気になるアイツ
グロンブル台湾での仕事の日々は、瞬く間に過ぎていき、気がつけば一ヶ月がたっていた。
初出勤日、全スタッフの前で紹介された海帆が男なのか女なのかで若干ざわついたが、それ以外では特に支障が出るようなトラブルもなく、まずまず良好な滑り出しだった。
ホテルの仕事は激務だ。海を超えてきた新人への物珍しさがなくなれば、忙殺される仕事が山ほどある。
海帆もそのうちの一人で、産休に入る久保田椿の仕事を覚える為、鬼のような引き継ぎ業務をこなしていた。
「海帆さん、お疲れ様。休憩行って来ちゃってください」
「カメリアさん、お疲れさまです。じゃあ、行ってきます」
カメリアとは、椿のイングリッシュネームだ。台湾の人達は、ほとんどの人が本名とは違うイングリッシュネームを持っていて、それを仕事で使っている事が多い。大体の人が学生時代の英語の先生などに名前をつけてもらったりするらしいのだが、中には好きな海外の俳優の名前を名乗ったりもしてるので、その名付けは割と自由だ。
かくいう海帆も出勤初日に、あなたのことをなんて呼んだらいいですか、と聞かれて少し困った。一瞬、小さい頃に世海に呼ばれていた名前を言おうかと思ったが、なんとなく気が乗らなかったので「名字でも名前でも呼びやすいように呼んでください」と言うだけにしたら、呼びやすい「ミホさん」で定着している。
ちなみに椿の「カメリア」という名前は、本人の名前の英名だが、ご主人につけてもらったらしい。名前の通り控えめで気取らない女性で、海帆ともすぐに打ち解けた。
軽く業務の話しをしてから、席を立つ。休憩室へ行くと、すでに数人の女性スタッフがかたまって、雑誌を読んで談笑していた。
「お疲れ様でーす」
「あ、ミホさん! お疲れ様です」
笑顔で挨拶を交わし、海帆は冷蔵庫から弁当を取り出して、レンジで温める。その時、黄色い歓声が上がったので、海帆は彼女たちの手元を覗き込んだ。
「何を見てるんですか?」
「ミホさん! 見てください、これ。私のイチオシなんですけど、カッコいいでしょう?」
グループの中の一人、ジェシカと呼ばれている明るい髪をゆるく巻いた子が、海帆に持っていた雑誌を見せた。
そこには、上半身の見事な肉体美を惜しげもなくさらしている、海帆も知っている俳優が載っていて、思わず海帆も「おー」と感嘆の声を上げた。
「この人知ってますよ。確かロビン……」
「ロビン・ルオです! 今一番注目されてる俳優なんですよ。今月のDanteの巻頭です」
Danteとは若者に流行りのファッション誌なのだが、キワドい記事を載せることで有名で、そこを飾るモデルや俳優達もそれに合わせて大人っぽく露出高めで出演するので人気がある。
「ああ、本当にカッコいい……」
うっとりした顔で雑誌を見入るジェシカ。頬ずりしそうな勢いだ。
「ジェシカ、そんなに入れ込んじゃって。ロビンはこの間共演女優と熱愛でちゃったじゃん」
「あれはお互い友達同士です、てロビンが声明を出したでしょ。私はそれを信じる」
一緒に見ていた友人、確かアビーと言ったか、が茶々を入れても聞く耳をもたない様子に、やれやれと頭を振っている。
「ミホさんは好きな俳優います? 今月は今注目されてる人達が結構載ってるんですよ」
「私はあんまり知らないからなー」
海帆のあいまいな返事を聞いて、アビーはジェシカから雑誌を取り上げ、海帆の目の前でぱらぱらとめくった。
「ほら、いっぱいいますよ。誰かいます? ミホさんがどんな俳優好きなのかすごく興味があります」
わたしもー、というジェシカや他の子達が言うのに苦笑していたら、あるページを見て海帆は思わず「あ……」と声を出した。
「これですか? エリック・スン! わあ、ミホさん面食いなんですね!」
意外そうに騒がれる中、海帆はなんとか笑顔を崩さず弁当に箸をつけた。
「たまたま知ってただけですよ。でもすごく綺麗な人ですよね」
「わたしはロビンよりエリックの方がいいですね。麗しくて。でも今回はちょっと雰囲気が違うんですよ」
ほらーと海帆の目の前で見開きにされた雑誌には、あおり気味の角度から目を半眼にしてこちらを見下ろす、冷たい表情の世海がいた。ロビンとは違い、上半身ではなく肩までのショットだったが、それでもぞくぞくするような色気があった。
「エリックはキレイめ路線で売ってたから、冷たく美しい王子様系だったんですけど、最近は演技の幅を広げたいっていろんな役に挑戦してるんですよ。そういうストイックなところもいいですよね。この写真もちょっと意外だけど、すごく素敵です」
アビーが褒めるのに、海帆は素直に頷いた。
「うん、私もそう思う。あんがいこっちの方が素だったりして」
爪を噛みながらこちらを睨みつける不機嫌な表情は、この間会った時の顔つきそのままだ。
あれ以来、世海とは会っていない。
休みの日にはちょくちょく孫さんの家に顔を見せに行ってるのだが、世海は仕事が忙しいのかいつも不在だった。「何にこだわってるのか知らないけど、まったくいつまで意地を張るつもりなのかしらね」と恵君はぶつぶつ言っていた。
仕事があることはいいことだ。売出し中みたいだし、今が一番大事な時期なんだろう。そう言って海帆は恵君をなだめたが、あまり効果はないようだ。
「彼って結構謎に包まれてるんですよ〜。プライベートとか一切出さないし。今まで浮いた噂一つもないんですよ。この美しさで! 信じられます?」
「ゲイなんじゃないかって言われてるよね」
「え〜違うと思うな〜。エリックはストレートだよ、絶対。で、絶対スケベだよ。こういう冷たい表情が美しい男ってすっごいエロいんだよ」
「王子がドスケベって誰得よ! あたしだよ!」
「でも、それじゃあ共演女優とか手当たり次第に手を出してるってこと? それはちょっと嫌だな〜」
「ちがうちがう、手なんて出さないよ。噂にならないってことは、本当に噂になるようなことをしてないってこと」
「は? どういうこと?」
「つまり、その手の経験がない……」
一瞬の沈黙の後、今までにない歓声が休憩室に響き渡る。
「童貞ドスケベ王子キター‼」
言いたい放題だな、お嬢さん達。
うら若い乙女たちの熱量の激しさに呆気にとられながら、海帆は目の前に放置されてる雑誌をぱらぱらとめくった。
ロビンほどではないが、エリック・スンのページも結構ある。
芸能人とかは興味がなく、日本の映画やドラマですらほとんど見てこなかったので、世海の仕事している姿を見るのはこれが初めてだ。
挑発的な表情のショットの最後に、なにかを耐えるように視線を落とす姿があった。
苦しそうなのに、どこか恍惚としていて、綺麗な人だなーと素直に思う。
エロいがどうかは知らないが、冷たい表情が美しい男って確かに色気がある。
でもこれが珍しいと言うのなら、今までの世海はどういう風に撮られていたのだろう。海帆は初めて、世海のこれまでのことが気になり始めたのだった。
「阿海、阿海! 今月号のDante、すっごい反響だよ!」
騒々しく楽屋に入って来たのは、世海のデビュー当時から世話をしてくれてる、マネージャーの陳宇翔だ。その手には今月号のDanteが握られている。
「そう」
気乗りしない様子で、世海はスマホをいじっている。
「いやあ、超絶不機嫌で撮影に挑まれた時はどうしたものかって気をもんだけど、逆にエディが気に入ってくれたよかったよ! 本当に! こんなに美しく撮ってくれるなんてさすがエディだ!」
Danteを撮影したカメラマンを褒めそやすマネージャーにうろんな目を寄越し、世海は面白くなさそうにまたスマホに目を落とした。
撮影当時、世海はファンのみんなに『エリック王子の微笑み』と呼ばれてる笑顔がまったくできず、宇翔にどんなになだめすかされても眉間の縦皺を消せなかった。そんなことは今まで一度もなかったのに、どうしたものかと内心焦っていると、Dante専属のカメラマンで、被写体の色気を引き出すのが抜群にうまいと定評のある、エディ・ソンが声をかけてきたのだ。
「その不機嫌な顔を誰に見せたい?」
その言葉を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだ顔に世海は動揺し、パシャっとシャッターが切られる音がした。
「いいなーその顔。このままでいいよ。これで行こう」
そこからはスムーズだった。
エディはレンズの向こうに世海を苦しめる存在を意識させ、世海はその存在に挑むように目線を投げつけた。
自分を苦しめて解放してくれない人、こんなに苦しめてることに気づかずに微笑む人。
カメラの向こうに存在する彼女を睨みつけ、それでも最後はその笑顔を見つめ続けることができずに目を伏せた。
撮影はそこで終了。
エディはすこぶる機嫌がよかった。
「君をここまで固執させるなんて、相手はどんな子なの?」
聞かれたところで答えようがない。
なにせ幼い頃に分かれてから二十年以上会ってなくて、ようやくこの間再会を果たしたばかりなのだから。どんな奴なのか知る筈がない。
「もう早速CMのオファーが来てるからな。これから忙しくなるかもよ」
宇翔は嬉しそうな声に、世海は我に返った。
あの時の撮影は、とても新鮮な体験だったが、世海は少し複雑だった。
エディに焚き付けられたとはいえ、あの時、世海は完全に素の自分になっていたのだ。
カメラのレンズの向こうに、彼から笑顔を消した存在と個人的に対峙していた。出来上がった写真を見た時、なんだか丸裸にされたようで直視することができなかった。
それなのに反響がいいなんて、まるで彼女のお陰みたいじゃないか。
世海の眉間のシワが、さらに深くなっていく。
「そのシワ、クセにしないようにな」
宇翔から注意され、世海はますます仏頂面になっていった。
「今夜ですか? ずいぶん急ですね」
海帆の問いかけに、恵君が電話の向こうで答えた。
『そうよ。あの子ったら全然顔を見せないから、この間電話してやったのよ。そしたらなんとかっていう雑誌の影響で今とても忙しいんですって。だからって顔を見せない理由にならないでしょう? だからいい加減にしなさいって怒ったら、ようやく今夜なら少しだけ空いてるって連絡がきたの。あなたもいらっしゃい。二、三時間くらいしか抜けられないらしいから、うちじゃなくてあの子の友達のお店なんだけど。住所を送るから来られるでしょう?』
じゃ、待ってるから! そう言って恵君は一方的に電話を切ってしまった。
ツーツーという電話の音を聞きながら、海帆は一抹の不安を覚えた。
世海は、海帆が来るということを承知しているのだろうか。
友人のお店で家族と会う。とてもプライベートな場に現れる海帆という異分子を、果たしてあの神経質な男が受け入れるだろうか。
再会した時のつっけんどんな態度を思い出し、海帆はそっとため息をつく。
送られてきた待ち合わせ場所の住所を眺めながら、海帆はしばらく思案をして、意を決してスマホの連絡先をタップした。
「は? あいつが来るの? なんで呼んだんだよ」
世海の不機嫌な反応に、恵君は思いっきり顔をしかめた。
「来るに決まってるでしょ、家族みたいな人なんだから。なんであんたはそんなに会いたがらないの」
「会いたくないからだよ」
「えー俺は会ってみたいよ。すごく楽しみ」
友人である俊宏の言葉に、世海の眉がますます吊り上がる。
ここ最近ろくに寝ていないので、表情がいつも以上に険しい。
あの雑誌の影響は想像以上のもので、世海は経験したことのない忙しさに翻弄されていた。
自分の家にも寝に帰るだけの生活が続き、気持ち的に余裕が持てていなかった。
それでもなんとか時間を作ってここに来たのは、朗報を持ってきたからだ。
家族、友人に伝えたくてせっかく来たのに、彼女が来るって知ってたら絶対に来なかった。
「そんな仏頂面するなよ、それよりなんかニュースがあるんだろ?」
俊宏が水を向けてくる。
この男は昔から勘がいいのだ。
こうなったら、あの女が来る前に伝えてしまおう。遅れてくるのが悪い。
「ドラマが決まった。李寅峰と周音の新作ドラマ」
「マジで!? スゲーじゃん!!」
「あらーお仕事が決まったのね。よかったわ。お母さんにも教えてあげなくっちゃ」
「おめでとう阿海。しっかりやりなさい」
口々にお祝いを言われ、世海の不機嫌も少しほぐれる。
監督:李寅峰と脚本:周音のコンビといえば、今もっとも熱いと言われるBLドラマのヒットメーカーだ。彼らの作品から生まれた若手スターは大陸を超え、知名度が韓国や日本にまで及んでいる俳優もいる。野心ある俳優だったら、出演を熱望する制作陣のドラマだ。
「どんな役?」
俊宏の質問に、世海は胸を張ってこたえる。
「残念ながら主人公ではない。主人公の元彼で、とても性格の悪い男の役なんだ。主人公はそいつから逃げ出して、運命の相手と恋に落ちるんだけど、その元カレのしつこい妨害をくぐり抜けながら愛を育む話しなんだ。重要な役だと俺は思ってる。うまくいけば大ブレイクする」
この話しをもらった時の事を思い出し、世海は身が引き締まった。
難しい役だ。確かにうまくいけば知名度が上がるかもしれないが、逆を言えば下手はうてない。今まで必死で築き上げてきたイメージを崩してしまう恐れもある。
世海は二十七歳。遅咲きの俳優だ。いや、まだ咲いてもいない。
最近になってようやく、端役だけどドラマ出演も増えて知名度も上がってきているが、主役級とは程遠い。
ドラマがヒットすれば、さらなる躍進ができるかもしれない。
「周音がDanteを見て、主人公の元カレ役にエリックを使いたいって直々に言ってきたらしい。あの冷たい表情がイメージにぴったりなんだと」
「スゲーな。俺、絶対観るよ」
頑張れよ、という声に機嫌よく頷く。
その時、店のドアが開き、脳裏に焼き付いてるシルエットが入口に浮かび上がり、世海は思わず息を呑んだ。
「小帆! 来たわね。こっちよ!」
恵君の呼びかけに、海帆が笑顔で手を振って、彼らがいるテーブルへと近づいてきた。
「遅くなってすみません」
「いいのよ、勝手に始めてたから。迷わなかった?」
「はい、大丈夫です。地図を送ってくれて助かりました」
にこやかに答える彼女は、いかにも仕事帰りという感じで、相変わらず落ち着きのある自立した女性、という雰囲気を醸し出している。彼女は世海に向かって微笑んだ。
「久しぶり、元気だった?」
「……まあ」
ぶっきらぼうに答えて、世海はそっぽを向く。
素っ気ない態度に恵君の眉が吊り上がるが、世海は気にしなかった。
「俺、俊宏って言います。トシって呼んで!」
俊宏が興奮気味に挨拶をし、海帆に握手を求めた。
よろしく、と海帆もそれに応える。
「うおおー、俺会ってみたかったんだよ。噂の福の子ってどんなんだろうって。会えて嬉しい!」
「あはは。そう言われると緊張する。だいぶイメージと違うんじゃない?」
「いやいや、そんなことない。こんなに美人だなんてびっくりした! エリックはなんにも言わないから」
何を照れてるんだお前は、いい加減手を離せ。握手の時間が長すぎるだろう。
未だに繋がったままの二人の握手に、世海の不機嫌がマックスまで上がる。
ようやく手がほどかれ、海帆が席に落ち着く。
「小帆。今すごいニュースを聞いたのよ。阿海のドラマ出演が決まったの、有名な監督さんのドラマなんですって!」
「え、本当ですか。すごい、おめでとう!」
最後の言葉は世海に向けて言われたものだが、世海はビールを飲んで気づかないフリをした。
「どんなドラマなの?」
「………………BL」
へえ、そうなんだーと海帆はにこやかに相槌をうつ。
たまりかねた俊宏が割って入った。
「李寅峰と周音タッグの新作ドラマなんだよ。この二人は台湾では売れっ子のヒットメーカーなんだ。凄いだろう。ようやくエリックもスターの仲間入りができるんだ」
この最強タッグのドラマ観たことある? という質問に海帆が答える前に、世海が瓶ビールをタンッとテーブルに置いた。
「あるわけないだろう。俺達に興味ないんだから」
思ったよりも強い言い方になってしまった。
内心あせり、場が気まずい雰囲気になりかかった時、落ち着いた海帆の声がした。
「その二人のドラマは観たことないけど、エリック・スンのドラマは何本か観たよ。『恋するドラァグクイーン』は面白かった。顔綺麗だからフルメイクするともう無敵だよね、エリックって。あのフルメイクのドレスアップ姿で自転車かっ飛ばすシーンすごく好き。足めっちゃキレイだし」
「あれは秀逸だったよね! 俺も好きだよ! 主人公が憧れる完全無欠の美しきドラァグクイーン。エリックはあの役をやるために、三ヶ月ゲイバーで働いたんだよ」
「そうなんだ、凄いね。だからかな、まったく違和感を感じなかった。役者さんのプロ意識て凄いな〜て、ただただ見惚れてたよ」
エリックは努力の人だよ! と力強く言う俊宏に海帆は頷く。
世海は何も言えなくなっていた。
自分の話しをしているのに、この場の話題は世海を置いてけぼりにして、盛り上がっていく。今は、そのドラマを観たことない世海の両親に、いかに面白いドラマで主張性の高い内容であったかという熱い説明がされている。
なんなんだ、一体。これはどういう状況なんだ。
理由はまったく分からないが、世海はここから離れたくなった。
気遣わしげにこちらを見る海帆にも気づかず、この場を去ろうと立ち上がりかけた時、誰かのスマホの着信が鳴った。
「あ、仕事先からだ。すみません、ちょっと失礼しますね」
鳴っているスマホを片手に、海帆が席を立つ。
その後ろ姿を、世海は拍子抜けした表情で見送った。
しばらくして戻った海帆は、申し訳無さそうな顔で仕事先に戻らなければいけなくなった、と説明した。
「急なトラブルがあったみたいで。せっかく誘ってもらったんですけど」
すみません、と謝る海帆に、どうしても行かなければいけないのか、と恵君が食い下がる。
「仕事なんだから仕方ないだろう。小帆、私達に気を使わないで、行きなさい。今度またうちに来てくれればいいから」
妻をなだめながら言う逸洋に感謝の笑みを浮かべ、場を離れる挨拶をして海帆は店を出た。
結局何も手を付けず、水すらもあまり飲まずに、彼女はいなくなってしまった。
一つだけ分かったのは、仕事で呼ばれたというのはきっと嘘で、その嘘をつかせたのは自分なのだという事だった。
「ミホさん! ちょっと待ってください!」
名前を呼ばれて振り向くと、俊宏が店の扉を開けて、こちらへ走ってくるのが見えたので、海帆は立ち止まる。
「トシさん、どうしました?」
意外な顔をして海帆は俊宏を待った。
彼は日本語で話しかけてきたのだ。
「日本語話せるんですね」
「あーはい、実は昔日本人と付き合っていたことがありまして。それで覚えました」
少しだけですけど、と笑う俊宏はなかなか爽やかな青年で、日本人女性が好みそうな見た目をしていた。
「なんでしょうか」
向かい合って問いかける海帆に、俊宏は言いにくそうにして、海帆の様子を伺う。
「その、あいつ、エリックのことなんですけど……」
そうだろうな、と海帆は思った。
それ以外に、海帆を追いかけてまで話す話題なんてないだろう。
「彼がどうしました?」
「……あいつのあの感じ、その、いつもじゃないんで。普段はあんなんじゃないんです」
ということは、俊宏が言う世海のあの感じとは、海帆が原因でなっているという訳だ。
「ふーん」
「今のエリックには、時間が必要なんです。あなたのことを、ええと、消化して、整理する時間が」
「……どういう意味?」
首をかしげる海帆に、俊宏は言おうかどうか迷う素振りを見せたが、結局言うことにしたようだ。
「あなたは、あいつの初恋の人なんです。小さい頃の。だから色々と、今混乱してるんですよ」
「……………………」
不思議と海帆は驚かなかった。
それどころか、なんだか納得してしまった。
「なるほど、つまり、私は彼を失望させてしまったんですね」
「ええと、はい、そうです。でも、あいつも子供じゃないんで。すぐに回復するとは思います」
なので、あいつのこと見捨てないでほしいです、と言う俊宏に、海帆は思わず苦笑してしまう。
なぜ海帆が見捨てるのだろうか、突き放してるのは向こうではないか。
「それはどうでしょうね。初恋の女の子が、こんな男みたいになったらショックは強いんじゃないかな」
「え? あ、いやそういう意味じゃ……」
「いいんですよ。気を使わないでください」
はあ、と海帆はため息をついた。
「私ね、小さい頃は髪が長くて、自分で言うのも何だけど、お人形さんみたいな格好をしてたんですよ。本当に。彼はそんな私とほとんど毎日一緒にいたんですよね」
あの頃のことを思い出して、海帆はなぜだか少しだけ寂しくなった。
「悪いことしちゃったな」
「あなたが謝ることじゃないですよ」
俊宏の真剣な表情に、海帆は応えることができずに微笑んで、それじゃと言い残してきびすを返した。
しばらく歩いてから、スマホを取り出し、リダイヤルをタップする。
「もしもし。あ、カメリアさん。ミホです。さっきは、ありがとうございました」
『ちゃんと言われた通り、指定の時間に電話したけど、どう? うまくいった?』
「ばっちりです。助かりました。ありがとうございます」
『そう、よかった。お役に立てたのなら、嬉しいわ。でも、大丈夫?』
椿の気遣わしげな声が優しくて、海帆は何もかも喋ってしまいたい衝動に駆られたが、なんとかとどまる。
「大丈夫です。ちょっと失敗しちゃっただけなんです」
「そうなの。話したくなったらいつでも聞くからね」
そう言って、椿は何も聞かずに電話を切ってくれた。
彼女の優しさに感謝しつつ、海帆はスマホをしまう。
嫌われてるかもな、と思っていたが、やっぱり相当嫌われていた。
理由は思い当たる。海帆が距離を詰めすぎたのだ。
世海は警戒心が人一倍強く、友達もなかなかできない子で、心を開くのに時間がかかる子供だった。だから、物心ついた時から側にいた海帆に懐き、海帆としか遊ばなかったのだ。
知っていたはずなのに、海帆は懐かしさのあまり彼のテリトリーに入り込んでかき回してしまった。世海の中では、今や海帆は他人も同然で、心を開く存在ではなくなってしまっていたのに。
あなたは、あいつの初恋の人なんです。
はあ、とため息が出る。
にぎやかになった夜市の中を歩きながら、海帆はぼんやりと行き交う人々を眺める。
しばらく距離を置こう。世海も彼を取り巻く人達も。
そう決めたら少しだけ気持ちが軽くなって、海帆は久しぶりに雄一の声が聞きたいなと思った。
「お前さ、そんなに落ち込むんだったら今からでも謝りに行ったら?」
「……………………別に落ち込んでいない」
俊宏の言葉に、世海はビールに口をつけながら低いうめき声で答えた。
すでに空になった瓶が四、五本テーブルに転がっている。
「そんな状態で何を強がってるんだか。初恋の人に子供みたいな態度を取った自分が嫌で後悔してるんだろ」
向かいに座ってテーブルに残った料理をつまむ俊宏をぎろりと睨みつける。なかなか迫力のある顔つきだが、俊宏は慣れたもので、ただ肩をすくめただけだった。
「俺は強がってないし、後悔もしていない」
「なに言ってんだか。ミホさんが出ていく時ずっと後ろ姿見てたくせに。置いていかれた犬みたいな顔して」
「そんな顔していない」
「してたよ。まあ分かるけどな。綺麗な人だよな、ミホさんって。美人じゃないけど、すごく雰囲気がある」
お前が惑わされるのも分かるよ。
「あんまりにもボロカスに言いまくるから、どんな人が来るんだろうって思ってたけど。全然、男っぽくないじゃないか。背は確かに高いけど、ここじゃ普通だし」
「…………ブサイクだとは言っていない」
ビールのおかわりがもらえず、世海はテーブルに突っ伏して拗ねて、友人を睨む。
「お前は何なんだよ。なに馴れ馴れしくあいつの名前を呼んでるんだ。さっきもあいつの後を追いかけてたし。お陰で俺は、母さんにずっと嫌味を言われっぱなしだったんだぞ」
「怒るなよ。俺はお前のフォローに行ってあげてたんだ」
「は?」
世海が顔を上げる。
俊宏は、感謝しろよと言ってふんぞり返った。
「世海の態度がやたら悪いのは、あなたがあいつの初恋の人で、色々とくすぶってるせいだから時間が必要だって言ってあげたんだ」
「なに勝手なこと言ってんだ!」
ぎょっとして思わず大声が出た。
だが俊宏はどこ吹く風だ。
「怒るなよ。こうでもしないと、お前あの人とこのままで終わっちゃうぞ」
「俺は別にそれでもいいんだよ!」
「いいわけないだろ。じゃあ聞くけど、なんでお前はいつまでたっても怒っていて、彼女に対して子供っぽい態度ばっかり取ってるんだ?」
「それは…………」
言い淀む世海に、俊宏はビールを渡してやる。
「正当な理由があるから怒ってるんだろ? それは分かる。でも、いくらお前が怒っていたって、肝心のミホさんがその理由を分かっていなかったら意味がないんだよ」
俊宏はため息をついて、ビールの蓋を取る。
「あのな、日本人てさ、基本的に争わない人種なんだよ。例えば明らかに自分の事を嫌っていて、嫌なことを言ってきたり反抗的な態度を取る奴がいたりするよな、俺達はすぐになんだテメーってなって言いたいこと言いまくるけど、日本人はそうじゃないんだよ。あの人達はな、自分に不利益だったり不要とみなした奴はまず自分の世界からシャットアウトするんだ。視界に入れないんだよ。徹底的に」
なにか身に覚えがあるのか、俊宏は体を震わせて話を続けた。
「日本人とは、相当仲良くなってからでないと喧嘩すらできないんだからな」
「……………………だからなんだよ」
「だからな、お前このままふてくされた態度をずっと取ってると、彼女の中でお前は、顔しか取り柄がないやたら態度の悪いイケ好かない男、で終わっちゃってそれっきりになるぞ」
それでいいのか? と言われて、世海はなにも答えられなかた。




