再会
「マジ!? エリック・スンと幼馴染なの!」
「有名なの?」
海帆の質問に、明莉は興奮した様子で身を乗り出した。
「有名だよ! ほらちょっと前に日本でも話題になったドラマがあったじゃん。『八月、君がいた』てやつ! あれでヒロインに片思いする大学生の役をやって、一気に知名度が上がったんだよ!」
そういやそんなドラマあったな。去年だっけ。
ロッカールームで制服に着替えながら、去年の夏に明莉が夢中になってドラマのあらすじを語っていたことを思い出した。
確か台湾女子と日本男子のラブロマンスもので、日本の人気俳優が出演したから話題になってたのだ。
「あたし、あれでエリック好きになって台湾ドラマにハマったんだよね。ねえ、幼馴染みってことは今後会うかもしれないんでしょ? サインとか貰えない?」
「無理でしょ、そんな有名な俳優さんだったら。幼馴染みって言ったって五歳で別れてから今まで会ってないし。私以上に会う時間ないと思うよ、向こうの方が」
「え、会いに行かないの⁉ そんなすごい縁があるのに!」
念入りにマスカラを塗りながら、明莉が信じられないと声をあげる。
ロッカールームには海帆と明莉以外誰もいないから、自然と声が大きくなる。
「あたしなら仕事辞めてでも会いに行くのに!」
「だから無理だってば、普通に。ただでさえ人手不足なんだから、休みなんて取れない」
昨夜、母親に言ったのとまるで同じセリフを海帆は口にする。
写真を送った後、メグさんからは「会いたい、いつ台湾に来られる?」とメッセージが立て続けに来たが、しばらくは時間が取れないとしか答えられなかった。
身支度を整え、明莉ほどではないが軽くメイクを直して、海帆はロッカーのドアを閉めた。
「さ、行くよ。引き継ぎの時間」
「はいはい待って」
夜勤業務のスタッフとの引き継ぎを終え、チェックアウトと宿泊予約の確認をしているところへ、フロントマネージャーから声がかかった。
「橘、ちょっといいか」
「はい」
なんだろう、と思いながら、海帆はマネージャーの後に続いてバックヤードへ入った。
「は? 台湾?」
昨日と同じ居酒屋。ビールを飲む手を止め、雄一はポカンと口を開けた。
「ずいぶん急だな」
「うん、グロンブル台湾の日本人スタッフに欠員ができるから、至急交代要員を送って欲しいんだって」
マグロの刺身に丁寧に紫蘇を巻き、海帆はそれをゆっくりと口に運ぶ。
「欠員の理由は? 妊娠か?」
直接すぎる言い方を咎めるように睨み付けるが、雄一はどこ吹く風とビールを煽る。
「なんなんだろうなー。日本じゃそうでもないのに、海外行った途端にゆるくなるの。ほんと不思議だよ」
「その人はもともと台湾の人と結婚してたの。だからおめでたい話しじゃない」
「少し無責任じゃないか」
夫婦に子供ができることに無責任なことがあるだろうか。その人は妊娠に気付いてすぐに職場に報告し、グロンブル台湾は引き継ぎ期間を含めた人員要請をしてきたのだ。きちんと段階を踏んだ対応をしている。
そう反論すると、雄一は肩をすくめるだけだった。
「どのくらい行くの?」
「未定。とりあえず二、三年で考えて欲しいって」
「二、三年かあ。遠距離だな」
「うん……」
返事をする声が小さくなる。
雄一はル・グロンブルホテルの管理営業部に所属していて、海帆とは四年付き合っている。
結婚の話しは出てないが、お互いそろそろかなと意識はしていた。交際は順調。互いの性格や長所短所も理解している。そこにきて海を隔てた遠距離恋愛が振りかかるとは。
「ま、ちょうどいいかもな。結婚は三十になってからって考えてたし」
「そうなの?」
「うん。今はこき使われてるけど、俺も二年くらいしたらもう少し偉くなるだろうから。そうなってからって考えてた」
ちょっと待て。これってプロポーズか? 居酒屋で?
内心慌てている海帆に気付く様子もなく、雄一はサワラの塩焼きをパクつく。
「行ってこいよ。つか、その様子じゃ行く気満々だな。そうだろ?」
「うん、まあ」
「浮気の心配はまずないのが救いかな。向こうの男どもを圧倒してやれ」
「何それ」
頬杖をついて、精一杯の男前な顔で睨むと、雄一は真顔で言った。
「彼女だけは作るなよ」
『台湾に転勤ですって⁉ お母さん行きなさいって言ったけど、何も仕事移すことないじゃない』
「別に私が希望を出したわけじゃないよ。今日いきなり上司に言われたの。向こうのホテルに欠員が出るんだって」
『そうなの、仕事じゃしょうがないわね。まあでもメグさんが喜ぶわ、今日もメッセージが来たんだから。あんたが仕事で行くことになったって伝えておくわね』
それにしてもすごい縁よね~。
言いたいことを一方的に言って、美帆子は電話を切った。
ため息をついて、海帆は帰り道を急いだ。
飲んだ後は雄一とホテルで過ごし、そこで別れた。雄一は寮ではなく個人でマンションを借りているので、部屋に誘ってくれたのだが、そうすると一晩中一緒にいたくなるので断った。
今からなら台湾行きの荷造りを始められるだろう。
「は? 空港まで迎えに? 俺が?」
母親からの言い付けに、世海は露骨に嫌そうな返事をした。
着信があった時、嫌な予感がしたのだ。やっぱり出るんじゃなかった。
「嫌だよ、仕事があるし。そんな時間取れないよ」
『なに言ってるのよ! あんた車持ってるんだから迎えぐらい行ってあげなさい! せっかく日本から来てくれるんだから』
「別に俺たちに会いに来るんじゃなくて仕事で来るんだろ? ならわざわざ行かなくてもいいじゃないか。あいつだっていい大人なんだから空港からの移動くらい一人でできるだろ」
『なにを、バカな事を言ってるの‼』
ドライバー役をなんとか回避しようとしたが、母恵君の激しい剣幕に太刀打ちできず、結局しぶしぶ「わかったよ」と言うしかなかった。
『来る日が分かったらまた連絡するから。ちゃんとうちまで連れて来てちょうだいよ! 分かったわね!』
返事をするのも癪なので、唸り声で答えて電話を切る。
そのままスマホを腹立たしくテーブルに放り投げ、世海は頭を抱えてうめいた。
「どうしたんだよ、お袋さんになんか言われたのか」
高校時代からの友人、呂俊宏が向かいの席から心配そうに声をかける。
「迎えがどうとか言ってたけど」
「……………………福の子が台湾に来るから、車で迎えに行けって言われた」
俊宏は何の話しだ、と訝しげな顔をしたが、すぐに「おー!」と目を輝かせた。
「福の子ってあれか、お前をこの世に誕生させた孫家の功労者か! いやあ、久しぶりにその名前聞いたな」
「何が功労者だ。俺の両親が頑張っただけで、あいつは何もしていない。ただ寝て喚いてクソしてただけだ」
普段は礼儀正しい友人の珍しい乱暴な言葉に、俊宏は目をパチクリとさせた。
「なんだよ随分な言い方だな。初恋の人だろ」
「四歳の頃のな。そんなの初恋でもなんでもない」
世海は酒を煽り、「今じゃ見る影もない」と吐き捨てた。
「え、今の姿知ってるの?」
「母さんが写真を送ってきたんだ。別に見たくもなかったのに」
「えー俺興味ある。見せてよ」
「もう削除した」
なんでだよーと文句を言う友人を睨みつけて、世海はため息をつく。
「大した事ないよ。顔は俺の方が断然美しいし、髪なんて俺よりも短いんだ。なんのためにあんなに短くする必要があるんだ。耳丸出しなんだぜ、まるで男だ。肌は白くてまあ綺麗だけど、化粧っ気がまったく無くて、してるのかしてないのか分からないぐらいだし。服だって面白みもないシンプルなもので、ピアスはしてたけどそれぐらいしかアクセサリーも身につけてないし。座ってたから断言できないけど、足の長さから身長は百七十以上は確実にあるなあれは。大女だ。絶対足のサイズもデカい」
「よく見てるなー」
感心した声を出す俊宏に舌打ちをして、世海はがしがしと頭をかきむしる。
「行きたくねー」
「まあそう言うなって。彼女の見た目だけでまだどういう人かは知らないんだろ? 会ってみたら気が合うかもしれないじゃないか。なんせお前の福の子なんだし。大事にして損はないと思うぜ」
「冗談言うな。まっぴらごめんだ」
普段の交友関係は基本受け身な世海の拒絶反応に、俊宏は目を丸くする。
「なんでそんなに拒否するんだ? 高校の頃は会いたがってたよな、確か」
「覚えてない」
「いやそうだったよ。金貯めて日本に探しに行くんだって言ってたよ。本当に見つけたらすごい運命だなって俺思ったもん」
「見つけたよ、実際な。それで幻滅したんだ」
「そうなの⁉」
いつ⁉ と身を乗り出してくる友人をすわった目つきで睨んで、世海は酒をあおる。ピッチが早い。
「会った訳じゃなくてネットで見つけたんだ。名前で検索して。そしたらヒットした。衝撃だったよ。あいつバレーボールをしてたんだ」
「別に悪いことじゃないだろ、スポーツする女の子、俺好きだよ」
「たしなむ程度ならな、俺だって別にいいよ。でもあいつがいた高校はなんか強豪校だったみたいで、すげー気迫でプレーしてた。まさに鬼の形相だった。ガッツポーズは男みたいだったし、試合動画で聞いた声なんてガラガラにかすれてた。百年の恋も冷めるとはあの瞬間のことだったんだなて思うよ」
「ふーん」
世海のコップに酒を注いでやりながら、俊宏は訳知り顔で頷いた。
「つまりあれか、大事にしてた初恋の君の面影を崩されて、怒ってるって訳か」
「だから初恋じゃないって」
「まーまーまーまー」
ムキになる世海をなだめて、俊宏は彼のためにエビの殻を剥いてやる。
「怒るなよ、そんなことで。人間は変わるもんだろ。しかも四歳が高校生になったんだ。好みも顔も変わるさ。そのまんまでいる方が不気味だよ」
「……………………見た目の話しだけじゃねーよ」
「ん? なんだって」
「なんでもない。早く剥け」
羽田空港から台北松山空港まではおよそ四時間弱。朝のフライトに乗ればお昼前には着ける。
検疫、入国審査を終え、一階で手荷物を受け取り、税関を通った後、海帆は到着ロビーへと向かった。
大きいスーツケースなどは出国前に台北の寮に送ってあるので、小さなキャリーケースとキャリーオンできるビジネスリュックだけという軽装だ。
まずは税関カウンター側の銀行で両替をして、ロビーへと向かう。
SIMカードも購入したいけど、できれば自販機じゃなくて通信サービスカウンターで購入手続きをしたい、混んでなきゃいいけど。それが終わったら地下鉄を使って台北市内へ移動して、グロンブル台湾に行こうか。出勤は明日だけどとりあえず挨拶だけでもしておきたいし。
入国してからの行動をあれこれ考え、海帆はキャリーケースをコロコロと転がす。職場のホテルに行くかどうかは台湾に着くまで迷ったが、一応旅行用ではなくビジネスライクな服装で来たので、やはりこのままホテルへ行くことにした。
そして寮に着いてからメグさんに連絡を取ろう。
母、美帆子を介してやり取りするのもいい加減面倒くさいので、メグさんとはお互いのメールアドレスを交換している。
空港まで迎えに行くと言ってくれたのを丁寧に断り、海帆は着いたら連絡しますと出国前に知らせた。
明日からの鬼のような引き継ぎ業務を考えると、本当は今日会いに行った方がいいとは思うが、新しい職場に対する興味の方が上回ってるので、休みの日に改めて伺わせてもらおうかと連絡するつもりだ。
ロビーへの出口を抜けると、柵の向こうに到着待ちの人だかりが現れ、何気なくそこに視線を向けた海帆はぎょっとして一瞬足を止めた。
人だかりの最前列に、やたら背の高い男が立っていたのだ。
男は黒い帽子を被り、サングラスに黒いマスクをつけ、これまた服も全身黒でキメていた。
なんだろう、芸能人かな。お忍びにしては目立ち過ぎだけど。
職業柄、身バレしたくない有名人との距離のとり方は身に染み付いてるので、海帆はすっと目線を流して男の存在を視界から追い出し、意識を通信サービスカウンターへと向けた。
「え、ちょっと……」
まずはSIMカード。ああ、やっぱりカウンター混んでるなぁ。
「おい、待て」
でも一回は説明を聞きたい、やっぱり。並ぶ? でも全然動いてないし。
「待てったら、おい……」
一人終わったな。並ぼうか。にしても後ろうるさい。
「おい、橘海帆……ッ」
あれ今の名前……聞き覚えが…………私の名前?
「アリエル!」
その名前を聞いた途端、海帆の脳裏に昔の記憶がありありと甦った。
人魚姫をモチーフにした海外の有名なアニメーション映画。緑色の尾を持つ赤毛の人魚姫と友達の黄色い鯛。蟹のセバスチャン。南国特有の軽快でリズミカルな音楽と歌。大好きで大好きで何度も飽きずに観ていて、いつも付き合わせていた男の子に呆れがちに言われたのだ。「これからは君の事をアリエルって呼ぶよ」と。
勢いよく振り返ったら、追いかけてきた人物とぶつかりそうになった。
到着待ちの最前列で仁王立ちしていた、あの黒ずくめの男だった。
「世海くん⁉」
名前を呼ぶと男は怯んだように顎を引いて、ゆっくりとサングラスとマスクを外した。現れたのは、信じられないほど綺麗で整った顔だった。母美帆子の携帯で見た宣材写真よりも、こちらの方が記憶にある男の子の面影に近い。
海帆の顔に自然と笑みがこぼれた。
「うわあ、世海くんだ、久しぶり! 元気にしてた?」
「……………………」
世海は答えない。というより動かない。サングラスとマスクを外しかけた手もそのままに、完全にフリーズしていた。
じいぃっと海帆を見つめたまま動かない世海に、さすがに心配になって海帆は首をかしげる。
「……世海くんだよね? あれ、人違い? あ、それとも私の言葉聞き取りにくい? 英語の方がいいかな」
改めて英語で名乗り、会えて嬉しい旨伝えると、ようやく世海が小声で返事をした。
「…………英語でなくていい。久しぶりだな、元気だったか」
答えてくれたのが嬉しくて、海帆は笑顔で頷いた。
「元気だよ~ 家族もみんな元気。そっちは? 元気だった? メグさんから聞いたよ、俳優やってるんだって? びっくりした!」
「うん、まあ」
もごもごと小声で返事する世海を見て、あいかわらず人見知りだなーと海帆は懐かしくなった。
台湾の子供たちは人懐っこい子が多かったけど、世海は引っ込み思案な性格で、いつも母親か海帆にくっつき、人前に出たりするのが苦手な子供だった。それが俳優というきらびやかな世界で自分を表現する職業についているのだから、人間というのは分からないものだ。
まあ、今は海帆に対しても人見知りを発揮している訳だが。
思わず苦笑をすると、「なに?」と世海に聞かれた。
「ううん、変わってないなと思って。メグさんから送られた写真を見た時、あんまり綺麗だったから正直ほんとうに世海くんか分かんなかったんだけど、実際会ってみたら結構面影が残っていてなんか安心した」
「……俺のこと、覚えてた?」
「そりゃ、覚えてるよ! みんなのこともね。時々、母さんとどうしてるかね〜なんて話してたよ」
「そうか」
世海はそっと目を伏せて、何かをかみしめるような表情をした。
なんとなく嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
再度、目を上げて海帆を見つめた世海の顔には、少しからかうような表情があった。
「君はだいぶ変わったな」
「私? あはは、髪切っちゃったからね。世海くんは髪長い頃しか知らないから、私のこと分からなかったでしょ」
「分かったよ」
真っ直ぐに海帆を見つめて、世海は静かに言った。
「すぐに分かった」
熱量を感じられそうな視線で、頬の辺りがじんわりとあたたかくなる。思わず頬に手を当てたくなるのをなんとかこらえ、海帆は「そう? ならよかった」と言った。
「母さんから君の写真送られてきたし」
「あの写真本当に見せたんだ!」
メイク直しろくにしてなかったのになー、もう少しなんとかすればよかったと今さら後悔する。
気まずさを照れ笑いで誤魔化すと、世海は眩しいものを見るように目を細めて海帆を見下ろした。
なんだろうな、すごい顔を見てくるけどそんなに変わったかな。
自分よりも美しい男に凝視されるというのは、なんだかいたたまれなくて視線を泳がすと、周囲の人がちらちらと二人を見ているのに気がついた。
人より背が高い目立つ二人が立ち話をしている上に、片方は芸能人だ。もしかしたら世海の正体に気づいた人もいるかもしれない。
「…………車、外にあるから。早く行こう。母さんたちが待ってる」
海帆の視線を追って、周囲の状況に気づいた世海はマスクとサングラスを装着すると、早口でそう言って海帆の手からキャリーケースを奪い、そのまま歩き出した。
「あ、うん。ありがとう」
早足で歩く世海に置いて行かれないよう後を追うと、少しだけ速度を緩めてくれる。
記憶の中の男の子は自分よりも小さくて、いつも置いて行かないでと追いかけてきていたのに、再会した世海は海帆よりも背が高くなって後ろ姿が頼もしくなっていた。
随分と立派に成長したなー、と思いの外広く見える背中を見つめて、海帆はなんだか感慨深い気持ちになった。
「わざわざ迎えに来てくれてありがとう」
「別に。母さんに言われたから」
隣に並んで歩きながら改めて礼を言うと、サングラス越しにちらっと海帆を見ながら世海は小声で答えた。
世海の車は、空港を出てすぐの駐車場に止めてあった。
トランクに海帆の荷物を入れようとして、世海はハッとして聞いてきた。
「なんで荷物がこんなに少ないんだ? しばらく台湾で働くんだろ?」
今聞くのか、と海帆はおかしかった。
世海は再会してから終始落ち着き払った態度だったけど、もしかしたら彼も緊張してたのかもしれない。
「大きい荷物は先に送ってあるんだ。もうホテルの社員寮に着いてると思う」
「そうか……」
本人もバカな質問をしたと思ったのか、気まずそうにうつむきながら荷物を積み込み、トランクの扉を閉めた。
そのまま無言で運転席へと歩き出したので、海帆も助手席側に足早に向かう。
「ご両親は元気? あとおばあさんも」
車に乗り込み、シートベルトを締めながら質問すると、簡単な答えが返ってくる。
「まあ、元気だよ」
素っ気ない返事。
なんだか分厚い壁のようなものを感じる。
(あれかな、やっぱり俳優さんだから色々根掘り葉掘り聞かれるんじゃないかって警戒しているのかも)
彼らはとにかく自分のプライベートの事には敏感に反応する人種だから、会話は気をつけなければいけない。若干、仕事モードになりつつ、海帆は改めて『孫世海対応リスト』を脳内で作成した。
エンジンがかかり、二人を乗せた車はスムーズに走り出した。
沈黙が気詰まりなので、当たり障りのない会話を模索していたが、車窓を流れる景色に思わず目を奪われ、食い入るように見つめる。
子供の頃を除けば、台湾には大学生の頃、一度だけ来ている。でもそれ一回だけだし、おそらくこの辺りは訪れたこともない土地のはずなので、懐かしいなんて感覚は湧いてこないだろうと思っていたのだが、通り過ぎる風景が見たことあるような気がするのが不思議だった。
「そんなに面白いか? 大して見るものないだろ」
隣から聞こえた地元民らしいセリフに、まさか話しかけられるとは思っていなかった海帆は、振り返って微笑んだ。
世海の視線がさっと前方に戻る。
「面白いよ。知ってる景色に見えて不思議だし」
「この辺は来たことないだろ」
「うん、そうなんだけど……あ、すごいもう中心街が見えてきた。やっぱ松山空港だと近いな〜」
再び海帆は窓の外へと釘付けになる。
「今回、初めて台北松山空港を使ったんだけど、やっぱり便利だね。こんなにすぐに着くなんて。こっちにして正解だったな」
「…………俺んちはもうあと十五分くらいかかる」
「そうなんだ。メグさん達に会えるのすごく楽しみ」
再び振り返って言うと、世海はしばらくこちらを見て、また前方に目線を戻した。よそ見運転。
(人の目を見て話すにしても、運転中はだめだろ)
そういえば空港での会話の時も、やたら海帆の顔を凝視していたし、そういうクセがあるのかもしれない。
あまり話しかけない方がいいかもしれない、と少々緊張気味に海帆も前を向くと、なぜか世海がまた話しかけてきた。
「そっちはどうなんだ?」
「え? なにが?」
体を固くしておそるおそる隣を伺うと、ほっとしたことに今度は前を向いたままでいてくれた。
「君の家族。元気か?」
ああ!と海帆は理解し、「元気だよ!」と返す。
「帆波覚えてる? 私の姉。今は結婚して子供が二人いるよ。あと日本に帰ってから生まれたから世海くん知らないけど、航っていう弟もいるよ」
「君は?」
「ん? なに?」
「君は? 結婚してるのか?」
突然の質問にびっくりしたが、海帆は笑顔で首を振った。
「してないよ。でもそのおかげで台湾で働けるから。結婚してたら来られなかったかも」
それを聞いて、世海はほんの少し口角を上げた。
笑顔のようなものを見られてホッとしたからか舞い上がったのか、海帆は言わなくてもいいことまで言ってしまった。
「あ、でも彼氏はいるよ。日本に置いて来ちゃったから遠距離になっちゃうけどね」
ビシリッと空気が凍りつく音が聞こえた気がして、世海の顔から表情がなくなった。
なに?なに?と海帆は突然仏像のように無表情になってしまった隣の男を見つめるが、それ以降、世海はこちらに目線を送ることもなく運転に集中し始め、海帆はとりあえずほっとした。
「海帆! 小帆! ようやく来たわね! ああ、私の福の子!」
世海の実家に着くやいなや、玄関から飛び出してきた女性に海帆は抱きつかれた。
「メグさん! 久しぶりです! うわあ、懐かしい!!」
海帆も負けじと抱きしめかえし、二十数年ぶりの再会に小躍りする。
「よく顔を見せて。ああ、なんて綺麗になったの。背もこんなに大きくなって。女優さんみたいじゃない! まるで男みたいってミホコさんは言ってたけど、全然そんなことないわ! でもなんてこと! あんなに綺麗な髪の毛だったのにこんなに短くして。また伸ばしなさい。長い方が絶対にいいわ! みんなは元気? ミホコさんは元気ね! 毎日連絡してるから。コウイチロウさんやホナミちゃん。ああそうよ! 弟がいるんでしょう? 会ってみたいわ! 今度連れてきなさい!」
「母さん、そこまでにしなさい。小帆が困ってるよ」
矢継ぎ早な質問になんとか間合いをはかって答えようと努力する海帆を見かねて、メグさんの後ろから背の高い男性が話しかけてきた。
姿勢がよく、端正な顔立ちをしたシルバーグレイ。世海の父親、孫逸洋だ。
妻のメグさん、恵君と並ぶとつくづく感じるが、世海の両親なのが納得なほど美しい夫婦だった。
「お久しぶりです」
子供心に、ほのかに憧れの目で見ていたことを思い出し、海帆はかしこまって挨拶をした。
「おい、荷物」
背後から声をかけられ振り向くと、世海がこれ以上ないくらい不機嫌そうな顔で、トランクから出したキャリーケースを海帆に押し付けた。
「ああ、そうだった。ありがとう」
「……………………」
世海は海帆に目もくれず、無言で家の中へと入っていった。
恵君が憤慨して、その背中に声をかける。
「孫世海! 家まで荷物を持って行きなさい! まったく、あの子ったら……」
「大丈夫ですよ、メグさん。忙しいのに空港まで迎えに来てくれて、助かりました」
「迎えはいいです、てあなた言ってくれたでしょう? あの子にもそう伝えたのに、せっかく休みにしたんだから行ってくるって自分から言ったのよ。だから、ああ見えて、あなたに会えるのを楽しみにしてるのかしらって思ってたのに」
ぶつぶつと文句を言う妻の背中を「まあまあ」と優しく押して、逸洋が玄関へと促しながら海帆にも声をかけた。
「疲れただろう、中に入りなさい。食事の用意ができてるよ」
「好物を用意したわ! 味覚が変わってなければいいけど」
恵君の顔が瞬時に明るくなり、海帆の手を取って家へと招き入れた。
さすが長年連れ添った夫婦だ。逸洋は妻の気のそらし方を心得てる。
「母さん! 小帆が来たわよ!」
玄関を入ってすぐに、恵君は急ぎ足で奥へと行ってしまい、海帆は逸洋に連れられて、居間へと入った。
ダイニングも兼ねてる居間は広々として明るく、十人以上は座れそうなソファセットがあり、そこに知らない顔ぶれの人が数人座っていて、海帆が現れると立ち上がって歓迎してくれた。
逸洋の紹介によると、集まっているのは孫夫婦の親戚の人たちで、世海が生まれた時にも駆けつけてきた人たちらしい。みんな海帆に会って嬉しそうにしている。
その中でただ一人、仏頂面の世海だけが、ソファに長い足を組んで座っていた。
「阿海、お客様が来てるんだぞ」
父親の逸洋の言い方は静かだったが、さすがに無視できるものではないらしく、世海は無言で立ち上がった。
表情は相変わらず硬いままだ。
気まずい空気になりかけたので、海帆は「お土産があるんです!」とことさらに明るく言った。
場の雰囲気がもとの歓迎ムードに戻り、キャリーケースから出したお土産のお菓子などを渡すと、さらに盛り上がった。
その時、恵君に伴われて一人の年配女性が現れた。
足が悪いのか、恵君に支えられながらゆっくりと歩いてくる女性を見て、海帆の胸に懐かしさが込み上げる。
林淑芬、世海の祖母で恵君の母親、リンさんリンさんとよく呼び、幼少期の海帆のことを誰よりも可愛がってくれた人だ。
思わず歩み寄って彼女の反対側の手を取り、ソファに座るのを手伝った。
「リンさん、お久しぶりです。海帆です」
「小帆、我が家の福の子」
嬉しそうに微笑みながら居ずまいを正す女性の傍らに跪くと、小さな手が海帆の頬を包んだ。
「よく顔を見せて。ああ、私の福の子だ。懐かしいね、本当に会いたかった」
優しい口調に、昔の記憶が呼び覚まされる。
よくこうやって彼女の膝にすがって、お話しを聞いたり、時々怒られたりしていた。
「ご無沙汰してしまってすみません」
「本当に。もう会えないのかと思っていたよ。神様の引き合わだね、ようやく帰ってきてくれた」
「はい、帰ってきました」
頬を撫でる手が優しくて、私はこの人の事が大好きだったな、と改めて思い出した。
「ご家族は元気?」
「両親は元気です。姉は結婚をして子供が二人います。日本に帰ってから生まれた弟がいますが、今年無事に社会人になりました」
「そう、それは何より」
「ありがとうございます。リンさんは、その……」
言い淀むと、淑芬は快活に笑った。
「気にしないで、最近少しだけ膝が痛いだけよ」
「足が痛いんですか」
思わず、彼女の膝に手を添えて撫でさする。膝小僧はとても小さくて、弱々しい。
心配で眉根をよせる海帆の頬を優しく撫でて、淑芬は大丈夫よと言った。
「今日はたまたまよ。調子がいい時は一人で歩けるよ。それ以外は悪いとこなし。まだまだボケてもいない」
そんなことよりも、と淑芬は話を続ける。
「小帆、あなたはどうなの? 仕事で帰ってきたと聞いたけど、また日本に行ってしまうの?」
「まだ未定なんです。二、三年はいるつもりですが、もしかしたらもう少し長く台湾で働かせてもらうかもしれません」
最後の方は適当に言ってしまったのだが、それを聞いて曇りがちだった淑芬の表情が明るくなったので、海帆はそれでよしとした。
「ホテルの従業員をしているんでしょう。大変ではない?」
「とても楽しいです。大変な時もありますけど、世界中から来る人たちと交流ができるので、面白いし勉強になります」
その答えを聞いて、淑芬は楽しそうに笑った。
「あんたは人をもてなすのが好きだったね。よくおままごとに付き合わされたよ、阿海と一緒にね」
「そんなこともありましたね」
「水ばっかり飲まされたけどな」
昔話を懐かしがっていると、頭上から不機嫌そうな声がかかった。いつの間にか世海が後ろに立っていて、海帆のことをじっと見下ろしていた。
「そんな床なんかに膝ついてないで、ソファに座れよ。ばあさんも、いい加減手を放しなよ。こいつが動けないだろ」
言葉はぞんざいだが、優しい話し方なので、世海が淑芬のことを大事に思っていることがよくわかる。
「あら、やだ。つい懐かしくって。いっつもこうやって顔を撫でていたから」
「私も懐かしいです」
ふふ、と微笑むと、今まで黙ってそばに立っていた恵君が、「食事の用意をしてくるわね!」と言って慌てて行ってしまった。
手伝います、と立ち上がりかけたら、ぐいっと腕を引っ張られた。
いつまでも動かない海帆にしびれを切らした世海が、なかば無理やり彼女をソファに座らせ、自分もその隣に落ち着く。
「そうやって並んでると昔のままだね」
並んで座る二人を見て嬉しそうに目を細める淑芬は、海帆の腕を見て真顔になった。
「小帆。その火傷の痕、やっぱり残ってしまったのね」
「やけど?」
世海が不思議そうに聞いてくる。
淑芬が海帆の左腕を取り、腕の内側に帯状に走る痕を優しく撫でた。火傷といっても、皮膚の色がそこだけうっすらと濃くなっているだけで、よく目を凝らさないと分からない程度のものだ。
「阿海、忘れたの? この火傷はね……」
「真夏の炎天下に転んで、そばにあったバイクのマフラーに当てちゃったんですよね。直射日光が当たっていたからすごく熱くなっていて、痕が残っちゃったって母から聞いてます。私、昔からそそっかしくて」
「そんなこと全然覚えてないぞ」
世海が眉を寄せて聞き返してくる。自分の知らない思い出があることが意外で仕方ないらしく、大きな目が丸くなってる。海帆は半ばあきれた。
「世海くんは知らなくて当然だよ、私が三、四歳くらいのことだから」
「そのくらいの頃の記憶ならある」
「嘘だー」
「嘘じゃない」
本気で言ってるのか? 冗談じゃないのか。海帆は信じられなかったが、世海の目は真剣そのものだった。
「阿海の記憶力は相当なものよ。特に小帆、あんたのことはよく覚えてるわよ」
淑芬の静かな声が、二人のにらみ合いを制する。
「ずっと一緒にいたからね」
「……別にこいつのことばかりじゃない」
バツが悪そうにつぶやく世海は、淑芬が撫でる海帆の腕の痕を見て顔をしかめた。
「でもその火傷は本当に覚えてない。そんな大きな痕だったら絶対覚えてるはずなのに」
「あんたはね、小帆が怪我したことにびっくりして大泣きしてね、熱出してそのまま寝込んだのよ。覚えてないなら、熱出したのが原因じゃないかい」
「ああ! そうでしたね。私、お見舞いに行きました。一緒にプリン食べたんですよ、なんかプリンなら食べられるって言うから買ってきたんですよね」
「そうそう、あんたが食べたら阿海も食べるって言い出してね。この子は偏食で少食気味だったけど、あんたが一緒だと食べたから」
海帆は色々と思い出し、淑芬と微笑み合うが、世海は目をぱちくりさせたままだ。
どうやら本当に思い出せないらしく、ショックを受けてるようだ。
三歳頃の記憶を鮮明に覚えてる方がめずらしいと思うが。
そう慰めの言葉をかけようとした時、恵君がご飯ができたわよ、と声をかけてきた。
ぞろぞろと食卓へと向かうと、溢れんばかりの料理が置かれたテーブルに、皆が席に着く。
好物を用意したのよ、と恵君が言った通り、海帆の幼少時の味覚形成に多大な影響を与えた料理の数々に、感動で震えそうになった。
日本で食べようと思ったら、ン万円と取られるようなばかりだ。
「好きなだけ食べなさい」
「はい! 遠慮なくいただきます」
宣言通り、海帆は健啖家ぶりを大いに発揮して、恵君や淑芬を喜ばせた。特に目を輝かせながらお粥を食べてる時は、恵君は目を細めて海帆を眺めていた。
「やっぱりそのお粥なのよね。あんたはどんなにぐずっていても、お粥を食べさせたら一発で機嫌がよくなってたのよ」
「私、今でもお粥が好きです。具合が悪い時とかもですけど、普段でもお粥だけ食べたい時があるくらいです。でも、日本ではこのお粥に出会えなかったんで、今すごく懐かしいです」
「うちのは特別だから。あんたの乳離れもお粥でさせたって話し聞いた?」
「母から聞きました。一週間で成功したんでしたよね」
「そうよ。乳離れするまでうちで預かるって言ってね。家を恋しがって泣いても、お粥を上げたらすぐにこにこしてたわ、ね、母さん」
「そうだったわね、本当に扱いやすい子だった」
「随分と楽な赤ん坊だったんですね」
海帆の言葉に、恵君と淑芬は笑った。
「そうなのよ! 小帆は全然手間のかからない子だったから、阿海が生まれた時は大変だったわ。この子はとにかく食べない、寝ない、他人に触らせない気難しい性格で、赤ん坊ってこんなに違うのかってびっくりしたわ」
「悪かったな」
海帆の向かいの席で、世海がむっとした様子でつぶやく。しばらく海帆の豪快な食いっぷりに呆気にとられていたのだが、今ようやく食事に箸をつけたところだった。
その様子を見て、恵君はもっと食べなさいと彼の取り皿におかずを取り分ける。
「相変わらず食が細いんだから。この子ったら本当に昔っから食べないのよ。よくここまで大きくなれたものね」
「そうでしたっけ? 小さい頃は一緒に同じくらい食べてたと思うんですけど」
「それはね、小帆、あんたがいたからよ。あんたがいるとこの子は何でも食べたし、寝てくれてたのよ」
「寝るのもですか?」
「そう! 阿海は本当に寝付きの悪い子だったんだけど、不思議とあんたが寝てると自分から毛布と枕を引きずって、隣に寝に行ったのよ。あれには本当に助かったわ」
「母さん……」
やめてくれよ、と世海がうめく。親戚の人達からもからかわれて、バツが悪そうだ。
「助かったと言ったら、うちの方がきっともっと助かってたと思います。母は姉の面倒で手一杯だったから、メグさんやリンさんに私を見てもらえてよかったって、今でも言ってますから」
海帆が別の話しに水を向けると、恵君はそうそうと頷いた。
「ミホコさんはね、本当に大変そうだった。ホナミちゃんがくっついて離れないのーてよく言ってたわ。ホナミちゃんは人見知りの激しい子で抱っこできなかったけど、あんたは抱っこできたから。それで腕に抱いてみたら、あんたはにこにこしてるし、なんだかもう可愛くて可愛くて。それで面倒見させてってお願いしたのよ」
そうだったんですね、と海帆は水餃子を頬張りながら相槌を打つ。皮がもちもちして、肉汁がじゅわあっと溢れ出ておいしい。
こんなおいしい料理を毎日、しかもタダで食べることができる世海がうらやましい。それなのに食が細いとか、贅沢が過ぎると思う。
当の本人は、母親が取り分けた料理に悪戦苦闘しているようで、頬袋をいっぱいにしながら水餃子を攻略しようと奮闘している。
テーブルいっぱいの料理も徐々に少なくなっていく頃には、海帆もすっかりくつろいだ気持ちになっていた。
孫家の親戚の人たちの質問に機嫌よく答えている時、一人の女性から恋人はいるのか、と聞かれた。
「もういい歳でしょ。誰かいい人はいるの?」
「結婚はまだ考えていないですけど、恋人はいます。日本に」
ぴしりっと孫夫妻と淑芬の動きが止まる。
ん? なに? とさっきと同じような戸惑いを感じ、無意識に世海へ視線を向けると、彼はあからさまにそっぽを向いていた。
「そう、恋人がいるのね。日本に。ミホコさん、なんにも言ってなかったから」
「母にはまだ紹介していないんです。彼が、あんまりプレッシャーとか感じたくないらしくて」
「家族に会うことの何がプレッシャーなのかしら。どのくらいお付き合いしているの?」
「もう四年になります」
「そんなに⁉」
恵君の驚きの声に、海帆は苦笑する。
海帆の彼氏に対して疑惑の念を頂いているのは間違いない。
「そんなに待たせるなんて」
「待ってないですよ。私もそう望んだんです」
「でも……」
「おやめ、恵君」
それまで黙っていた淑分が静かに言葉を発し、恵君を落ち着かせる。
「二十年以上も立ってるんだ、色々あるだろう」
含みのある言い方をして、淑芬は海帆に微笑みかけた。
「大丈夫。収まるべき場所にきちんと収まるもんだよ」
どういう意味なのか分からず、海帆は首を傾げたが、淑芬はそれ以上なにも言わなかった。
世海が立ち上がり、海帆にぞんざいな声をかけた。
「食い終わったんなら、もういいか。俺、この後予定があるんだ。家まで送るなら、今にしてほしい」
「あ、うん、分かった。じゃあ、リンさん、メグさん、私そろそろ行きます。ご飯ありがとうございます。本当に美味しかったです」
「ええ、もう行ってしまうの……。阿海、あんた今日は一日休みだって言ってたじゃないの」
母親の言葉にも頑なに受け付けようとしない息子の様子を見て、恵君は説得を諦め、じゃあせめて何か持っていきなさい、と残った料理を手早く詰め、帰り支度をする二人に持たせる。
「俺も?」
「あたりまえでしょ。もう少し太りなさい。もっとがっしりして男らしくならないと」
「この間もらったのがまだ残ってるのに」
ぶつぶつ言う世海に、ちゃんと全部食べるようにと念を押す恵君。二人のやり取りを海帆は微笑ましく見つめた。
「私までこんなに頂いちゃって、ありがとうございます。これから一人暮らしなのですごく助かります」
「後で家の住所教えなさいね。ご飯作って持っていってあげるから」
「本当ですか! 嬉しいです」
本気で喜ぶ海帆に、恵君は嬉しそうに笑った。
「行くぞ」
世海に促され、海帆は改めて孫夫妻と淑芬、そして親戚の方達にお礼を言ってお暇をした。
車まで行くと世海が後部座席を開けて待っていたので、差し伸べている手にお土産の包みを渡し、世海が二人分の包みを乗せている間に海帆は助手席へ行って乗り込み、乗せ終わった世海は運転席へと移動した。
今日、二十数年ぶりに再開したとは思えない、まるで長年連れ添っていた者同士みたいな二人の自然な動きを感慨深く見守ったのは淑芬と恵君だけで、当の二人は特に気にする様子もなくお見送りに来た人たちと挨拶を交わす。
「今日は本当にありがとうございました。また遊びに来ます」
「いつでもいらっしゃい、必ずよ!」
見えなくなるまで手を振り続け、ようやく前を向いた時には大きなため息が出た。
「疲れたか?」
しばらくぼーっとしていたら、世海が声をかけてきた。隣を見ると、世海がこちらを伺うよう見ていた。
また危険運転を、と思ったが、海帆は気にしないことにした。
「疲れてないよ。ちょっとぼーっとしただけ」
そうか、と言って世海は黙ってしまい、車内が静寂に包まれる。
車窓を流れる夜景を眺めながら、海帆はずっと気がかりだったことを口にした。
「リンさんの足って、いつから?」
「一昨年ぐらいかな、その前から痛みがあったみたいだけど、誰にも言わなくて。気づいたら一人で歩くのも怪しくなってた」
質問されることを予期してたのか、すらすらと淀みなく世海は答えた。その事がかえって、彼が築いてる壁の存在を感じさせる。
「そっか」
小さい頃は、よく世海と一緒に外へ連れて行ってくれた活動的な女性だった。今日はたまたまと言っていたが、触れた時に感じた足の細さはあまり使われていない弱々しさだった。
会えなかった年月の長さを、海帆は今ひしひしと実感している。
「…………でも最近は、杖つきながらだけど、また歩く気力が湧いてきてるみたいだけどな」
「そうなの?」
思わず隣を見ると、世海は不機嫌そうに前を睨みながらぼそっと呟いた。
「君と連絡が取れるようになってから、元気になったらしい」
まるでそうなっては困るみたいな言い方だが、海帆は嬉しかった。
「君に会うのを楽しみにしてたから、かなりはしゃいでたよ、ばあさん。母さんはいつも通りだけど、父さんがあんなにしゃべってるとこも久しぶりに見た」
「私も楽しかったよ、みんなと久しぶりに話せて。会いたいな、て思ってたし」
「言葉も忘れてたのに?」
皮肉な言い方に苦笑する。日本に帰国して言葉を完全に忘れてしまった話しを根に持っているようだ。
「思い出まで忘れた訳じゃないよ」
そう言うと、ちらっとこちらを見て世海は肩をすくめた。
「どうやってまた言葉を覚えたんだ? 大学か?」
「ううん、専攻は違うよ。あの頃はスポーツ健康科学を勉強していて、今とは全然違う将来を考えていたから」
「へえ」
意外だったらしい。世海の態度が少し柔らかくなった気がする。
「大学二年の時に、突然台湾に行きたくなったんだよね。言葉とか、もう完全に忘れちゃってたけど、三年生になったら就職活動で絶対に行けないだろうから、行くなら今だって勢いでチケット取った」
本当は一人暮らしするためにこつこつ貯めた貯金だったが、今も後悔していない。
「初めての一人旅だったけど、来てよかったよ。その頃はもう完全に言葉を忘れてたんだけど、夜市でぶらぶらしてる時に、いきなりぶわっと聞き取れるようになったんだよね。あれはびっくりしたなー」
自分の周囲に行き交う聞き取れない言語が、突然意味が理解できる言葉になった。あの感覚は、今でも不思議な体験だった。かたく閉じていた引出しを勢いよく開けて、中身を全部ぶちまけたような感覚だった。
その経験があり、海帆はせっかく思い出した他言語を活かせる職業に就きたいと思い、畑違いの今の仕事を選んだのだ。
今思えば、よく就職できたなーと少しひやひやするが。
「前に住んでたマンションも行ったけど、世海くん達はもういなかったのが残念だったけど」
「来てたのか」
「うん、でも引っ越した後だった。予想はしてたけど」
それでもちょっと残念だった。あの可愛らしい男の子は、どんな青年に育っただろうかと少し楽しみだったのだ。
でも、今のリンさんの姿を見てしまったら、もう少し何かできたのではないかと海帆は思う。
「あの頃でも、やり方は色々あったのにね。もっとちゃんと探してみればよかったな。そしたら、リンさんが元気なうちに会えたのに」
静かな車内に、海帆のひとり言がぽつんと浮かぶ。
ちょっとしゃべりすぎたかな、と反省してると、世海は静かにつぶやいた。
「うちは、俺が中学の時にあのマンションを出たし、その後も何回か引っ越しをしてるから、あの家に落ち着いたのは割と最近なんだ。きっと君じゃ見つけられなかったと思う」
ぶっきらぼうな言い方で、ちらりと見た横顔は、これ以外の表情はできないんじゃないか、と思い始めてきた仏頂面だったが、おそらく慰めてくれてるのだろう。
「そうかもね」
微笑みかけると、世海の口がぎゅっと一文字になる。
また沈黙が続いたが、もう海帆も慣れてきて、リラックスした気持ちで車窓を眺めた。世海の様子からも、少しだが警戒心が無くなっているような気がする。
車は台北市内を走り続け、しばらくして「着いたぞ」と世海が言った。
「君のホテルだ」
「ああ、これか。おお、結構大きいんだね」
「自分で言うか。職場だろう」
「だって初めて見るし。中入らなくていいよ、歩いていくから」
立派な外観のホテル入り口に近い場所で止めてもらい、海帆はすっかり座り慣れた助手席から降りた。
「本当にホテルでいいのか? 家まで送るぞ」
トランクからキャリーケースを取り出しながら言う世海の口調が、なんとなく名残惜しそうに聞こえる。
「ううん、職場の人に挨拶したいから、ここでいいよ」
キャリーケースとお土産の包みを持って、海帆は改めて世海に向き直った。
「世海くん、今日は迎えに来てくれてありがとう。会えて本当に嬉しかった」
「…………………………うん」
俺も、と小さく呟く声に微笑んで、海帆はまたね、と手を振った。
「仕事がんばってね。今度どこか美味しいところ連れてってね」
「うん」
少し強く、世海は頷いた。
海帆は笑って、じゃあねと手を振ってきびすを返し、ホテルへと歩いていった。
そして歩いている途中で、しまったSIMカードどうしようと思いだしたので、世海が彼女の姿が見えなくなるまでその後姿を見守っていたことには、気づかなかった。
「いらっしゃい……おお、エリック」
疲れ切った体で馴染の店に行くと、店主の俊宏が出迎えてくれた。
世海は何も言わず、いつもの席に座った。
「なあ、どうだった。お前の初恋の君。もう俺気になっちゃって仕事が手につかなかったよ」
興味津々にこちらを見る友人を睨みつけ、世海はふんっと鼻を鳴らした。
初恋の君だ? ああ、会ったよ。予想通りやたら背が高くて無駄に姿勢の良い女になってた。普段着だったら少しは話しかけやすかったかもしれないのに、いかにも仕事で来ましたっていう服装だったから声かけそびれたし、こっちに気づきもしないで一人ですたすた歩いて行くから慌てて追いかける羽目になったし。なんなんだよ仕事できますアピールかよ。ノースリーブ似合ってたけど。車でも景色と自分の話しばっかりで俺のことちっとも聞かないし、聞いてくるのは家族のことばっかりだし、なに、あなたに興味はありませんよって言いたいのか。俺だってないよ! あんな馬鹿みたいにやたら食う女こっちから願い下げだ。食べ方が綺麗だからそう見えないけど、明らかに俺の倍以上は食ってた。せっかくスタイルがいいのに、絶対に太るぞ。俺より太ったらどうするんだ、俺が食って太るしかないじゃないか。父さんも母さんもばあさんも親戚の奴らも、簡単にあいつに丸め込まれやがって、あんなやつどこがいいんだ。ばあさんとばっかり話して、ばあさんのことあんなに心配して……。
「恋人がいた」
「は?」
聞き返してくる俊宏の言葉も耳に入らず、世海は淑芬の足元に跪いて彼女を心配そうに見上げていた海帆の横顔を思い出していた。
「恋人がいたんだ」
「……………………」
俊宏は何も言わずに店の冷蔵庫から瓶ビールを四、五本手に取り、世海の目の前に並べた。
「恋人がいたよ」
「わかったよ。まあ飲め」
俊宏は世海のためにビールの蓋を開けてやり、世海はそれを半ば無意識に口に持っていき、味も何も感じずに飲み下す。
目の前には、最後に見た海帆の笑顔がちらついていた。




