第五話 狼の目から見ても知性が感じられない。
今週の投稿はここまでです。月曜からまた更新を再開します。
まずはこの狼の群れをなんとかしなければ、容体を診ることもできない。サマトの手から離れた戈を拾い上げ、剣を地面に突き刺す。
右からウチナリの様子を伺っている狼の口に狙いを定め、素早く踏み込み両手で握った戈の刃先を突き入れる。頬肉に突き入れた刃先を引っ掛けて、横並びになった狼たちと自分を戈の柄で隔て、地面に突き刺していた剣を引き抜く。狼の動きに合わせて柄を上下左右に動かし、前後の動きも加える。それでなんとか狼たちの突進を阻むことができた。戈の柄を掴んだ左手を滑らせて狼との間合いを測りながら、左端の狼から順に剣で突き刺していく。
殺到していた狼は片付いた。伏兵もない。全身から汗が吹き出す。無理に整えていた呼吸も乱れる。
「サマト、ヨミヤさん、ヒウチ!」
倒れた三人に駆け寄るが、誰の反応もない。サマトの貫頭衣の腹や太ももには血が滲んでおり、まだ固まっていない。紐を解き、傷口を確認するが腹の傷が特にひどい。村長たちが帰るまで持ちこたえてくれるだろうか。戻ってもどうにもならないのかもしれないが。
ヨミヤは、首を噛まれている。守られるようにして抱かれていたヒウチは首を噛まれたうえ、すでに事切れていた。まだあたたかいが、深く貫かれた首の傷口から血は流れきってしまったようだ。一瞬、殺されたウチナリの両親の姿が脳裏にちらつく。
「……」
ヒウチを抱えていた手が震えていることに遅れて気づく。腕に触れられ、振り向くとヨミヤに腕を掴まれていた。まだ辛うじてヨミヤには息があるようだ。口を開いてかすかに動かしたので、ウチナリは耳を近づける。
「お腹の子……お願い……ウチナリ……」
空気が抜けるようなか細い声だった。
「はい……任せてください」
ウチナリは、そう応えるしかなかった。お腹の子が無事に生まれてくるかどうかわからない。すでに死んでいるかもしれない。それでも、これが最期だから。
ウチナリの言葉が届いたのだろうか。ヨミヤの手はウチナリの腕から解けて落ちた。
オオシは大人の人の背丈を超えるほど大きな身体を持つ狼で、タカマ山の麓を縄張りとして数十匹の群れを従えていた。
数年前。まだ今ほど身体が大きくなかった頃、当時の仲間だった群れ八匹で鹿を追いかけていて運悪く熊に遭遇した。
獲物を横取りされた上に怪我を負わされ動けなくなっているところを、何者かに助けられた。赤い剣を腰に差した男の姿をしていたが、あれは人のように見える別の何かだ。警戒もせず熊に近づき、片手で放り投げて見せた。たとえ怪我をしていなくても男を捕食する想像ができない。それどころか、男はオオシを警戒する対象とすら見ていなかった。
それから男は群れから逸れたオオシとともに暮らしたが、傷が癒えるといつのまにか姿を消していた。目的は不明だ。ただの気まぐれだったのだろうか。オオシが一匹狼に戻ると、徐々に体が大きく動きは俊敏に変化していった。一匹でも苦労せず獲物を獲ることができるようになったが、同じようにまだ群れを作っていない若い狼たちと自然に群れを作るようになり、その群れの長となった。
獲物の豊富さと水場が近いことからタカマ山の麓を縄張りに決めた。もともとそこを他の狼の群れが縄張りとしていたが、オオシには敵わないことがわかったのだろう。オオシの群れに降り、行動をともにすることになった。同じようにして近くを縄張りとしていた群れがいくつかオオシの群れに加わり、仲間は数十匹に膨れ上がる。
縄張りの近くには人里があった。家畜として豚や鶏が飼われていたので、オオシが率いる群れは時々襲って腹を満たした。
その時に、気づいた。村人の言葉が理解できることに。
十数年生きてきて、人に遭遇したのは初めてではない。人々が連携して狩りをしているところを襲い、獲物を横取りしたこともあるが、そのときは何を話しているのかわからなかった。
人の言葉がわかるのなら、オオシも言葉を話せるのではないか。それから時々、狩りをしている人間の後をつけて、会話を聴くようになった。茂みの中に隠れていても体が大きいので時々見つかり、襲われたり逃げられたりすることが続く。
そんな生活をしているうちに、言葉を話すことができるようになった。群れの仲間たちは言葉を話すことも理解することもできない。自分も、人に似た何かのように、狼の枠から外れた何かになってしまったのだろうか。
村の家畜は襲うが、人の言葉を学ぶために人を襲うことはしなかった。それに、村の長が狩りをしているところを幾度も見かけたが、油断のできない相手だった。まともにやりあえば敵わないだろう。わざわざ群れを危険に晒すつもりはなかった。
そうやって人と距離をおいて共存しているつもりだったのだが。数日前から、仲間が人から襲われるようになった。
最初に気づいたのは五日前。オオシの群れは、四〜八匹程度の群れがいくつも集まって構成されている。その小さな群れの長が怪我をしていた。噛まれてできた傷ではなく、斬り傷。これは人間の武器によるものだ。
その日からオオシは、朝の就寝時にも深く寝入らず、異変に注意するようになった。寝床も今までは小さな群れごとに離れ離れになっていたが、なるべく近くで寝るようにし、単独の群れでの狩りも禁じた。
すると次の朝、様子のおかしな人間が襲ってきた。目が虚ろで、周りを警戒する様子がない。剣を引きずりながらとぼとぼと歩き、狼の目から見ても知性が感じられない。
その男は突然走り出す。狙いは数か月前に生まれたオオシの仔だ。オオシは即座に反応する。男の側面から、剣を持っていない方の肩を狙って噛みつく。男はこちらを見ていない。しかし、体を捻って躱された。いつのまにか間合いを取られている。
男はオオシに怯む様子も見せず斬り掛かってくる。焦りも緊張もなく、どことなく眠そうな顔だ。しかし、その動きは素早い。オオシは男が剣を握る手を狙い、引っ掻く。
男の拳は傷つき、血が流れるが剣を離さない。だが体勢は崩れた。首を狙って噛みつくが、男は剣を手放して自分から倒れ込み、転がっていった。そのままむくりと起き上がり、逃げていく。
オオシはその男から少し離れて追いかけることにした。まだ若い雄が一匹、男に飛びかかる。男は振り返ることもなく走り続け、若い雄の牙が男の首筋に触れるかと思った瞬間、男は素早く体を捻る。
そのまま若い雄は崩折れた。男の手には短刀が握られていた。喉から血を流して絶命した若い雄を虚ろな表情で見下ろしていた男は、ゆっくりと顔を歪めて嘲笑う。狼との争いで大きく開けた男の貫頭衣。その胸に埋まった黒い珠は陽の光を受けて鈍く光っていた。
そのまま男はゆらゆらと来た道を戻っていく。オオシは怒りを飲み込み、男の後をつけていくと、人里に辿り着く。
オオシの縄張りと交わる人里——村人は、その村をヤマク村と呼んでいた。
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