琉奈の激高
世海との通話を終え、帰ろうと立ち上がろうとした所で、海帆は後ろから声をかけられた。
「橘さん」
振り返ると、吉川琉奈がそこにいた。
手に雑誌を持っている。
「吉川さん」
どうしましたと聞く前に、琉奈は持っていた雑誌を海帆の足下に投げつけた。
見開いたページには、世海とのスキャンダル記事が載っている。
「それ、橘さんですよね」
琉奈の言い方は確信のあるものだったが、海帆は足元の雑誌を見下ろしても表情を変えず、目線を上げると琉奈の顔を真っすぐに見つめた。
「部屋に戻りなさい、吉川さん。夜間の外出は禁止ですよ」
「関係ないですよ、どうせ日本に帰されるんだし。それより質問に答えてください」
琉奈の顔は張り詰めていて、肩に掛けたショルダーバッグを持つ手が握り締めすぎて白くなっている。
海帆はゆったりと構えて、琉奈を見返した。
「なぜ?」
「質問に質問で返さないでください!」
「あなたの質問に答えなければいけない理由がありません」
静かに言い返され、琉奈は不愉快そうに顔を歪めた。
「その男、俳優だそうですね? グロンブル台湾に長く滞在していたんですよね? 私聞いたんです! 橘さん、そいつとかなり親密だったそうじゃないですか!」
琉奈は足元の雑誌を指差して海帆を責める。
「その写真はなんなんですか? 橘さんだってホテルの客に手を出してるじゃないですか!」
「吉川さん、落ち着いて」
「その取り澄ました言い方がいちいちムカつくんですよ!」
怒りで興奮している様子の琉奈の声は徐々に大きくなり、通用口に人が集まってくる。
海帆は落ち着かせようとしたが、琉奈はますます興奮していくようだった。
「幼馴染みだかなんだか知らないけど、自分だってヤることヤってんじゃん! あたしと変わらないじゃん! なんであたしばっかり責められるんですか? 橘さんこそ辞めるべきじゃないですか!」
琉奈の激昂は激しく、海帆を睨みつける目はギラギラと憎々しげに光っている。
海帆が口を開きかけた時、怒りに震える声が響き渡り、見物人の中からアビーが飛び出してきた。
「あなたは何を言っているんですか!」
「ア、アビー……」
後ろで周路陽が止めようとしているが、アビーは肩を怒らせ琉奈と対峙する。
「ミホさんとあなたでは立場も経験も仲間からの信頼感も何もかもが違うんですよ! ミホさんはプロです。ろくに経験も積んでいないあなたとは違うんです! 規律違反を犯したのはあなたなのにミホさんを責めるなんておかしいです!」
突然現れたアビーに痛烈に非難され、しかも日本語で言われて不意をつかれた琉奈は一瞬口をつぐんだが、すぐに眉を吊り上げて攻勢に出る。
「なんなのあんた。すっこんでなよ!」
「汚い言葉は分かりません! あなたは言葉遣いが悪すぎます!」
「言葉が汚いって理解してんじゃん!」
キャンキャン言い合う二人の口喧嘩はだんだんヒートアップしていき、見物人も増えていく。
「ちょっと、落ち着いて……」
「アビー、人が集まってくるよ……」
なんとかして止めようと、海帆と周路陽が声をかけようとするが、二人は聞く耳を持たず激しくがなり合う。
「優等生気取りかよ! いつも人のこと変な目で見やがって。客と何しようとこっちの勝手だろ!」
「なにをバカなことを言ってるんですか!」
アビーが震えながら叫ぶ。
「ホテルスタッフが客から誘いを受けた時は断るのが鉄則です! 私達の仕事はお客様へ快適な空間と心に残る思い出を提供することです! 欲望の捌け口になることではありません! それを、ちょっと優しく声をかけられたぐらいでのこのこ着いて行くなんて、情けないにもほどがあります! あなたは学校で何を学んできたのですか!」
この痛罵は琉奈の表情を一変させた。
それまで怒鳴り合っていても、どこか冷めて小馬鹿にした表情をしていたのが、みるみるうちに表情が無くなり顔色が真っ白になる。
いけない。
海帆は咄嗟に走り出して、アビーと琉奈の間に割り込もうとした。
だが琉奈の方が早い。
琉奈は持っていたショルダーバッグを振り上げると、無言のままアビーに向かって殴りつけた。
「あぶない!」
海帆は間に合わない。
だが周路陽がすんでのところでアビーを庇った。
アビーに覆いかぶさり、琉奈のバッグから守ろうとしたが、勢い余って二人の体が倒れこむ。
それが幸いして、ショルダーバッグは空を切った。
ビッと服の裂ける音がする。
「周路陽!」
アビーの悲痛な叫び声がする。
「くそお……!」
轟くような呻き声を上げ、琉奈は二打目を振りかぶり、倒れたままの二人に向かって再び殴りかかった。
「やめなさい!」
海帆は三人の間に体ごと突っ込み、振り下ろされるショルダーバッグを左腕で受け止めて弾き飛ばした。
バッグをなくした琉奈は唸り声を上げ、燃えるような目で海帆に掴みかかる。
凶器のように尖った爪が顔に到達する寸前、海帆の右手が一閃した。
ぱあんッと大きい音を立てて、顔を引っ叩かれた琉奈は殴られた勢いに負けて倒れた。
地面にくずおれた姿勢で、琉奈は呆然と海帆の事を見上げた。押さえている頬が、みるみるうちに赤くなっていく。
海帆はその顔を見下ろし、静かに告げた。
「部屋に戻りなさい」
長い夜だった。
心身共に疲弊しきった海帆は帰宅すると、着替えもせず部屋の電気もつけずにベッドに倒れこんだ。
あの後、琉奈は泣き崩れ、舘石愛実に連れられて部屋に戻っていった。
アビーは泣き喚き、呆然とする周路陽に取り縋ってしきりに二の腕の辺りをさすっていた。
周路陽の腕の辺りは、琉奈が振り回したバッグの金具で制服が切り裂かれていたが、幸いにも皮膚には到達していなかった。
アビーは裂かれた周路陽の制服を見て憤り、怒りに燃える目で携帯電話で写真を執拗に取っていた。
海帆は黙々と事態の収拾に努めた。
アビーを宥め、周路陽の安否を確認し、見物人を解散させて上司へ説明をする。
事務的に報告をする海帆に、上司は短く言った。
「まず治療をして、もう帰れ。報告は明日でいい」
その時になってようやく、海帆は自分が怪我をしていることに気づいた。
振り下ろされる琉奈のショルダーバッグを受け止めた左手は赤く腫れあがり、いくつか小さな傷もできて血が滲んでいた。
痛みはなかった。今もない。
暗い部屋の中で包帯を巻かれた左手を見つめる。
あの時のことがスローモーションで甦り、海帆は体を丸めた。
バッグを受け止めた衝撃よりも、琉奈を引っ叩いた感触の方が強い。
海帆は後悔していた。
琉奈を殴った事ではない。
手を上げる判断をした時点で、今後起きることへの覚悟はできていた。
後悔しているのは、アビーと周路陽を危険に晒してしまったことだ。
あの時、世海との事を琉奈になじられて、海帆は咄嗟に言い返すことができなかった。
彼の事を特別視している自分の気持ちを見透かされ、思い知らされたからだ。
アビーは怯んだ海帆を見て、自ら矢面に立って琉奈から庇ってくれた。そしてそのせいで、彼女は危険な目に会ってしまった。
年下の女の子に助けられるなんて、海帆は自分が情けなかった。
あの時、周路陽がいなかったら。
バッグの金具が周路陽の制服ではなく、彼の皮膚を切り裂いていたら。
海帆が怯んだままで、動かなかったら。
そう思うと怖くてたまらない。
ベッドで丸まったまま、海帆はじっとしていた。
床に放り出したカバンの中で、携帯電話がずっと振動している。
帰宅中から携帯電話は着信を知らせていた。
誰からの着信かは分かっていたが、海帆はとても出る気になれなくて放置していたのだ。
振動が止まる。
だが、しばらく置いてまた震え始めた。
海帆は、いい加減イライラしてきた。
あの男には相手を慮る気持ちがないのか。日を改めて連絡しようという配慮ができないのか。
携帯電話は震え続ける。
振動音に耐えられなくなり、海帆は勢いよく起き上がってカバンをひったくると、携帯電話を取り出して通話をタップした。
「しつこいよ、いい加減にして!」
『お前が出ないからだろう!』
世海は海帆に負けずイライラした口調で言い返してきた。
「メッセージは送ったでしょう。少しは察してよ!」
『問題が起こった、今は連絡したくない――これだけで何を察しろっていうんだよ! 余計不安が煽られるだけだろうが!』
確かにそうだけど、それでも今はまともに話しができる状態ではないのだ。
後日、必ず説明するから今はほっといてほしい、と言うと世海は断固とした口調で言った。
『何があったんだ』
この男は人の話を聞いているのか。話したくないって言ってるじゃないか。
海帆は叫び出しそうだったが、世海が絶対に引かないことは分かっている。
どのみち無理矢理通話を切ったところでまたかけてくるだろうし、下手したら海帆が住む寮まで押しかけて来るかもしれない。
そうなったら最悪だ。
海帆は歯を食い縛り、先程の世海との電話の後に何が起きたのかを話した。
簡単に説明して終わらせるつもりだったのに、気付いたら長々と話していた。
世海は二、三質問するだけで、後は静かに聞いていた。
そして話し終えた海帆に静かに言う。
『お前、そこまでしたのに、なんで落ち込んでるんだ?』
海帆はがっくりと項垂れた。
だが世海はそのまま続ける。
『暴力は確かに悪い。でもその状況は明らかに暴れた方が悪いだろ。殴りたくて殴った訳じゃないんだ。そうでもしなきゃ、怪我人が出てたんだろ』
地面に倒れて体を強張らせていたアビーと周路陽の姿を思い出し、胃が締め付けられて海帆はまた体を丸めた。
「私がもっと上手く正しい対応していれば、誰も危ない目に合わせなくてすんだのかもしれない」
『お前その言い方、ちょっとおこがましいぞ』
たしなめられて、海帆は口をつぐむ。
世海は溜め息をついた。
『アリエル、お前の悪いクセだな。なんでも上手く解決しようとするのはやめろ。無理に決まってるだろ、そんなこと』
世海は静かに続ける。
『お前は確かに有能だよ、でも全能じゃないんだ。やれることは限られてるし、いつも必ず正しい訳でもない。大体、正しいか正しくないかなんて人によって違うんだ。全部丸く納めようなんて無理だろう』
海帆はじっと聞き入る。
『人が一人、服を切り裂ける危ないものを振り回して暴れた。お前はそれを止めた。俺から言わせれば、なんでお前が止めるんだ。他に止められる奴はいなかったのか? 危ないことするな』
「それは――」
海帆が言い淀むと、世海はそのまま続ける。
『ほらな、この時点ですでに俺にとって正しくない行動をしているじゃないか』
「……うん」
『誰も怪我しなかったんだから、それでいいだろう。十分だよ』
十分やったよと言われて、少しだけ気持ちが落ち着く。
他にできたことはなかったのだろうか、という思いはまだあるが、それでも海帆は沈んでいる意識を浮上させた。
ごろりとベッドの上で体を伸ばす。縮こまっていた関節が伸びて、少し痛い。
「ありがとう、世海くん。ちょっと落ち着いた」
『いつも腹が立つくらい余裕ある態度だから、ここ最近の取り乱してる感じの方がいいな』
ふんと鼻を鳴らしながら言う世海に、海帆は少し剣呑な口調で言った。
「私の平常心をかき乱す原因の大半は世海くんだよ」
『なおさら結構なことだ』
愉快そうな世海の笑い声を聞いて、海帆も少しだけ笑った。
『…………まだ元気なさそうだな。ずっと落ち込んでてもしょうがないだろ』
「分かってる。もう大丈夫だよ」
『本当か? なら今から出てこいよ。直接顔を見てやる』
海帆は呆れてため息をついた。いま何時だと思っているのだ。
「こんな夜中になに言ってんの。世海くん家からここまでかなりあるのに」
大丈夫だよ、と世海はしらっとした口調で言った。
『いま俺、お前ん家の前にいるから』
台北市内の夜の道を一台の車が爆走している。
高速で過ぎ去る車窓の夜景を眺めながら、海帆はふうと息を吐いた。
運転席では世海がイライラした様子でハンドルを切っていた。
「ああくそ! ここも閉まってる」
目的地だった病院は真っ暗になって閉まっていた。
世海はすぐに方向転換をして、次の候補地へと向かおうとする。
「こんな時間にやっている病院なんてないと思うよ」
「うるさい、黙れ。お前に発言権はない」
海帆の発言は、けんもほろろに一蹴された。
「怪我なんかしやがって、知ってたらもっと早く連れてきたのに」
ブツブツと憎々しげにつぶやく世海の荒っぽい運転に身を任せ、海帆は肩をすくめた。
サイコスリラーの犯人が言いそうな世海の言葉を聞き、慌てて外に出てきた海帆を見た世海は、その手に巻かれた包帯を見て形相を変えた。
何だこれはと詰め寄られ、周路陽の制服を切り裂いた琉奈のショルダーバッグを素手で受け止めた際に負った傷だ、と答えたら有無を言わさず車に乗せられ、病院探しへと付き合わされる羽目になったのだ。
「ちょっと大袈裟だよ」
「なにが大袈裟だ。包帯巻かれてるじゃないか!」
「貼った湿布が剥がれないように巻いただけだよ。傷は負ってないんだから大丈夫……」
「お前の言う事は信じない! 怪我人はいなかったって言ってたのに、お前が怪我してるじゃないか!」
「こんなの怪我のうちに入らない!」
「手が腫れてる!」
さっきからずっとこれの繰り返しの平行線で、いい加減海帆はうんざりしている。
「ここもかよ! 夜間診療あり、てあったのに!」
またも空振りになってしまい、世海はイライラとハンドルを叩いた。
このまま夜が明けるまで当てもない暴走ドライブに付き合わされるのだろうか。
海帆はため息をついた。
そんなのはごめんだ。
何か世海の気を紛らわすものはないか、と考え込んだ海帆の視界に、水煎包の文字が飛び込んできた。
黄色い看板に赤文字で書かれた肉まんの文字は魅惑的で、そういえば昼以降なにも食べていないことを思い出す。
「ねえ世海くん」
「なんだ! いま他に病院がないか調べてるところなんだから、少し待ってろ!」
「私お腹空いた」
凄い勢いで携帯電話を操作していた世海の指が止まる。
「夕飯食べてないんだよね」
ちらっと海帆を横目で見た世海は、同じく黄色い看板の店をじっと見つめた。
「…………鮮肉包でいいか?」
「私が行ってくるよ。世海くんは今顔出しNGでしょ?」
そう言って、海帆は何か言いかけてる世海を置いて、さっさと車から降りた。
夜の空気はひんやりしていて気持ちよく、ますます黄色い看板の小さな屋台が魅力的に見える。
看板に書かれてる豊富な種類の小籠包に心惹かれながら、海帆は自分用に豚肉まんと世海に韮まんを選び、温かい紅茶も二人分頼んで購入した。
こんなちょっとした買い物だけど、気分が少しだけ晴れる。
足取り軽く車に戻った海帆は、助手席に座ってすぐに世海に韮まんとお茶を渡した。
「俺のも?」
「うん。どうせあんまり食べてないでしょ?」
度を越した暴走は空腹からくる苛立ちからだと勝手に決めつける。
世海は反論することなく素直に受け取った。
「いただきます」
「うん」
二人で一緒に食べ始める。
豚肉まんは八角の味わいが濃くてジューシーで、これぞ台湾の肉まんだなぁと海帆はぺろりと一つ目を平らげた。
世海も黙々と食べている。
「韮まん、どう?」
「うまいよ。エビ出汁が効いてる」
気に入ったようだ。
二つ目も順調に胃に納め、温かい紅茶で一息つく。
しばらく二人は無言でお茶を啜っていた。
気づまりな沈黙ではなくて、穏やかな空気が車中に漂う。
しばらく緩やかな時間に身をゆだねていた海帆は、ようやく口を開いた。
「帰ろっか」
それを聞いた世海はしばらく無言でいたが、おもむろに海帆の包帯が巻かれた手を取り、自分に引き寄せた。
「……本当に大丈夫なんだな?」
海帆の手を大事そうに包む世海の手はあたたかくて、海帆はなんとか頬を動かして微笑んだ。
「大丈夫だよ。腫れはすぐに引くから」
「…………そうか」
世海は海帆の手をそっと放し、車を発進させる。
寮から連れ出された時とは違い、帰りの車内はとても穏やかだった。
途中の薬局で痛み止めの薬を買おうと言い張る世海を宥め、海帆は寮の前で車を降りた。
「じゃあね、気を付けて帰ってね」
「お前もな。明日も手が腫れていたら病院だからな。俺が連れて行く」
「大丈夫だから。そんなに心配しな――」
「晩安、アリエル」
静かに囁かれ、海帆は口をつぐむ。
平常心をかき乱されてることを悟られないように、ゆっくりと返事をした。
「晩安、世海くん」
世海は頷き、車を発進させた。
見えなくなるまで見送った海帆は、自分の部屋へと戻っていった。
翌日、海帆の手の腫れは引かなかったが、病院に行くことはなかった。
東京のル・グロンブルホテルから、海帆宛に日本への帰国の要請がきたからだ。
読んでいただき、ありがとうございます。




