第二話 争いの只中へ突き進んでいく。
ナギは必死に走っている。首にかけた勾玉が揺れる。今にも茂みの中から狼が飛び出して来そうだ。震える足を懸命に前へ出しているうちに、今度は立ち止まるのが怖くなった。おにいちゃんなら、あんな狼に負けたりしない。その思いを胸に、懸命に走る。
鍛冶場の主、ウチナリはナギの両親の弟子だった。もう覚えていないが、親のいないウチナリは数年前までナギの竪穴住居で一緒に暮らしていたらしい。
ウチナリは鍛冶場の主として独り立ちしたあとも、なにかと両親の竪穴住居を訪れた。その頃、オトヤとアズサという、ナギよりも九歳年上の少年少女も両親の家へ通ってきて武術と狩りの稽古を受けていたが、時折訪れたウチナリは二人に先輩として指導をしていた。ナギはウチナリのことをおにいちゃんと呼び、実の兄のように慕っていた。オトヤとアズサのことはウチナリが呼び捨てにしていたので、ナギも真似して呼び捨てが染み付いた。
坂道を駆け上がる。小高くなった丘を越えれば、もう鍛冶場が見えてくるはずだ。おにいちゃんならなんとかしてくれる。サクとヤネリはまだ無事だろうか。棒一本で、子供だけで——ぶんぶんと頭を振って弱気を払い、ウチナリの元へひた走る。
丘を登るたびに、悲鳴が遠くから聞こえてくるような。聞き間違いだろうか。嫌な予感を感じるが、足を止めることはできない。だが。丘を登りきった道の先に、一匹の狼が佇んでいた。
喉の奥で、ひっ、と息を呑む。足はもう動かない。完全に舐められているのだろう。ゆっくりと歩いて狼が近づいてくる。
「来ないで……」
上擦った声は近づいてくる狼に果たして届いているのか。ぷるっと片耳を振り、何事もなかったかのように迫り続ける。追いつかれたら噛み殺されてしまう。ナギの両目からぽろぽろと涙が零れる。
ここで死んだらサクとヤネリを助けることができない。眦を上げ、今度ははっきりと意思を込めて叫ぶ。
「来ないで!」
それでも狼は意に介した様子もなく、四肢に力を込められてしまう。次の瞬間には飛びかかってくると確信する。ナギと狼の視線が交錯した。坂道を走って体力を使い切ったナギにはもう、為す術が残されていない。
「ぃやあああああ!」
目をつぶり、両腕を交差させて顔を守る。金切り声が森に響き渡るが、狼は迫ってこない。体中から冷や汗が流れ、頭痛がする。体からどんどん力が抜けていく。サクとヤネリのために頑張らなければいけないのに、意識が遠くなっていく。狼がいつまでも襲って来ないのを不思議に思って目を開けると、その場に立ち止まったまま唸り声を上げている。
ナギと狼は、煙のような薄い膜で隔てられていた。なぜかわからないが、その煙に守られていると感じた。狼はどうにかして煙の膜に近づこうとするが、狼の鼻が触れそうになった瞬間なにかを感じたのか、ぱっと飛び退る。そしてまた姿勢を低くして唸り声を上げる。
そこへ気配もなく男が一人現れる。ナギを背に庇い、狼と対峙した。男の揺るぎない背中はナギの不安を消していく。ナギの父親と同じくらいの背丈に見えるので、村人たちに比べるとかなり背が高い。男が無造作に前に出ると、狼は後退る。
腰に下げた剣に右手を添え、睨みつけると、狼は尻尾を巻いて逃げ出した。一つ息を吐き、男がナギを振り返る。白い煙はゆっくりと消えていくところだった。
ナギは肩で息をしながら一歩二歩と男に近づくがそのまま前に倒れ込む。
「おっと」
男はナギを支える。
「大丈夫かい?もう心配いらないよ」
ナギは、男の貫頭衣の裾をきゅっと握る。
「お願い。さっちゃんとやっちゃんを助けて。お願い……」
そこでナギに限界が訪れ、意識を失った。この人に任せておけばすべてうまくいく、となぜか根拠もなく信じることができた。
「さっちゃんとやっちゃんって誰だろうね。ふむ」
男はナギの涙を指で拭い、両腕で抱える。とりあえず、ナギが向かっていた方向へ進むことにした。この先にも争いの気配を感じるが気にする必要もないだろう、と気楽に足を進める。
歩きながら、男はナギの顔を眺める。
「一応、僕の親類ということになるのかな。それにしては……ああ、なるほど。そういうことか」
ナギの首にかけられ、微かに光っていた勾玉は徐々に輝きを失っていった。
「これからどんなふうに成長するのか、楽しみだね」
微笑んだ男の呟きがナギの耳に入ることはなかった。男とナギは、争いの只中へ突き進んでいく。
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