魚は人になれるのか
台北松山空港までの車中、海帆は助手席の窓からどんよりとした曇り空を見上げていた。
「飛行機、揺れないといいですね」
呂俊宏が運転席から声をかけてくる。
そうですねと答えながら、乗り慣れた車でも運転手が違うだけで雰囲気が変わるものなんだな、と海帆は考えていた。
東京のル・グロンブルホテルから帰国の要請が来たのは先日。
要請の内容は、研修生吉川琉奈の件に於いての事情説明、との事だった。
予想していたことだったので、特に驚きはない。
ホテル傘下の学生が研修中に問題を起こし、その指導役に殴られたのだ。当事者の説明責任は当然ある。
すでに吉川琉奈と舘石愛実は帰国をしている。
海帆も要請のあったその日に荷物をまとめ、すぐに出立するつもりだったのだが、思わぬ時間を食らうことになり、今日やっと空港に向かうことになった。
「すみません、トシさん。運転手なんてさせちゃって」
「いいですよ~。エリックの頼みですからね」
はははと明るく笑う俊宏を見て、海帆はそっとため息をついた。
海帆の出立が遅れたのは、大半が仕事の調整に時間がかかったからだが、世海も原因の一つだった。
琉奈の件で日本に戻って説明しなければならないと伝えた時、予想通り世海は怒った。
なぜお前が戻らなければならない、怪我まで負わされた被害者じゃないか、メールでもリモートでもいくらでもやり方があるはずなのに今時対面で説明をさせるのか、怪我人にそこまでさせるつもりなら向こうから聞きに来い、と大変な怒り様で、ホテル側に不服の申し立てをする勢いだったのを宥めるのに苦労した。
一時的なもので荷物は置いていく、終わったらすぐに帰ってくると言ったのだが、いつ帰ってくるのか確実な日付を教えろと言い張り、そこまではまだ把握できていなかったので説明するのが大変だった。
長い時間をかけて話し、なんとか納得させたのだが、世海は送り迎えは自分がすると言い出した。
だがそれは無理な話だ。
ゲイ疑惑騒動の渦中に危険なことはできない。
先日の肉まんを食べた日は深夜の車中だったが、さすがに昼間に堂々と会うのは難しいだろう。
陳宇翔が承知するはずがない。
それ以上に、世海は自宅から出られない理由があった。
「世海くん、具合はどうですか?」
「ああ、まだ熱が下がんないみたいよ。車借りに行く時お見舞いしたけど、真っ赤な顔をしてうんうん唸ってた。往生際悪く、やっぱり俺が行くって言ってたけど、あのマネージャーさん結構おっかなくてさ」
俊宏の話しを聞いて、海帆は苦笑をする。
二人で肉まんを食べた翌日、海帆に帰国の要請が来た日、世海は熱を出した。
マネージャーの陳宇翔から連絡をもらい、仕事が終わったらすぐにお見舞に行くつもりだったのだが、日本への帰国の話しが来てしまい、上司への報告や日程の調整などで結局行けなくなってしまった。
いま思えば、帰国話しにしつこくごねたのも、熱があったのが原因だったのかもしれない。
あの肉まんを食べた日以来、世海とは会っていない。そこまでの時間は作れなかった。
その事でも、電話で散々文句を言われた。
「私のこと、怒ってましたか?」
「怒ってるっていうか、拗ねてたな。見舞に来なかったって。それと、このまま帰って来なくなったらどうしようって心配してた。とにかく会って話をしたがっていたよ」
あいつはガキなんですよ、と言って俊宏は笑った。
「ミホさんが関わると中学生になる。見てて面白いですよ」
「そうですか……」
海帆は笑えない。
最近の世海は無理をしすぎてる気がしてしょうがない。
熱が出てしまったのは心配だが、これを機に少し休んでくれればいいと思っている。
「でも、俺も納得できないな。なんでミホさんが帰国しなきゃいけないの?」
「……問題が起きて、それを説明しなければいけないので」
「話しは聞いたよ、エリックからね。ミホさん、ぜんぜん悪くないと思うけどな」
俊宏の言い方は静かで感情は込められていなかったが、それでも疑問に感じていることは分かった。
海帆は返事をせず、流れていく車窓の景色を眺める。
車は順調に走り、あっという間に空港に到着する。
すでにオンラインでチェックインは済ませているので、すぐに手荷物を預けた海帆は、保安検査場へ向かうためにモバイル搭乗券を準備しようとした。
「あ、ちょっと待って」
俊宏が海帆を呼び止め、携帯電話を取り出して電話をかける。
「よお、元気か? ミホさん行っちゃうから、バイバイしろ」
そう言って、海帆に携帯電話の画面を見せてきた。
そこには冷えピタをおでこに貼った、少し顔が赤い世海が映っていた。
「世海くん……」
何て言ったらいいのか分からず、海帆はとりあえず手を振った。
「熱はどう?」
『…………大したことない。それより、もう行くのか?』
機嫌は悪そうだ。熱があるのだから仕方がない。
海帆は微笑んで頷いた。
「行ってくるね。世海くん、お大事に」
『……………………』
世海は返事をしなかった。
会話が続かないので、海帆はじゃあとまた手を振って、検査場へ向かおうする。
『海帆』
名前を呼ばれて、海帆は動きを止める。
振り向いて俊宏の携帯電話を見ると、世海が静かな眼差しで海帆を見つめていた。
『一週間たっても帰って来なかったら、日本に迎えに行く』
「……………………」
『絶対行くからな』
本気だろうか。なんて答えようか迷って救いを求めるように俊宏を見たら、彼は曖昧に笑っているだけだった。
「…………大丈夫だよ」
それじゃあね、と言って海帆は保安検査場へと向かった。
その後ろ姿を、世海は携帯電話の画面越しにずっと見ていた。
海草が漂う水の中を、黄色い魚が泳いでいる。
大きな水槽にたった一匹で泳ぐ姿は所在なさげで、濃い青色の水の世界に輝く黄色い体が際立って、存在感を放っていた。
鼻をグズグズさせながらアクアリウムの手入れをしていた世海は、チャイムが鳴ったので作業の手を止め、怠い体を動かして玄関へ向かった。
扉を開けると、ビニール袋をいくつも下げた俊宏が立っていた。
「なんだよ。起きても大丈夫なのか?」
親友の問いに答えず、世海は無言で俊宏を招き入れると、機嫌悪くやりかけの水槽の手入れを再開した。
俊宏はやれやれと肩をすくめ、ポケットから鍵を取り出す。
「ほれ、車のキー。ここ置いとくぞ」
世海は答えない。ただ唸るだけだ。
「あれ、あの恐ろしいマネージャーさんは?」
「帰った。海帆の飛行機が離陸した時間と同時に帰りやがった」
「ははは、お前のことよく理解してるな」
明るく言う俊宏に、世海は腹立たし気に唸って返事をした。
「まあ、そう怒るなって。ほら、いろいろ買って来てやったぞ。好きなもの選べ」
持ってきたビニール袋を取り上げ、中から各種栄養ドリンクや健康食品、スイーツなどを取り出してテーブルに並べていく。
世海はぶすっとした顔でそれらを睨みつけていたが、しぶしぶ掃除する手を止めて、迷いなくプリンを選んだ。
「コーヒーもらうぞー」
そう言って勝手知ったる顔でキッチンを漁っていた俊宏がマグカップ片手に戻ってくると、ソファに座った世海の前にペットボトルを置いた。
「お前は水だ。たくさん飲めよ」
目の前に置かれたペットボトルの水を無視して、世海はプリンの蓋をはがして食べ始めた。
「あいつは、どうだった?」
小さな声の問い掛けだったが、付き合いの長い俊宏はちゃんと聞き取ってくれる。
「ミホさん? 普通だったよ。自然体で余裕がある、いつもの感じ。俺の方が気を使われちゃったよ」
「ふうん」
気の無さそうな唸り声に、俊宏はにやにやと笑った。
「お前の事も心配してたぞ」
「なんて言ってた?」
「様子はどうでしたかって。無理して空港に行こうとして、マネージャーさんにしこたま怒られてたって言っといた」
「笑ってただろ」
「まあ、苦笑い」
そうだろうな、と世海は冷めた頭で思う。
海帆は仕事を第一に考えるから、今は日本に帰ってからの事で頭がいっぱいのはずだ。
世海のことなど、頭の片隅にも留めていないだろう。
「大丈夫か? なんか顔色が青黒いぞ」
「うるさい」
機嫌悪いなーと肩をすくめた俊宏は、さっきまで世海が掃除をしていたアクアリウムに目を留めた。
黄色い金魚が一匹で優雅に泳いでいる。
「元気だよなー、お前んとこの金魚。二年になる? なんて種類だっけ?」
「三年だ。イエローコメット」
世海の返事を聞いて、俊宏は興味を持ったのか水槽に顔を近づけた。
「増やしてあげないの? 一匹じゃ寂しいだろ」
「喧嘩するんだよ。一匹がいいんだろ。世話も簡単だし」
「ずいぶん気難しい性格だな。飼い主に似たのか」
俊宏の言い方は悪気のないものだったが、世海は昔の嫌な記憶を思い出した。
幼い頃、海帆のことをアリエルと呼んでいた世海は、「じゃあ、あんたはフランダーね」と言われたことがあった。
魚なんて嫌だと激しく反発したが、アリエルの一番の友達は黄色い魚のフランダーなんだから、いつも海帆に付いて回ってる世海にピッタリだと言われてしまったのだ。
そのことが物凄く嫌でたまらず、世海は癇癪を起こした。
あの時の苦い気持ちが胸に沸き上がってきて、眉間に力が入る。
「…………前にも言われたことがあるよ。黄色い魚みたいだって」
「そうか? お前の顔は魚っぽくないぞ。でもこいつは、お前にそっくりだ。見ろ、この攻撃的な性格。ちょっと壁を突いただけなのに、むちゃくちゃどついてくるぞ」
イエローコメットは、ツンツンと水槽の壁を小突く俊宏の指をめがけて勢いよく頭突きを繰り返している。
その様子が昔の自分のようで、世海の眉間はますます険しくなった。
もしかしたら今の自分も、この魚とそう大して変わらないのかもしれない。
自分はまだ、小さい魚のままなのかもしれない。
暗い考えが頭をよぎり、世海は力なく呟く。
「こんな性格じゃ、一緒にいてくれないよな」
「それは相性によるだろ。こいつだって気に入った奴には優しくするはずだし」
俊宏の言葉に、世海はぼそぼそと反論する。
「こいつがそう思っても、相手が思わなかったら意味ないだろ」
「優しく穏やかに接したら友達になれるさ」
友達。
その言葉に、世海は苦い思いを感じる。
フランダーはアリエルの大切な友達だった。
臆病で、いつも活発なアリエルに振り回されてばかりいたけど、どんな時でも彼女の味方になる親友だった。
でも、アリエルはその大切な友達を置いて王子を追いかけてしまった。
フランダーを海の世界に置いて、人間になってしまった。
「俊宏」
「なんだ?」
小さな魚との無意味な小突き合いを続ける友人に、世海は問いかける。
「魚は人になれるのか?」
俊宏はちらっと世海を見て、しばらく考えてから言った。
「なれるだろ。いまの時代、なんにだってなれるさ」
それを聞いても反応をしない世海に、それにな、と俊宏は続ける。
「その逆だって、できるんだぞ」
「逆?」
そう、と俊宏は頷いて世海を振り返った。
「人を魚に戻すことだってできるんだ」
「…………そんなことできるかな」
「できるさ」
俊宏は笑った。水槽に添えた手には、まだイエローコメットが頭突きを繰り返している。
「やり方はいくらでもある。要はな、心意気なんだよ、心意気!」
「心意気……」
そう呟く世海に、俊宏は大げさに頷いた。
「そう! 心意気だ!」
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