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祝福に刻む爪痕  作者: 七曲七竈
城塞都市
9/21

9.僧侶

 城塞都市バルドの内部は、外壁が見せた威容とは裏腹に、死期を悟った獣の断末魔にも似た混乱に満ちていた。

 南門から北門へと貫くはずの目抜き通りは、北から逃れてきた人々の濁流で埋め尽くされている。親とはぐれた子供の泣き声。荷物を奪い合って罵り合う男たちの怒声。どこかで起きた火事によるものか、空には幾筋もの黒煙が立ち上り、焦げ付いた臭いが風に乗って鼻をついた。遠く街の北端からは、まるで地響きのような魔物の咆哮と、金属が激しくぶつかり合う戦闘音が途切れることなく響き続けている。それはこの街が今まさに、生存か死滅かの瀬戸際に立たされていることを示す不吉な鼓動だった。


 ゼノンは南へと向かう人の波に逆らい、ただ一人北を目指していた。

 彼の周りを流れていく人々の顔に浮かぶのは、絶望、恐怖、焦燥。だが、そのどれ一つとしてゼノンの心を揺らすことはない。泣き叫ぶ子供が足元に縋り付こうと、崩れた家屋の下敷きになった老婆が助けを求めようと、彼はただそれを障害物として認識し、無言で避けて進むだけだ。

 彼の五感は、この混沌の中からただ一つの気配――嗤う髑髏の紋章が放つであろう、悪意と恐怖の気配――を探し出すためだけに研ぎ澄まされている。


「行くぞお前ら!女神様の祝福を、クソ魔物どもに見せてやれ!」


 屈強な鎧に身を包んだ男が、仲間らしき数人を引き連れて北門へと駆けていく。その誰もが体のどこかに勇者の紋章を輝かせていた。街の危機に際し、騎士団からの要請と報酬に釣られて馳せ参じた傭兵勇者たちだろう。彼らは口々に威勢のいい言葉を吐きながら、死地へと向かっていく。

 ゼノンは、そんな彼らの背中を冷ややかに一瞥しただけだった。勇者。かつては英雄の代名詞であったその言葉は、今や傲慢と暴力の免罪符でしかないが。それが弱者を嬲らないのであれば、この場で切り捨てる必要もない。走り去る彼らから目線を外し、ゼノンは黙々と北へ歩を進めた。


 やがて、人々の避難経路の一つとなっていたのだろう、大きな広場に出た。

 そこは、臨時の野戦病院と化していた。本来であれば噴水が涼やかな音を立て、子供たちが駆け回っているはずの石畳の上には、夥しい数の負傷者が横たえられている。鎧が砕け、呻き声を上げる騎士。魔物の牙にかまれ、高熱にうなされる市民。その阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、白い僧衣をまとった者たちが必死に走り回り、治療の祈祷を捧げていた。彼らは、女神の名の下に慈悲を施す「教団」の者たちだろう。

 ゼノンは、その光景にも足を止めなかった。広場を最短距離で突っ切ろうと、負傷者を避けて歩を進める。彼の目には、血と泥に汚れた石畳も、死にかけている人々の苦悶の表情も、ただの背景としてしか映っていない。


 その、時だった。


「待ってください!そちらは……!」


 凛とした、しかし切羽詰まった声が、彼の行く手を遮った。

 声の主は、一人の若い僧侶だった。歳の頃は二十歳にも満たないだろう。銀の髪をきつく結い、血と泥で汚れた白の僧衣を身にまとって、必死に負傷者の手当てをしていた。その小さな体躯には不釣り合いなほどの気迫と、他者を慮る優しさが、灰色の瞳に宿っている。ルイン・フェルシオン。教団に所属する、駆け出しの僧侶。

 彼女は、血濡れの布を交換する手を止め、ゼノンを見上げていた。広場にいる誰もが北から逃れてきたか、あるいは負傷しているというのに、この男だけは違う。傷一つなく、ただ淡々と、最も危険な北門の方角へと歩を進めている。その異様な姿に、彼女は咄嗟に声をかけずにはいられなかったのだ。


「待ってください、旅の方。そちらは北門です。今、魔物の大群が押し寄せていて、とても危険な状況になっています!」


 彼女の声は、純粋な善意から発せられていた。こんな場所で、無用な死者を一人でも増やしたくない。その一心だった。

 だが、ゼノンは足を止めなかった。彼女の警告などまるで聞こえないかのように、その横を通り過ぎようとする。その無反応な態度に、ルインは焦りを覚えた。彼女は思わず立ち上がり、ゼノンの前に回り込むようにして立ちはだかると、その腕を掴んで引き止めた。


「聞いていますか!?死んでしまいます!どうか、南の避難所へ……!」


 その瞬間、ルインの言葉が途切れた。

 彼女が掴んだのは、男の左腕。その外套の袖がずれたことで露わになった、手の甲。そこに刻まれた紋章を、彼女の目はっきりと捉えてしまったのだ。

 それは、冷たく美しい雪の結晶。だが、その神聖であるはずの女神の祝福を冒涜するかのように、深く、禍々しい三本の爪痕が、紋章の上から無慈悲に刻みつけられていた。


「あ……あなた様は……勇者、様……?」


 ルインの口から、驚愕に震える声が漏れた。灰色がかった彼女の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。

 勇者。女神に選ばれし、希望の担い手。こんな絶望的な状況で、新たな勇者が現れた。それはまさしく、女神の慈悲だと、彼女は一瞬、そう思った。

 掴んでいた腕を慌てて離し、彼女ははっと顔を上げた。先程までの同情や憐憫は消え、その瞳には、一筋の光明を見出したかのような、強い決意の光が宿っていた。


「そうでしたか……!あなた様も、この街を守るために……!」


 彼女は深く頭を下げると、懇願するように、しかし力強い声で言った。


「どうか、北門の騎士団にお力をお貸しください!今、街は崩壊の危機に瀕しています。ですが、あなた様のような勇者のお力があれば、きっと……!きっとこの街は救われます!」


 それは、彼女が心の底から信じている祈りだった。教団の教え、そして彼女が幼い頃から抱き続けてきた「勇者=弱きを助け、悪を挫く英雄」という理想像。目の前の男が、その理想を体現してくれる存在だと、彼女は微塵も疑っていなかった。

 しかし、彼女の必死の懇願に対し、ゼノンから返ってきたのは、想像を絶するほどに冷たく、突き放すような言葉だった。


「断る」


 短く、感情の乗らない一言。ルインは、一瞬その言葉の意味が理解できず、呆然と顔を上げた。


「……え?」


「お前達がどうなろうと、知ったことではない」


 ゼノンは、まるで道端の石でも見るかのような目でルインを一瞥すると、再び踵を返した。その背中には、慈悲も、使命感も、英雄としての気概も、何一つ感じられなかった。

 ルインは、目の前で自分の信じていた世界が崩れていくような衝撃に襲われた。理解が追いつかない。なぜ?どうして?混乱した思考のまま、彼女は震える声でその背中に問いかけた。


「な、なぜですか……!?貴方は、女神様に選ばれた勇者なのでしょう!?人々を、この街を守るのが勇者の、あなたの使命なのでは……!」


 その言葉に、ゼノンの足がぴたりと止まった。

 彼はゆっくりと振り返る。その顔には、相変わらず何の感情も浮かんでいなかったが、その瞳の奥には、ルインのちっぽけな理想を嘲笑うかのような、底知れない昏い色が宿っていた。


「それがどうした」


 その言葉は、刃となってルインの心を抉った。

 勇者であること。それが、一体何だというのだ。お前たちの掲げる正義も、使命も、俺にとっては一片の価値もない。その声は、雄弁にそう語っていた。ルインが信じてきた、全てのものを根底から否定する一言だった。彼女は言葉を失い、ただ目の前の男を見つめることしかできなかった。こんな勇者がいていいはずがない。女神様は、なぜこのような男に祝福を、紋章をお与えになったのか。


 立ち去ろうとするゼノンだったが、彼は不意に何かを思い出したかのように、ルインに視線を戻した。彼の口から発せられたのは、この街の惨状とは何の関係もない、彼自身の目的のためだけの質問だった。


「一つ聞く。『イビル・ジ・イーヴル』という――嗤う髑髏の紋章を持つ勇者を見たか」


 その名を口にする瞬間、ゼノンの纏う空気がわずかに変わったのを、ルインは感じ取った。それまで氷のように冷え切っていた彼の声に、ほんのわずかだが、燃え盛る憎悪にも似た熱が宿っていたからだ。嗤う髑髏の紋章を持つという、狂気の勇者。その名は、最近では悪い噂と共に各地へ広まりつつあった。だが、ここ最北の地までは、まだ届いていなかったらしい。


「イビル……?いいえ、存じ上げません……そのような名の勇者様は、この街には……」


 ルインがかろうじて絞り出した声でそう答えると、ゼノンは再び興味を失ったように彼女から視線を外した。用は済んだ、とばかりに。

 彼はもう何も言わなかった。

 呆然と立ち尽くすルインをその場に残し、ゼノンは今度こそ、迷いのない足取りで再び北へと歩き始めた。戦闘の音が、先程よりもさらに大きく、間近に聞こえてくる。

 その背中は、ルインが思い描いていたどの勇者の姿とも似ていなかった。それは希望の光を背負う英雄の背中ではない。ただ、己が憎悪だけを道標に、地獄の底へとひたすらに突き進む、孤独な復讐者の背中だった。

 残されたルインは、その場から一歩も動けずに、ただ小さくなっていく彼の後ろ姿を、なすすべもなく見送ることしかできなかった。

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