山積みの問題
ジョナス・リーのスイーツイベントの準備は、着々と進められていた。
フランス・パリで活躍したパティシエの凱旋イベントということもあり、メディアからも注目され、開催期間への問合せが連日のようにホテルに殺到し、担当部署は対応に追われていた。
周路陽は、ホテルグロンブル台湾の管理営業部門企画広報課に所属しており、ジョナス・リーのスイーツイベントを担当している。
担当といっても、パティシエであるジョナス・リーと上司の蔡環真の橋渡しのような役割で、主に行っているのは、本人曰く雑用らしく、ジョナスにいいように使われる使い走りらしい。
なぜ海帆がそんなことを知っているかというと、休憩時間に立ち寄ったフリースペースで、さめざめと泣く周路陽を慰めるアビーとジェシカに出くわしたからだ。
今年入りたてだった時の新人らしい溌溂とした若々しさは鳴りを潜め、人生に疲れ切って憔悴した様子の周路陽は、アビーに優しく背中を撫でられながら、切々と訴えた。
「僕は、僕はもうダメです……ジョナスとはやっていけません!」
今にも辞表を提出しそうな周路陽を宥めて話しを聞くと、パティシエ・ジョナスの我が儘は度を越してひどい、ということだった。
どの料理人にも共通していることだが、ジョナス・リーは食材に対してのこだわりが非常に強く、用意されたスイーツの材料に納得ができないらしい。フルーツに関しては特にそうで、市場を駆けずり回って調達しても、「よくこんな酷いもの準備したな」と言われる始末なのだとか。
こだわりは食材だけでなく、調理器具や厨房環境、イベントが開催されるラウンジの内装にまで及ぶ。
ジョナス・リーのイベントは、ホテルのロビーラウンジで行われるのだが、開催期間中に毎日一種類ずつ季節のフルーツを使ったスイーツの新作がお披露目されることを目玉にしている。
ジョナスは、新作スイーツに合わせて、その都度ラウンジの内装を変更したいと言うのだ。
栗とぶどうを使用した時は、クラシカルで大人が集うサロン風に。苺をメインとした日は、ガーリーでちょっと小悪魔なテイストのあるガールズパーティー風に、という具合に。
季節のイベントによって、多少内装を変えることはするが、スイーツに合わせて毎日となると、人員も予算もかかる。しかもジョナスは、ラウンジの壁紙や絨毯にまで注文をつけてくるのだ、さすがに無理である。
「でも聞いてくれないんです。僕の言う事なんて」
食いしばった歯の間から押し出すように言う周路陽は、悔しそうに拳を握り締めている。
「蔡主任はなんて言ってるの?」
ジェシカが俯いている路陽の顔を、心配そうに覗き込んだ。
周路陽はため息をついた。
「さすがにジョナス・リーと喧嘩になって。うちの主任は気が強いし、ジョナスも引かないんです。そんなんだから、うちの調理部ともうまくいかなくて……」
当初スイーツイベントには、グロンブル台湾調理部門から、ペストリー担当者を二、三人ジョナスに付けることになっていたのだが、こだわりが強く注文の多いジョナスに辟易して、担当を降りる者が出ているそうだ。
「このままじゃ、スイーツイベントが中止になってしまいます」
周路陽は胃を抑えて呻いた。
最近はよく眠れないらしく、目にはクマが浮いている。
あまりの焦燥ぶりに、海帆は不憫に思った。
「ミホさん……」
アビーが、助けを求めるように海帆を見てくる。
そんな風に見られてもな、と海帆も困った。
こういう八方塞がりな気分になった時は、優しい慰めと小さな指標を提示されると、気分が上がったりするけれど。
「全部を解決するのは、まず無理だから。まずは、一つの問題をクリアすることに集中したらどうかな」
「一つ、ですか」
消え入りそうな周路陽の声に、海帆は頷いた。
「職人気質の人ってさ、頑固で融通が利かないから。無理だと分かっていても、言い出した以上、引けなくなったりするんだよね。それでも、こっちが説得したら妥協してくれることもあるんだよ。通常の精神状態だったら」
「あの男の精神状態は、普段から最悪です」
憎々しげに言う周路陽に、海帆は苦笑する。
「そうだろうね。今のジョナス・リーは、何もかもが上手くいかなくて、思い通りに事が運ばなくて、やけになって意固地になってると思う。そうなると、試し行動みたいに無理難題や難問を吹っかけてきたりするから」
「なにそれ。子供じゃないですか」
ジェシカが口を尖らせる。
海帆も同意見だが、世の中にいる成人した人間と言うのは、ほとんどが大人の成り損ないなのではないかと思う。
「全ての問題を解決するのが無理なら、出来そうなこと一つに集中する。それができたら、次に取り掛かる。そうして一つずつ解決したら、ジョナスの機嫌もよくなって、妥協する姿勢を見せてくれるかもしれないよ」
「でも、もう手は尽くしたんです」
肩を落として気落ちする周路陽を、アビーが励ます。
「周路陽。もう一度、食材集めを試してみたら。これが一番取っ掛かりやすそうだし」
「無理だよ。僕が持っていくものは、全部気に入らないんだから」
「じゃあもういっそのこと、ジョナスを市場に放り込みなよ」
ジェシカが、いらいらした口調で言う。
「人がわざわざ準備したものにケチつけるんだったら、自分で選べって連れて行けばいいじゃない。市場なり農園なり、無理矢理連れまわして、納得するまで探させればいいんだよ、そんな奴は」
「そうだよ、素人の周路陽が選んだ食材だからケチつけたのかもしれないし。プロのパティシエを納得させるなら、本人に選ばせるのが一番いいよ」
ジェシカと、それに賛同するアビーの言葉を、周路陽は気乗りしなさそうに聞いていたが、それでも弱々しく頷いた。
「蔡主任に掛け合ってみるよ」
どうやら、小さな指標が立ったようだ。
青ざめていた周路陽の顔色に、少しだけ血の気が戻ってきた。
なんとかなるといいけど、と健闘を祈りながら、海帆は席を立ってその場を離れようとした。
「あ、ミホさん、どこに行くんですか?」
立ち去ろうとした海帆に、アビーが声をかけてくる。
「一緒に休憩取りましょうよ」
ジェシカにも誘われたが、海帆は振り向いて首を横に振った。
「ありがとう。でも、舘石先生に用があるから」
それを聞いて、アビーが顔をしかめる。
「もしかして、吉川琉奈の件ですか」
露骨な言い方だったので、海帆は注意しようかと思ったが、ジェシカがすぐに反応したので、言えずじまいになる。
「吉川琉奈って、あれですよね。問題児の研修生。また何かやらかしたんですか?」
興味津々なジェシカの様子に、海帆はやれやれと肩をすくめた。
「違いますよ。別件です」
「ヨシカワルナって?」
海帆の言葉は、周路陽の質問に反応したアビーとジェシカによって、かき消されてしまった。
「今年の研修生よ。初日にSeagullに行って、酒飲もうとした奴」
「ああ! あの子か!」
周路陽が憐れむような目で、海帆の事を見た。
「ミホさん、大変ですね。こっちにも噂が来てますよ。今までにない問題児だって」
「……………………」
なんと答えたものか、と考えていると、アビーがぽつりと呟いた。
「わたし、あの子嫌いです」
普段は明るくて溌溂としているアビーにしては、珍しくネガティブな発言だ。聞き捨てならず、海帆はアビーの元へ行き、隣に座った。
「どうしたの?」
優しく聞く海帆に、アビーは鼻息荒く声を上げた。
「最初は、なんだか暗くて、あんまりやる気のない子なんだな、て思ってただけなんです。でも、フランス人の観光客が来たじゃないですか、そしたら、その男性客と凄く仲良くなって」
アビーは憤然として拳を握った。
「しゃべり方もそうなんですけど、とにかくボディタッチが凄いんです。自分から触りにいくし、相手から触られても全く気にしないんです。それどころか、どんどん親密になっていって。一人客だけど、あの人は既婚者です。指輪してるし、家族の写真を見せてきて、自慢したんですから。独身だったらいいのか、てわけでもないですけど。わたし、さすがに見てられなくて、注意しました」
海帆は真剣な表情になった。初耳だったのだ。
「アビー、ごめんね。私、気付かなかった。そんなことしてたなんて」
「あの子、ミホさんや舘石先生の前ではしないんです。じっと大人しいんですよ。あたしの前でだけです。きっと、あたしのこと、フランス語が理解できない奴だって思ってたんですよ。バカにしすぎですよね!」
ぷりぷり怒るアビーの背中を、今度は周路陽がさする。
「注意をしてからの態度は?」
背中をさすられたことで落ち着いたのか、アビーは海帆の質問に冷静に答えた。
「すみませんでしたーで終わりです。本当に反省してるか分かりません。でも、それからは二人でいるところは見てないです」
「そう、ありがとう。すぐに舘石先生に相談するね」
懸案事項が増えたな、と思いながら海帆はアビーの肩を優しく叩き、再び席を立った。
「ミホさん、すみません。言うのが遅くなってしまって。この間、せっかくの休みなのにホテルに来てもらっちゃったから、なんだか言い出しにくかったんです」
申し訳なさそうに言うアビーに、海帆は微笑みかける。
「いま言ってくれたから、いいよ。ありがとう。私も気づけなかったから、これからは注意する」
「あの子、しっぽを出さないと思います。特にミホさんの前では」
どういう意味だろうと思ったが、まずは報告が先なので、海帆はその場を離れ先を急ぐ。
探し人は、すぐに見つかった。
「舘石先生」
小柄な後ろ姿に声をかける。
振り向いたのは、学生のように幼い顔立ちの女性だった。
舘石愛実は、ル・グロンブルホテルが運営する、ホテリエ育成専門学校、東京GRBホテルスクールの教員であり、本年度二年次の学生を受け持っている。
艶のあるブラウンカラーのロングヘアーを、きっちりと後ろにまとめてる姿は、さすがホテルスクールの教員と見れるが、表情はどことなく所在なげで、自信のなさが伺える。
「橘さん」
愛実が海帆の名前を呼ぶ。声までも幼い。
「どうされました?」
「お忙しい所すみません。相談したいことがあるのですが、今お時間よろしいですか?」
愛実が頷くのを待って、海帆は彼女を近くにある雑談用のスペースに案内し、そこに二人で腰を掛けた。
まず話しをしたのは、学生の研修期間中のプログラムの微調整だ。
ジョナス・リーのスイーツイベントの他に、結婚式や大口の団体客の予定が入ってきたので、指導時間の調整を願い出る。
現場研修ではよく起きる、イレギュラー案件だ。愛実は特に取り乱す様子もなく、淡々として調整に応じたが、海帆の交代要員の相談の話しの時に、少しだけ表情を曇らせた。
「橘さん、指導に入らなくなるんですか?」
「基本的には最後まで入らせていただきます。ただ、教えることができない時間が増えることになると思うので、その時は、今も入ってくれてる馬愛維さんや他の日本人スタッフが対応します」
不安そうな愛実に、海帆は安心させるように微笑みかけた。
「全員優秀なスタッフです。特に馬愛維さんは語学も堪能ですから、私よりも勉強になるはずです」
それを聞いて、愛実は控えめに頷いた。
ちなみに馬愛維とはアビーの本名である。海帆としては、本名の方が断然可愛らしいと思うのだが、本人は英名にこだわっている。
「わかりました。生徒たちに伝えておきます」
「ありがとうございます。ご迷惑お掛けします」
席を立とうとする愛実に、海帆は「まだ、ありまして……」と声をかけた。
愛実は不安そうに海帆を見た。
「はい」
「吉川琉奈さん、なんですが」
その名前を聞いた途端、不安そうだった愛実の顔に恐怖が走る。
「彼女が、またなにかしでかしたんですか?」
眉間に刻まれたシワに、関わりたくないという思いがありありと見てとれる。だが、彼女は担当教員だ。海帆は、努めて冷静に話を進める。
「宿泊客の男性と、かなり親密に接しているそうです。弊社のスタッフが注意してますが、お耳に入れたくて」
「宿泊客と? 私は見ていませんが」
「私も見ていません。ですが、そちらの方が問題があると思います」
誰の前でも同じように接客をしているのだったら、本人の無意識の可能性がある。だが教員である愛実や、指導役の海帆の前では見せないのなら、意図的なものかもしれない。そうなるとタチが悪い。
「……わかりました」
海帆の危惧を理解したのか、やや青ざめた愛実が頷いた。そして、しばらく思い悩む顔をしてから、おもむろに顔を上げて海帆を見つめた。
「あの、橘さん。お願いがあるんですが」
「なんでしょう」
愛実の思い詰めた表情に、海帆も身構える。
「研修期間中は、できるだけ吉川さんに付いてもらえないでしょうか」
「吉川さんにだけ、ということですか?」
海帆の質問に、愛実は頷く。
「はい。橘さんがそばにいれば、吉川さんも大人しくすると思うんです」
なぜだ。さっきもアビーに似たようなことを言われたが、理由がわからない。
海帆は厳しい教え方はしない。少なくとも、自分ではそう思っている。学生が失敗をしても叱ったことはないし、穏やかに接しているはずだ。
疑問だらけの海帆の顔を見て、愛実は少し困ったように笑った。
「橘さんって、一目見ただけで有能だって分かりますから。自信があって余裕がある。誰に対しても平等で、お気に入りは作らない。そういう人の前では、大抵の人はまともであろうとすると思うんです」
そんなことあるだろうか。正直、海帆は理解できなかった。
まず、自分が有能だと思ったことがない。
愛実は、お願いできないでしょうか、と再び言った。
「そうですね……」
海帆は考える。
確かに、これまでのところ、海帆は吉川琉奈とあまり研修を組んでいない。海帆は、現場経験の無い生徒と組むようにしており、長期休暇中にホテルでのバイト経験があった吉川は、他のスタッフやアビーと組むことが多かったのだ。
「分かりました。今後は、私と組むように調整します」
「ありがとうございます。助かります」
愛実はホッとした様子で、海帆にお礼を言った。
読んでいただき、ありがとうございます。




