吉川琉奈
「橘さん、お客様へのご案内、終わりました」
吉川琉奈から報告を受け、海帆はチェックしていたディスプレイから顔を上げた。
「吉川さん、ご苦労さま。施設案内は無事にできました?」
「はい」
「ホテル内のWi-Fiの使い方も?」
「大丈夫です」
頷く琉奈を見て、海帆はにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。なにか、ご要望とかは聞いてきましたか?」
「ホテルの近くにある、お勧めの飲食店を聞かれたので、ラッキーキャットをご案内しました。それと、お子様が軽い喘息を持っている、との事でしたので、夜間対応ができる小児科病院もご案内しています」
そつのない琉奈の報告に、海帆は頷いた。
「ありがとうございます。お子様のことは気にかけておきましょう。喘息がある子供は、大抵、食物アレルギーを持っているけれど、そこは確認した?」
「すみません、聞いてないです」
「了解です。もしもあったら、食事に降りてきた時に両親が言ってくるはずだから、厨房には前もって、アレルゲンフリーの料理の可能性を、伝えておきましょうか」
「分かりました」
琉奈は海帆の隣に立ち、ビジネスチャットを立ち上げ、調理部門宛に必要事項のメッセージの作成を始めた。
バイト経験があるからか、仕事ぶりはスムーズで的確だ。
その横顔は端正で、明るいミディアムボブの髪は、手入れが行き届いて艶があり、きれいに切り揃えられている。
色白で、肌の綺麗な子だった。なんだか暗い、とアビーが言っていたが、確かに肌の白さと明るい髪色でパッと見は親しみやすそうなのだが、どことなく目元に陰があり、それが押し黙った印象を与える。
宿泊客と親密になるような、そんな軽率な行動を取るようには見えなかった。だから海帆も、初見では気付けなかったのだろう。
「調理部から、了解の返事をもらいました」
「ありがとうございます。じゃあ、吉川さんがいなかった間の報告をしますね」
海帆がそう言うと、琉奈は体ごと海帆の方へ向き直って、話を聞く姿勢を取る。
「さっき、台南からのお客様の許様から、九日の予定を八日に変更する、と連絡があったので、チケットの変更手配をしてあります。十四時です」
「はい」
琉奈が不在時に起きた事柄の報告を聞くと、琉奈は言われる前に予定表を立ち上げて、中身の確認をする。
海帆は続けて報告する。
「タクシーも手配しています」
「タクシーですか。変更前は、頼まれてましたっけ」
琉奈は首をかしげて、海帆を見上げた。
小柄なので、頭が海帆の肩までしか届かない。
「頼まれていないけど、八日は午後から雨が降るので。雨の日は足が痛いって仰っていたから、提案しています」
「なるほど、分かりました」
琉奈は頷くと、自分の所見をなにやらメモしてる。
まともだ、とても、まともだ。
正直、他の研修生とあまり変わらない。
だが、先程チェックインして来たお客様対応の時の、琉奈が見せた目付きを海帆は思い出す。
アメリカからビジネスで訪れた、壮年の男性客だった。男振りがよく、身に付けているものも上品で質が良い。
彼は海帆に話しかけてきたので、対応は主に海帆が行い、琉奈が発言することはなかったが、彼女は男性客の視線に入るように、普段よりも海帆に寄りそって立っていた。
案内中に、ちらりと様子を見た時、琉奈はじっとりとした値踏みするような目つきで、男性客を見つめていた。
なるほどこれか、と海帆は合点がいった。
アビーが毛嫌いするのも分かる。陽の気に溢れている彼女には、琉奈が醸し出す湿り気の強い雰囲気は、耐えられないだろう。
だが、男性客の予定を聞き、目的地への交通機関のご案内やプランの提案などをしている間、琉奈が口を開いたり、噂の身体的な接触をしようとする素振りはなかった。
ミホさんの前では、しっぽを出さないと思います。
橘さんの前では、まともにすると思うんです。
アビーと教員である舘石愛実が言っていた言葉を、思い出す。
もしもこれが、海帆の存在があった上での吉川琉奈の態度であるならば、なぜ誰の前でも同じ様に振る舞えないのだろうか。
そうする方が、絶対に仕事はやりやすいはずなのに。
「橘さん、交代の時間になりました」
話しかけられ、海帆は物思いから切り替える。
「はい、お疲れ様です。今週分のフィードバックをしますから、課題を忘れずに作成して、提出してください」
「分かりました」
ありがとうございました、と頭を下げて、琉奈は二人の持ち場から離れていった。
まるでシャンプーのCMのように、美しく艶やかに髪を揺らす琉奈の後ろ姿を見て、海帆は人知れずため息をついた。
「ミホさん」
声をかけられて振り向くと、グロンブル台湾のバーSeagullに新しくバーテンダーとして入った、高志浩だった。
「高志浩さん。お早うございます」
海帆は立ち止まって、微笑みかけた。
高志浩は、今出勤して来たばかりなのか、ゆるい普段着姿だった。年齢は三十五歳で、長めの髪に髭を整え、黒縁の眼鏡をかけた姿はなんだかもさもさとしていて、とても本職がバーテンダーとは思えない。だが、これが髪をセットして制服を着てカウンターに立つと、お洒落で色っぽいマスターとしてSeagullに君臨するので、なかなか面白い人物である。
「出勤、少し早くないですか?」
「早めに来るのが好きなんで。ミホさんは、もう上り?」
「いえ、これからミーティングです。海外研修の最初の一週間が終わるので」
海帆の答えを聞いて、高志浩は頷いた。
「忙しそうみたいだね?」
「この一週間、大変でしたね。想像以上でした。残りの日数、無事に乗り切れる自信がありません」
にっこりと笑顔で言う海帆を見て、志浩は笑った。冗談だと思ったらしい。
冗談ではないのだが。
「高志浩さんは、どうですか? Seagullには慣れました? 何か変わった事とかはないですか?」
「まあまあだよ。王宇とも上手くやってるし。お客さんも、俺に慣れてくれたよ。でも未だに言われるんだよなー。前にいたバーテンダーさんはどうしたの? もう来ないの?って」
高志浩のぼやきを聞いて、海帆は曖昧に笑った。
「Seagullは常連さんが多いから」
「まあね、俺で我慢してもらうさ。常連さんって言えば、最近一人増えたよ。男なんだけどさ」
歯切れの悪い言い方に、なにか心配事があるのかと目を向ける。
「エリックの事を聞かれたよ」
海帆の顔から笑顔が消える。
高志浩は肩をすくめて続けた。
「答えなかったけどね。実際、ミホさんがいなくなってから、エリックはSeagullに来なくなったし。でも、結構な頻度で来店するようになってさ」
「新聞記者ですかね?」
「そんな感じじゃないけどな。ただ、うちって安くないじゃん? あの男の身なりから、そんな頻繁に通えるとは思えなくて。それでまあ、なんとなく気にしてるんだけど」
海帆は考え込んだ。探偵だろうか? でも何のために。
「他のお客様に絡んだりとかは?」
「ないな。一人で大人しく飲んでるよ」
「そうですか」
立ち止まってしまった海帆に、高志浩は、この話しを始めた時と変わらないテンションで話しかけた。
「まあ、変わった事って言えば、このくらいかな。ミホさん。いま考え込んだって、分かることじゃないよ。ただの噂好きな客かもしれないし」
そう言われてしまえば、海帆も考えるのを止めるしかない。
高志浩の言う通り、考え込んでも仕方ないのだ。
そもそも世海は、Seagullに来店する時、身バレを気にしていなかった。多少、噂が流れていても仕方ないだろう。
「教えてくれて、ありがとうございます。ただ、できれば今後もそのお客様の事は、気にしてほしいです」
「分かってるよ。俺も王宇も気にするようにする」
そう言って貰えて、ようやく海帆の顔に、いつもの微笑みが戻ってきた。
高志浩もホッとした様子で、笑った。
「そう言えば、あの子どうなった? Seagullで酒を飲もうとした不届き者は」
海帆は苦笑した。誰の事を言っているのか、すぐに分かる。
「吉川琉奈さんですか? 可もなく不可もなく、ですかね。真面目にやってますよ」
「へえ、意外だな」
本当に意外そうに言うので、海帆は聞き返した。
「どういう意味ですか?」
高志浩は頬をぽりぽりと掻いて、海帆をちらりと見る。
「うん、まあ、店にいた時の感じを覚えてるから、そんなに大人しくしなさそうだな、て思ってて」
「何か問題を起こす、ということですか?」
不安を感じて聞いてみると、高志浩はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「俺、ああいう子は、たくさん見てきたからさ」
何でもないことのような言い方で、高志浩は続けた。
「水を必要とするように男を欲しがるんだ。特に人の男とかを好んでね」
海帆は、隣に立つむさ苦しい男を見つめた。
高志浩は、話しを続ける。
「店に来た時も、そうだったよ。行動はしていなかったけど、あれは男を物色していた。狙っているのは、金持ちの既婚者だと思う。とんでもないのが来たな、と思ったよ」
「どうして、研修生だと分かったんですか?」
そう言えば、聞いていなかったなと思って、海帆は尋ねた。
「最初は分からなかったよ。ただ、あの子は入ってきた時から浮いていたんだ。化粧は濃いし、仕草が媚びを売っているから、やたら目立ってた。うちの店に来るお客さんは、上品な人たちばかりだから、ああいうのは煙たがられるでしょう? Seagullはそういうお店じゃないから、追い出そうとしたら、日本人ぽいし、研修生だったらやばいな、と思ってすぐ連絡したんだ」
やれやれ、と高志浩は肩をすくめる。
「正しい行動だったね。間違って酒を提供してたら、俺の首が飛んでた」
「気づいてくれてよかったです」
心から、そう思う。
高志浩は、海外でも経験を積んでいる。その経験のお陰で、違和感を敏感に感じ取ることができたのだろう。
Seagullに新しく入ったバーテンダーが、彼で本当によかった。
「研修は、あと何日?」
「あと二週間ですね」
「気をつけなよ。あの子、たぶん常習者だよ。うちだけでなく、前にも同じような事をやっていると思う」
高志浩は真面目な顔で忠告した。
海帆は、気を引き締めた。
そして、それ以上に、気持ちが重く沈んだ。
寮の部屋に帰り着くと、買って来た夕飯をテーブルに置き、ぐったりと力尽きそうな体を浴室へ向かわせ、シャワーを済ませる。
浴室から出たら台所に行き、昨日作り置いておいたスープを火にかけ、それを温めている間に肌の手入れをする。
時計を気にして、余裕があることを確認し、もう少しじっくりと肌を労わってから、温まったスープをよそい、買って来た夕飯の向こう側にノートパソコンを置いて準備を整えた。
今日は、世海が出演するドラマ『Prisoner of Love ~あなたが現れたあの日から~』の第三話放送日である。
海帆はリアタイするべく、テレビ替わりのノートパソコンの前で、準備万端で待機した。
ほどなくして、切ないメロディーと印象深い歌詞のオープニングが流れ、ドラマが始まる。
第三話は、大病院の看護師である夏思洋と、そこに交通事故により入院していたレストラン経営者である王偉が、急激に接近する話しだった。
そして、夏思洋の恋人であり、大病院の跡取り息子である、世海演じる張俊凌が、二人の仲に気づき始める回であった。
この張俊凌が、とても憎たらしい。
自分は平気で恋人である夏思洋を傷つけるのに、彼が親しくする人物には必要以上の悋気を見せ、思洋を孤立させて追い詰めるのだ。
そのくせ、自分は派手に女遊びもし、夏思洋の気持ちを踏みにじるような行動を取る。
王偉は、夏思洋のそんな境遇を何も知らないまま彼に心惹かれ、やがて傷つく思洋を守る決意をし、張俊凌の壮絶な嫌がらせに、愛と知恵と勇気と腕力で立ち向かっていくことになるのだが、この時点では、まだ張俊凌に気圧され気味だった。
世海演じる張俊凌は、向かうところ敵なしな容姿な上に、粘着質で偏った愛憎表現に、立ち向かおうとする意志が挫けてしまいそうな迫力があった。
海帆でさえ、張俊凌に真っ向勝負を挑む気にはなれない。
夕飯を食べる手も止まり、海帆はドラマに見入っていく。
気づけば、次回に含みを持たせるような心憎い終わりを迎え、ミュージックチャートの順位を着々と上げている挿入歌がエンディングで流れる。
夕飯を食べ終え、食器を片づけると、携帯電話が着信を知らせた。
そろそろ掛かってくる頃だろうと思っていたので、海帆は携帯電話を手に取り、ベッドヘッドにもたれかかる。
「もしもし?」
『見たか?』
世海の声は静かだったが、どことなく期待をしている感じが受け取れた。
「見たよ。今週も凄く面白かった。安定の嫌な奴だったね」
『あの感じを出すのに、相当苦労したんだ。そう思ってもらわなきゃ困る』
ふんっと携帯電話の向こうで鼻を鳴らすのが聞こえ、海帆はくすくすと笑った。
ドラマ放送開始のその日から、世海は海帆に感想を聞くようになった。最初はメッセージを送っていたのだが、海帆はあまり長文メッセージをしないし、面倒くさいので、電話で感想を言ったら、先週からドラマが終わった時間に、世海から電話がかかってくるようになったのだ。
「どうして張俊凌は、夏思洋をあんなに追い詰めるんだろう? 愛されてる実感を感じていないから?」
『愛されてる自覚はある。あいつは過剰に自信家だしな。多分、自分の方が夏思洋を愛しすぎているから、同じくらい愛してほしくて、でも得られなくて、ああいう行動でバランスを取るんだろう』
世海の解釈は分かりやすいが、それでも海帆はなんだか納得できない。
「同じ様に愛されたいのに、優しくしないで意地悪するの?」
『優しくするだけじゃ、ダメなんだろ。それじゃ、相手に何も残らない。意地悪して傷つけて、こっちをようやく見た時に、初めて優しくするんだ。それでようやく、彼の優しさが印象強く残るんだよ』
そういうものだろうか。受けられた方は、傷つけられた記憶の方が残るのに。
だから、夏思洋は恋人から離れる決意をするのに。
『お前は、どうなんだ? 優しくしたら、同じ様に愛してくれるのか?』
世海の問いかけは、静かだけど、どこか熱がこもっていた。
難しい質問だ。軽々しく答えてはいけない気がして、海帆は考え込む。
世海はしばらく待っていたが、海帆が答えられずにいるのに小さく溜め息をついて、話題を変えた。
『そう言えば、そっちはどうなんだ? 色々と忙しそうだけど』
話が変わって、海帆はホッとした。少なからず、世海を失望させてしまったと分かっていても。
「まあ、忙しいかな。いろいろ課題があって」
『研修生が来てるんだろ?』
「うん、それもあるし、他にも……ああ、そうだ。Seagullに男が来て、世海くんのこと聞いてきたって」
『俺のこと?』
世海の声に、警戒心が宿る。
『どんなやつ?』
「私は見てないから、男っていうことしか。かなり頻繁に来てるみたい。覚えある?」
『ああいう輩は、どこにでも現れるからな』
迷惑そうに言って、世海は溜め息をついた。
『そっちの仕事に、迷惑かかってないか?』
「それは大丈夫。一人で飲んでるだけみたいだし。トラブルは起きてないよ」
『そうか』
海帆の言葉を聞いて、世海は安心したようだ。
深く息をついて、それから黙りこんだ。
「しばらくは、こっちには来ない方がいいかもね」
『そうだな』
心ここに在らずな返事だったが、世海は海帆に釘を指すことを忘れなかった。
『お前も、間違っても相手の顔を見てやろうなんて、考えるなよ。アリエル』
「分かってる」
内心、ドキッとしたが、それが行動を見透かされたからなのか、それとも昔の愛称で呼ばれたのが原因なのか、海帆は分からなかった。
それからは、またドラマについての考察が始まり、海帆はさっき見たばかりの物語を噛み砕く時間もなく、感想を言わされる。
とても面倒くさいし、正直もう寝たいのだが、結局付き合ってしまうのは、煩わしくて忙しい日々の中で、この時間が一番心が落ち着くからなのだろう。
電話が終わり、就寝前のルーティンをこなすと、海帆はここ数日なかった健やかな眠りについたのだった。
吉川琉奈宛の苦情が入ったのは、それから三日後のことだった。
琉奈はグロンブル台湾の制服姿で、人気の無い物陰で男性客に腰を抱かれながら親密な様子で談笑していたところを、別の宿泊客に目撃された。
ここはそういうホテルなの? と目撃した宿泊客にお叱りを受け、海帆は陳謝し、すぐに舘石愛実と二人で対応に向かった。
琉奈に事情説明をさせると、「声をかけられ、観光案内をしていただけ」と言って素直に謝り、もう二度としません、と反省した様子を見せたが、海帆の上司は重く受け取ることにした。
琉奈は厳重注意の上、今後は座学のみの研修となった。現場研修の評価ポイントは付与されないので、成績は相当落ちることになるだろう。
愛実と一緒にそう申し渡した時、琉奈は淡々と受け入れたが、二人を見つめる目元には険が宿り、それ以降消えることはなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。




