この後飲みに行かない? おごるからさ。用事ある?」

「誰かさんのせいでこの後あったはずの用事が明日に延期されたから、ない。でも行かない」

 ツレナイこと言うなよ〜。カイルが世海の肩をバンバン叩く。痛い。

 やめろ、と腕を振り払って怒鳴りつけようとしたが、カイルの太い腕からなかなか逃れることが出来ない。

「離せ!」

「行くって言うまで離さない〜。頼むよ、お詫びさせて〜」

 ギリギリとさらに締め付けられて、世海はとうとうギブアップした。

「……わかった。行くよ」

「よっしゃ!」

 カイルが大げさにガッツポーズをする。それを見て、世海は少しだけ笑った。

 今日は散々な日だったから、酒でも飲んで気分転換をするのもいいかもしれない。

 強引だが、カイルは明るくて人懐っこいし、同年代なので気を使わなくて済む。奢ってくれるし。

 普段ならマネージャーの宇翔に必ず確認を取るのだが、彼はまだどこかと連絡を取っていて忙しそうだったし、世海はとにかく酒でも飲んで鬱憤を晴らしたかった。

 集中力を妨げる頭の中の存在を、早く消してしまいたかった。

「個室なんだ。そっちの方がいいだろ?」

「うん」

 なかば引きずられるようにして、世海はカイルと歩き出した。


「……………………酒を奢るって言ったよな」

「言ったよ? 今日は俺の奢りだ!!」

 カイルの豪快な雄叫びに、周囲からイェーイと声が上がる。

 いま流行りのスピークイージーバー。落ち着いてしっとりした店内の奥、大部屋の個室内に男女十数人くらいが賑わっている。

 見知った顔ぶれがかなりいるので、カイルの業界仲間がほとんどなのだろう。とはいえ、会話をしたことがあるのは一人もいない。

 こんなことになるなら、絶対に来なかった。

 苦虫を噛み潰したような顔で、世海はロックグラスを傾ける。カイルの顔を潰さない程度に付き合ったら、さっさとお暇するつもりなので、彼の周りには高い高い壁が築かれていた。

 その壁は分厚くて、何人かの男女が世海の隣に来て話しかけてきたが、突破できたものはいない。

 一人を除いて。

「エリックー、飲んでるー?」

 しなだれかかる体を無視しつつ、微妙な部位に腕が当たらないよう体をずらす。

 もたれかかる方は、そんな世海の努力に気づいてるのか気づいてないのか、けらけらと笑ってさらに密着してきた。

「もー、相変わらず仏頂面なんだからー。たまには笑ってよー」

 メイ・クー。華奢な体つきに雪のように白い肌、天使のリングが浮かんでる黒髪ロングヘアーに少々垂れてる大きな瞳が可愛らしい、まさに清純派の王道を闊歩してるような子だ。去年の若手女優ランキングでも上位にランクインし、男性からの指示が圧倒的に多いことでも知られている。

 世海は一度、彼女とドラマで共演したことがあるのだが、その頃よりだいぶ大人っぽくなったようだ。

「酒飲んでも平気なのか?」

「あーやっとしゃべった。ハロー楽しんでる?」

 カクテルグラス片手におどけるメイに、世海は呆れたように肩をすくめた。

「楽しんでるよ」

「なら楽しい顔しなよ。お通夜みたいだよ。どしたのフラレた?」

 話し聞こか? と首をかしげるメイは天使のように可愛かったが、口にする言葉がいちいち気に障る。

「そんなんじゃない」

「じゃあなに?」

 世海の肩に顎をのせるメイの顔をじっと見下ろす。かわいい。今の世海の立場に成り代わりたいと望む男は大勢いるはずで、実際何人か羨ましそうにこちらを見ている。

 でもどうしてか、それ以上に心を動かされることがなかった。

 はああ、と世海は大きくため息をついた。

「…………なんなの?」

「いやなんでも。お前はカワイイな、メイ」

 素直に言った言葉だ。少なくとも世海は褒めたつもりだったのだが、なぜかメイの顔から機嫌のよさそうな笑顔が消えた。

 ありがとー、と言って彼女は席を立ってしまった。

 また一人になった世海は前よりも虚しくなって、テーブルの上にあるボトルに手を伸ばして、手当たり次第にグラスに注ぎ、一気に煽りはじめた。

「おい、無理な飲み方するなよ」

 離れた場所から諌めるカイルを無視して、世海はひたすらグラスに注いだ酒を飲み続けた。

 そんな無理な飲み方がいけなかったのか、それともメイの祟りか、しばらくすると世海はすっかり出来上がり、立つのもままならない状態でソファに突っ伏していた。

「おーい大丈夫かー?」

「……………………らいじょーぶ」

 声をかけてくるカイルに、世海はソファに潰れたまま返事をした。完全にろれつが回っていない。

 おかしい、この程度でこんなに酔うはずがないのに。

 世海は酒には強い方で、酔ったとしても多少顔が赤くなるだけで酩酊することなんて今までなかったし、そうなるほど飲んでいないはずだ。

 だが、いま彼は強烈な倦怠感に襲われているし、膝から太ももにかけて、熱く力が抜ける感覚がずっと抜けきらない。

 これは、だめだ。帰らなければ。

「かえる……」

「そりゃ別にいいけど、一人で帰れるか?」

 らいじょーぶ、と応えて、世海はふらつきながら立ち上がった。

 ぐらぐらする視界の中でなんとか部屋のドアまでたどり着く。それまでに何度か壁やテーブルや人などにぶつかっていた。

「わりーな、酔ってんだ」

 倒したスタンド照明に謝罪し、扉を開けようとして、とうとう自分が倒れてしまった。

「言わんこっちゃないな。エリック、しっかりしろ」

 腕を引っ張られて立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

「少し休んだほうがいいよ。それから帰れば?」

 誰かがそう言って世海の傍に跪いた。

 顔を上げて相手を確認しようとするが、倒れた拍子にコンタクトを落としてしまったらしく、視界がぼやけて誰だか分からない。

 周囲に人が集まっている。注目を浴びているのが嫌で、世海は無理にでも起き上がろうとするが、どうしても足に力が入らなかった。

「無理しないで、休みなよ。ほらソファ行こ」

 やたら優しい声が不気味で、冗談じゃないと起き上がろうとしたら、腹の上に何かが乗っている。

「なに……」

「んー? 気持ち悪そうだから、ベルト緩めてあげようと思って」

 世海の腹の上にまたがった誰かが、笑みを含んだ口調でそう言うと、ハハハと周囲からも笑い声が上がり、はやし立てる声が大きくなる。

 ちょっとした余興とでも思っているのだろうが、世海にとってはとんでもない話で、下腹部の辺りをまさぐられて完全に鳥肌が立った。

「やめろ!」

 腹の上に乗る存在を押しのけ、世海は部屋から逃げ出した。

 そこからは無我夢中で走り、店もいつの間にか飛び出していた。体を襲う悪寒は収まらず、世海はとにかく明るい方へとふらつきながら進む。

 ようやく車が行き交う通りに出た世海はタクシーを拾い、倒れ込むように乗り込んだ。

 どこまで、と問いかける運転手に、切れ切れになる意識の中で口にしたのは、

「グロンブルホテル」


「ミホさん、ミホさん!」

 フロントスタッフの慌てた声に、異変を感じ取った海帆は帰り支度を途中で止め、すぐに呼びかけた相手のもとへ向かった。

「どうしたの」

「あの、タクシーがすごく怒っていて、酔っぱらいがミホさん呼んでて、お金を払わないって!」

 要領を得ない説明だが、取り敢えず現場へ急ぐ。着替えの途中だったが、まだシャツとスラックスを着ていたので、見苦しくない程度に整えながら急ぎ足で歩いた。

 連れて行かれたのはホテルのタクシー乗り場。そこに顔を真っ赤にして怒る運転手と、その車内でうずくまる、

「世海くん!」

 海帆はタクシーに駆け寄った。後部座席には明らかに具合が悪そうな様子で世海が倒れ込んでいる。

「世海くん、どうしたの? 何があったの」

 呼びかけても苦しそうに呻くだけで、応える様子はない。

 運転手に事情を聞くと、タクシーに乗り込んで「グロンブルホテルまで」と言ったあと倒れてしまい、そこから一向に起きる気配はなかったという。ホテルに着いて何度呼びかけても起きず、なんとか目を覚ましても朦朧とした様子で「ミホ、ミホ……」と言って倒れる始末。仕方がないので、体を起こそうとすると狂ったように手を振り回して嫌がるのだそうだ。

 まだ支払いもしてもらってないのに、と怒る運転手に運賃を支払い、海帆は世海を引き取るため再び声をかけた。

「世海くん、起きて」

 さっきよりも更に近くに寄り添って声をかけると、ようやく世海が目を開いてこっちを見た。

「おまえ……」

「うん、海帆だよ。起きられる?」

 怖がらせないようにそっと世海の腕に手をかけると、がばっと突然抱きつかれた。

「うわっ……」

 不意打ちだったのでバランスを崩し、海帆は世海に抱きつかれたまま車外へ倒れ込む。

「ミホ、ミホ……」

 倒れても海帆にすがりついたまま離れない世海からは、強いアルコールの匂いがする。

「世海くん、お酒飲んでるの?」

「……………………のんでる」

 呻くように答えた世海は、海帆にすがりつく腕を強めた。

「気持ち悪い、きもちわるい……」

「待って待って待って。まだ吐かないで」

 道端でエリック・スンを嘔吐させるわけにはいかない。

 慌てて海帆は世海を抱き起こし、そばでおろおろしていたスタッフに声をかけた。

「アビー、どこでもいいから空き部屋を一つ確保して。彼を連れて行くから」

「分かりましたッ」

 走り去るスタッフがフロントに駆け込む。

 海帆はしがみつく世海をなだめて腕の力を緩めてもらい、体をひねって彼を背負った。

「うわ、けっこう重いな……」

 海帆のつぶやきが気に入らなかったらしく、世海がうめき声で抗議する。

 ぐったりした世海を背負ったままホテルに入り、近くのトイレへ直行した。海帆の背中で、世海はかなり苦しそうだ。じっとりと汗ばんでいるのが背中越しに伝わってくる。

 彼がえづきそうになるたびに、海帆は背中に吐かれることを覚悟したが、世海は口を真一文字に引き結んでどうにか耐えていた。

 ようやく目的の場所に到着すると、蹴破る勢いでトイレのドアを開け、世海と中に飛び込んだ。

「世海くん、よく我慢したね。トイレ着いたよ」

 声をかけながら慎重に背中から下ろし、吐きやすいように誘導する。態勢を整えさせてから、彼が気にならないようにその場から出ようとしたが、なぜか世海は便器を抱え込んだまま動かない。

「どうしたの?」

「う、うぅ……」

 どうやら吐けなくなったようだ。

 ここまで必死で耐えてきた分、出すことへの抵抗が強くなってしまったらしい。

 それでも気持ち悪さは増すばかりなのか、世海の顔色はみるみる悪くなっていく。

 こうなってはしょうがない。海帆は覚悟を決め、袖をまくった。

 洗面所へ行き、勢いよく水を出す。

「世海くん、よく見てね。こっち、よく見て」

 声をかけると、世海は苦しそうにうめきながら、なんとか顔を上げて海帆を見上げた。

 海帆はハンドソープを手に取り、急いで手を洗い始めた。

「ほら、私いま手を洗ってるからね。よく見てね、すごくキレイに洗ったから」

 指の股、爪の先を特に念入りに洗浄し、しっかりとすすいだ手の平を世海に見せる。

 世海はうつろな目で一部始終を見守り、何がなんだか分からない顔をしながら素直に小さく頷いた。

 それを見届けた海帆は世海のそばにひざまずき、彼の後頭部を優しく支え、おもむろに口を開けさせると人差し指をのどの奥に押し込んだ。

「…………!」

 驚いた世海に指を噛まれる前に、舌のなるべく奥の方を押して引き抜く。

 世海は海帆を押しのけて便器を抱え込み、胃の中のものを思いっきり吐き始めた。

 海帆はそばで背中をさすり続ける。

 苦しそうなうめき声がしばらく続いた後、吐く物が無くなって胃液だけになってきたところで、世海は弱々しくその手を振り払った。

「触るな……」

「うん、ごめん」

 海帆はすぐに世海から身を離す。

 世海はよろめきながら洗面台にすがりつき、勢いよく水を出して口を濯いだ。

「おまえ、なんてことを……なんでこんなこと…………」

 貞操を奪われた乙女みたいな風情で呟き、世海はがくんっと崩れ落ちた。

「世海くん!」

 再び海帆に抱きとめられた世海は、抵抗する力もなく意識を失い、海帆の腕の中に倒れこんだ。


 目を覚ましたら、世海はベッドに横向きで寝かせられていた。

 衣服はゆるめられ、毛布がかけられていてあたたかく、室内は適度に暗くしてあって居心地がいい。

 どうやらグロンブルホテルの一室のようだ。トイレで盛大に吐いて気を失った後、連れてこられたのだろう。

 体は動かしたくないほどだるいが、さっきまでのどうしようもない程の気持ち悪さは無くなっていた。

「気がついた?」

 声をかけられ目だけを向けると、海帆がすぐそばにいた。

 髪型は乱れ、服装は楽なように崩している。心配そうに世海を見つめる顔は化粧が落ちていて、疲れた表情をしているのに、どうしてかそんな海帆を見て世海は安心した。

 それが無性に悔しくて、世海は返事をせずに目をそらした。

「……この部屋は取ってあるから、気にしないでゆっくり休んで。水はここに置いておくから」

 ことんとサイドテーブルにミネラルウォーターが置かれる。

 それでも世海は無視を決め込んだが、海帆は構わず続けた。

「できるだけこまめに水分補給してね。寝る時は仰向けにならないように」

「うるさい、そんなこと知ってる」

 鬱陶しくて怒鳴ったら、海帆は逆にほっとしたようだ。

「ああ、よかった。元気そうだね」

 安心したように微笑まれて、世海はいたたまれなくなる。

 ぎゅっと目をつぶって視界から海帆を追い出す。

 彼女はしばらくなにか言いたそうにその場にいたが、「帰る時はこれをフロントに返してね」とだけ言って、部屋のカードキーを置いて立ち上がった。

 ゆったりした足取り。部屋から出ていくのだ。そりゃそうだ、何時間立ってるか知らないが、海帆の上がりの時間はとっくに過ぎているはずだ。

 他のスタッフに世海を託して自分は帰ることも出来たのに、彼が目を覚ますまでそばに付き添っていてくれたのだ。

 世海の頭の中に、俊宏に言われた言葉が蘇る。

 顔しか取り柄のないやたら態度が悪いイケ好かない男。

「お、お前、なんであんなことができるんだ」

 世海の声は思いの外小さくて、もしかしたら聞こえないかと思ったが、海帆はドアを開けようとする手を止めて振り向いた。

「ん? あんなことって?」

 聞き返した海帆が戻ってくる気配がして、なぜかほっとする。

 また同じ場所に立つ海帆を、世海は恨めしげに睨みつけた。

「人の口に指突っ込んで無理やり吐かせるなんて、よくできるな。しかも俺に断りもなく、むりやり」

 トイレで何も言われずにいきなり吐かされたショックが蘇って、怒りがこみ上げてくる。例え医者であっても、口に指を突っ込ませることなんて世海はやらせない。絶対に。

 まだ体に力が入らず、身を起こして海帆と対峙することは出来ないが、怒気を含んだ目つきで睨む世海に、海帆は「ごめん」と謝った。

 それからしばらく沈黙が続いた。

 世海はさらに文句を言おうとしていたが急に萎えてしまったし、海帆は言い訳をするつもりはないらしく、叱責を受け入れる態度を崩さない。

 沈黙が居心地が悪くなった頃に、海帆はそっとベッドに腰掛けた。

「私、大学時代バーテンのバイトしててさ」

 世海を優しく見下ろす海帆は、うるさくないように静かな口調で話しだした。

「ああいう仕事はお客さんの相手をして飲むことがよくあるでしょう。私お酒は強いほうだけどやっぱり酔ってくるし、でもそうすると仕事にならないから、時々裏に行って自分で吐いてたんだ」

 信じられない、という顔をする世海に海帆は安心させるように微笑んだ。

「お店のお姉さんたちに教えてもらったんだよ。アルコールが抜けるわけじゃないけど、多少すっきりするから。それで覚えたらなんか上手くなっちゃって、そのうちお客さんやお姉さんたちの世話もするようになって……」

 ゴッドハンドって呼ばれてたのよ。なんでもないことのように言う海帆を、世海はしばらく見つめた。

「……もう二度とするな」

「うん、もうしないよ。ごめんね、気持ち悪かったよね」

「俺だけじゃない。他の奴にもだ」

 じっと海帆を見つめて、世海はもう一度言った。

「もうするな」

 世海の口調と表情は静かだったが、海帆の心に重く響く何かがあり、彼女は素直に頷いた。

「分かった。もうしない」

 うん、と頷いた世海はため息をつき、目を閉じた。

 もう寝たいのかな、と海帆は思ったが、立ち上がりかけたところでまた世海は話しだす。

「…………お前、バーテン以外にもしたことがあるのか?」

「何を?」

 聞き返されて言いにくそうにする世海を見て、ああ、と察した海帆は苦笑した。

「したことないよ。私はあくまでバーテン。カウンター越しにお客さんの相手をしていただけ」

「そうか」

 そうか、ともう一度呟いて、世海は安堵したように息を吐いた。

 そしておもむろにペットボトルを手に取り、水を飲みだした。

「ゆっくり飲んで」

「分かってる」

 そう言いつつ、ボトルの半分ほど一気に飲み、咎めるように海帆を睨んだ。

「なんで、そんなバイトをしていたんだよ。危ないだろ」

「時給がいいから」

 あっさりした海帆の答えに、世海はがっくりと肩を落とす。

「だからって……」

「一応ちゃんとしたお店かどうかはきちんと調べたよ。あと、うちは三人兄弟で私の下には弟がいるから、親にあんまり負担かけたくなかったし」

 そこまで言われると世海も黙るしかない。

 ぶすっとした顔でペットボトルを握りしめる世海に、海帆は微笑みかけた。

「世海くん、心配してくれるんだ」

「別に……」

 口ごもりながら水を飲もうとすると、すでに空だった。

 海帆が立ち上がり、冷蔵庫から新しいボトルを取り出し、世海に手渡しながら言う。

「嫌いじゃないんだよ、この仕事。カウンター越しにお客さまとコミュニケーションを取りながらお酒を提供して、喜んでもらえたら嬉しいし。色んな人と会えるのも楽しいから」

 バーに来る客は味に厳しい人も多いため、自分が作ったカクテルを喜んでもらえた時の嬉しさは格別で、普段の生活では出会えないような、様々な職業や年齢の人たちと知り合うことで自分の世界を広げることができるのも、やりがいと成長を感じられた。なによりバーカウンター越しにお酒を味わう客の反応を常に知ることができるのは、自分の仕事の成果を実感できる。

 ようは接客業が向いてるのだ。

「このホテルのバーへ来るお客様に変な人は少ないから、そんなに大変じゃないしね。リラックスして仕事できてるよ」

「……そうか」

 安心して、と笑う海帆の笑顔から目をそらし、世海は水を飲む。

 そんな世海をじっと見て、海帆はゆっくりと切り出した。

「私からもいいかな」

 真剣な表情をする海帆に、世海は「なんだ」と目だけで聞く。

「警察呼ぶ?」

 何を言われたのか理解できなくて、世海は間の抜けた顔で海帆を見返した。

 その間にも、海帆は話し続ける。

「世海くん、お酒強いのにあんな風に酔っぱらうなんてちょっと変だし、どこかから逃げ出してきたように思えたから」

 通報するなら早めの方がいい。

 真剣に言う海帆の様子に、世海はようやく我に返って慌てて手を振った。

「必要ない、知り合いと飲んで、飲みすぎただけだ。事件に巻き込まれたわけじゃない」

「本当に?」

「本当だ」

 心配そうに見つめる海帆を真正面から見つめ返す世海の顔は真剣で、噓をついてるようには見えない。

 それでも海帆は何かを言おうとしたが、携帯電話の着信音がそれを遮った。

 世海のスマホだ。サイドテーブルの上で振動する画面を確認した世海は、すぐに手に取った。

「マネージャーだ」

 なぜかホッとして、世海は電話に出た。次の瞬間、凄まじい怒鳴り声がとどろき渡り、世海は腕をいっぱいに伸ばしてスマホを耳から遠ざけたが、がなり声はさらに大きくなる。

 当然、そばにいた海帆にも聞こえてる。彼女は目を丸くして、固まっていた。

 電話の向こうの相手の怒りの度合いが容易に把握できる。

「怒ってるね」

「ああ……」

 世海はなんとか話しをしようとするが、マネージャー宇翔の怒りは収まるどころかますますヒートアップしていくばかりで、嬉々として電話を手にとったさっきまでの様子はすぐにしぼんで、修行僧のような顔で耐え忍ぶ。

「世海くん、マネージャーさんに今夜のこと言ってなかったの?」

「……………………」

 沈黙は肯定か。海帆はため息をついた。

「寝ている間、スマホすごく鳴ってたんだよね、何回も。言っておけばよかった。マネージャーさんだったんだ」

 世海は答えない。それどころではない。

 とりあえず、ここから先は彼のプライベートだ。海帆は部屋から出ようと立ち上がりかけたが、意外なことにその手を世海が掴んだ。

 引き留めようとするかのような行動に、海帆が首をかしげて振り返ると、世海は気まずそうにしながら、ぐいっとさらに強い力で引っ張る。

 すとん、と再び海帆は世海の傍に座る。

「なに?」

「……………………今まで寝ていたから、説明できない。お前が言って」

 ぐいっと携帯電話を渡され、海帆は目をぱちくりしていたが、ようやくその意図を理解し、大音量でがなり立てるスマホを受け取った。

 絶え間ない怒鳴り声のタイミングを伺い、一瞬の息継ぎの間にすかさず口を挟む。

「お電話変わりました、ホテルグロンブル台湾の橘海帆と申します」

『は? なに? た……? ええ?』

 電話の相手が突然変わり、混乱した声が海帆の耳に届いたが、構わずそのまま話しを続けた。

「エリック・スン様のマネージャー様でございますね。状況の経緯をご説明させていただきたいのですが、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

 未だ当惑している宇翔に、海帆は今までのいきさつを簡潔に説明した。

 電話の相手が変わったことで宇翔の怒りも静まったのか、徐々に落ち着きを取り戻して話しを聞くようになった。『すぐにそちらに行きます!』と言って慌ただしく通話が切られる。

「すぐに来るって」

 携帯電話を返しながらそう伝えると、世海は黙って頷いた。

「…………悪いけど、宇翔が来るまでは」

「待ってるよ。直接会って話しをしないと」

 俳優エリック・スンを保護したホテルスタッフが電話だけで説明、というわけにはいかない。

 海帆は、宇翔が来ることをフロントに内線電話で伝えながら、着崩していた身なりを整えた。

 三十分ほどして、宇翔が息を切らせて現れた。

 部屋のドアを開けて迎えた海帆の姿を見て、宇翔は一瞬あっけに取られたが、すぐに奥で横たわっている世海のもとへ駆け寄る。

 それからしばらくは小声で短く説明する世海と、倍の声量で長々と叱りつける宇翔のやり取りが続き、海帆は一歩下がった場所で姿勢よく立って辛抱強く待ち続けた。

 多少口答えをすることもあったが、意外にも世海は素直に怒られていて、反省した様子で叱責を受け入れている。

 そういえば小さい頃も、母親の恵君に怒られる時は、こんな風にじっと俯いて大人しくしていたな。

 つい思わずまじまじと見つめていたら、それに気づいた世海に睨まれた。

 それを見て、宇翔はようやく海帆の存在を思い出したのか、急いで振り返って訝しげな視線を投げかける。

「えっと、あなたは?」

 海帆は一歩前に出て、改めて自分の身分を説明しようとしたが、それより先に世海が口を開く。

「俺の幼馴染だ」

「幼馴染?」

 驚いた声を出す宇翔だったが、同じくらい海帆も驚いていた。

 なんとなく、世海は海帆との関係を隠したいだろうと思っていたのだ。

「…………先ほど、お電話でお話させていただきました、ホテルグロンブル台湾の橘海帆です」

 自己紹介をすると、宇翔も慌てて海帆に向き合った。

「さっきはどうも。私は陳宇翔(チェン・ユーシャン)で、エリックのマネージャーをしています。今夜はお世話になりました」

「いえ、すぐにお知らせするべきでしたのに、ご連絡するのが遅れてしまい、誠に申し訳ございません」

 かしこまる海帆に、いやいやいやと宇翔が手を振る。

「今回はエリックが軽はずみだったんです。よりによってカイルの誘いに乗るとは、俺も油断してました」

「今回だけだ。次はしない」

 真面目な顔で約束をする世海に、宇翔はため息をつく。

「そう願うよ」

 ところで、と宇翔は再び海帆に向き直った。その目には、好奇心がちらちらと輝いている。

「エリックとは幼馴染だそうですね」

「…………はい、そうです。と言っても、五歳の頃に別れて、再会したのはつい最近ですが」

 とびきりの営業スマイルで肯定すると、宇翔はなぜか納得したように何度も頷いた。

「なるほど」

 何がなるほど、なのだろうか。

 内心、疑問符を抱えている海帆に、宇翔はさらに質問をしてきた。

「失礼ですが、日本人ですよね?」

「はい、そうです」

「じゃあ、小さい頃は台湾に住んでいたということですね」

「そうですね。父の仕事の関係で五歳までいました」

「そうですか、だから言葉が流暢なんですね〜」

 しきりに感心する宇翔がさらに質問をしようとするのを、不機嫌な口調で世海が口を挟んだ。

「俺もう休みたいんだけど」

 見ると、また顔色が悪くなったようだ。

 クマが浮いた青白い顔を見て、宇翔は慌てて海帆から関心をそらした。

「ああ、悪かった。今夜はここで休むんだな」

 ぶすっとした顔でベッドに潜り込んで、世海は答えた。

「そうする」

「分かった。明日、迎えに来るから、ゆっくり休めよ」

 そう言うと、宇翔は海帆に向き直った。

「ええと、ミホさん。ホテル代を支払いたいのですが」

「いえ、これは非常事態でしたので、お支払いの必要はございません」

「そういうわけにはいきません」

 払う払わないの問答がしばらく続いたが、宇翔が頑として動かないので、海帆はありがたく身を引くことにした。

「では、フロントでお願いいたします」

「分かりました。あ、じゃあそこまで一緒に……」

 流れ的に二人一緒に部屋を出ることになりそうなので、海帆はドアを開けるために歩き出す。

 その時、世海ががばっとベッドから飛び起きて海帆を呼び止めた。

海帆(みほ)!」

 今日は世海に何度も驚かされる。

 名前を呼ばれたことに少なからず衝撃を受けて、それでも顔には出さずに海帆は振り返った。

「なに?」

 世海は気まずそうに顔をしかめて言いにくそうにしていたが、海帆の目を真っ直ぐ見つめた。

「その、鍵、ここの鍵は…………」

 さっきサイドテーブルに置いたはずなのに。

 宇翔に先に行くように言いおいて、海帆は世海のもとへ戻った。

「落ちたのかな?」

 置いておいたカードキーは無くなっていた。

 床に落としたのか、とかがんで探してみるが、見つからない。

 ベッドの下に滑り込んだのかもしれない。狭い隙間を覗き込もうと身を屈めようとしたところで、世海が「あった」と声を上げた。

 顔を上げると、世海の手にはカードキーが握られていた。

「どこにあったの?」

 キーを受け取って傷がないかチェックしながら聞くと、世海は口ごもりながら目をそらした。

「ベッドに潜り込んでた」

 なるほど。

 床を探しても見つからないわけだ。かと言って、横になっている世海の布団を引っ剥がして探すわけにもいかなかっただろうし。

 海帆に無理やり布団を剥がされる世海を想像して、つい口元がゆるんだ。きっと物凄く怒り狂うはずだ。

「なに笑ってるんだ?」

 むっとした顔で聞いてくる世海に「なんでもないよ」と言ったら、眉間のシワをさらに深くして、世海はつぶやいた。

「…………どうせ俺のことを、顔しか取り柄のないやたら態度が悪いイケ好かない男、て思ってるんだろう」

「……………………そんなこと思ってないし、なに急にどしたの?」

 目を丸くして驚く海帆を置いて、世海は乱暴に布団をかぶった。

「もう寝る」

「……そう、分かった。ゆっくり休んでね」

 今度こそ立ち去ろうとする海帆に、世海は布団の中から小さく声をかけた。

「今日は悪かったな。ありがとう」

「どういたしまして」

 海帆も小さな声で返す。

「じゃあ、おやすみなさい」

 ぱたんとドアの閉まる音がして、海帆は静かに部屋を出ていった。

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