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祝福に刻む爪痕  作者: 七曲七竈
城塞都市
8/21

8.北上

 風が荒野を渡っていく。乾いた土の匂いを乗せたそれは、旅人の外套を揺らし、名もなき草を薙ぎ倒し、そしてどこへともなく去っていく。ゼノンは、そんな風と同じように、ただ黙々と北を目指して歩き続けていた。

 あの村を出て数日。

 陽が昇れば歩き始め、陽が沈めば獣を避けて岩陰で眠る。食事は干し肉をかじり、喉が渇けば沢の水を飲む。その繰り返し。目的のためだけに最適化された、感情の入り込む余地のない日々。


 だが、ふとした瞬間に、それは蘇る。

 静かな夜。燃え尽きかけた焚き火の最後の火の粉が闇に消える、その刹那。あるいは、雲一つない空のどこまでも続く青さに、意識が吸い込まれそうになる、そんな昼下がり。

 彼の脳裏に響くのは、凛とした、どこまでも真っ直ぐな声だった。


『ありがとう!』


 宿屋の娘の声。

 その言葉が聞こえるたび、ゼノンの胸の奥深く、憎悪と復讐心で凍てついたはずの何かが、微かに軋む音を立てた。長い間、向けられることのなかった純粋な感謝。それは、ゼノンが疾うの昔に捨て去ったはずの、人間としての温かみを思い出させ、彼の心を戸惑わせた。それは痛みであり、同時に、忘れかけていた安らぎにも似た、奇妙な感覚だった。ほんの一瞬だけ、凍てついた心の表面を、柔らかな陽光が撫でるような錯覚。

 だが、その微かな光は、次の瞬間には必ず、より昏く、冷たい記憶によって無慈悲に塗りつぶされた。


 娘に礼を言われる数時間前。月光が照らす泉のほとりで、泥と恐怖にまみれた男が最後に絞り出した命乞いの叫び。


『奴なら……見た!数週間前!北へ向かう街道で!!』


 その言葉は、ゼノンの思考を支配する冷たい憎悪とはまた別の、熱く燃え盛る激情を呼び覚ます。


 ――泉の水面に男の頭を叩きつけた時の、鈍い衝撃。後頭部を鷲掴みにした手に伝わる、最後の痙攣。命が尽きるまで、ゼノンはただ無表情に男を押さえつけていた。その瞳は水中で歪む月と男の絶望を映しながらも、何も感じてはいなかった。

 だがその内側では、嵐が荒れ狂っていた。

 アルガスが『嗤う髑髏』の名を口にした瞬間から、ゼノンの視界の端は赤黒いノイズで明滅していた。故郷を焼く炎の色。家族、友人の、愛しい人の絶叫と嗚咽。そして、その地獄絵図の中心で、まるで美しい芝居でも観ているかのように穏やかに笑う、黒髪黒目の少年。

 イビル・ジ・イーヴル。右眼に嗤う髑髏を浮かべた悪魔。

 その名が鼓膜を揺らすたび、体内の全ての血液が沸騰し、骨の髄までが灼かれるような感覚に襲われる。殺す。殺す。殺す。ただそれだけのために、彼は死の淵から蘇ったのだ。禁忌に手を伸ばし、外道の手を取り――祝福に爪痕を刻んで。


『頼む、俺が知ってるのはこれだけだ!嘘じゃねえ!信じてくれ!!』


 男の言葉は、ただの情報として処理された。北へ。その二文字だけを正確に抜き取り、あとは不要なノイズとして破棄する。だから、殺した。情報を得た以上、その男に生きていられる理由はどこにもなかったからだ。

 憎悪は、娘の『ありがとう』がもたらした僅かな人間性を再び凍てつかせ、ひび割れた心をより強固な氷で覆っていく。そうだ、これでいい。この道に、温もりなど必要ない。あるのはただ、復讐という名の目的地だけ。


「北か」


 誰に聞かせるでもなく、ゼノンの唇から乾いた声が漏れた。

 その瞬間、彼の足取りから、最後の迷いが消え失せた。宿屋の娘の面影も、彼女の声がもたらした奇妙な温もりも、全ては荒野を渡る風と共に、遥か後方へと流されていく。

 ゼノンの瞳には、ただ荒涼とした北の空だけが映っていた。


                         ◇


 旅路は過酷だった。岩がちな山を越え、鬱蒼とした森を抜け、ぬかるんだ湿地帯を渡った。時に盗賊に襲われ、時に飢えた魔物に牙を剥かれたが、その全てはゼノンの前に返り血の染みとなって残るだけだった。美しい夕日も、夜空を埋め尽くす星々も、彼の目には映らない。それらは目的地に至るまでの時間を計るための時計の針であり、それ以上の意味を持たなかった。


 そして幾日かが過ぎた頃。ゼノンはようやく目的の街へと辿り着いた。

 城塞都市バルド。魔王領との国境に位置する、人族領域における最後の砦にして、魔王領へ至る唯一の道。その名に違わず、街は天を衝くほどの巨大な城壁に囲まれ、その威容は見る者を圧倒すると同時に、この地がいかに過酷な戦いの最前線であるかを物語っていた。城壁には無数の傷跡が刻まれ、いくつもの攻城戦を耐え抜いてきたことを無言で示している。

 壁の上では、鎧姿の兵士たちが慌ただしく行き交い、その表情には一様に疲労と緊張の色が濃く浮かんでいた。


 ゼノンが辿り着いた南門もまた、普段とは違う厳戒態勢が敷かれていた。巨大な門は半分だけが開かれ、そこを通過しようとする人々は、屈強な衛兵たちによる厳しい検問を受けている。

 街から逃げ出そうとする市民たちが、門の前で長い列を作っていた。女子供や老人を優先させるためか、あるいは徴兵逃れを防ぐためか、衛兵たちは一人一人の顔と荷物を厳しく改め、人の流れを無理やり制御している。


「待て、その剣は置いていけ!街の貴重な戦力だ!」


「丸腰で魔物のいる荒野に出ろって!?ふざけんな!!」


 そんな怒声と悲鳴が飛び交う中、武装を整えて街に入ろうとする傭兵や、交易を諦めて引き返す商人たちの姿も混じり、門の前は混沌の極みにあった。誰もが不安げな顔で、北の空を見上げている。


「待て、旅人。この先へは進めん」


 槍を交差させた衛兵の一人が、有無を言わせぬ口調で街に入ろうとするゼノンを制止した。その声は疲労でかすれている。


「見ての通り、街は臨戦態勢だ。北の魔王領から魔物の群れが溢れ出し、いつ城壁が破られてもおかしくない。今はよそ者を入れている余裕はない。引き返せ」


 ゼノンは僅かに目を細め、無言で左手を差し出す。

 衛兵たちの視線が、その手の甲に刻まれた紋章に注がれた。雪の結晶を三本の爪痕が蹂躙する、異様な紋章。勇者の証であることは間違いないが、その禍々しい意匠に、衛兵たちは一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。


「そ、その紋章は……勇者様、でありますか?」


 一人が、おそるおそる問いかける。ゼノンは肯定も否定もせず、ただ静かに相手を見つめ返すだけだ。その沈黙が、衛兵たちには肯定と受け取られたらしい。彼らの顔から、先程までの厳しい警戒心がさっと引いていく。代わりに浮かんだのは、藁にもすがるような、切実な期待の色だった。


「これは……!女神様のお導きだ!」


「勇者様、どうか我々にお力添えを!北門では今この瞬間も、仲間たちが命を懸けて戦っております!あなた様のような女神の祝福を受けし者のお力があれば、この絶望的な戦況もきっと……!」


 彼らは口々にそう訴えかけ、先程までの態度が嘘のように恭しく道を開けた。勇者。その称号は、たとえ地に堕ちたとはいえ、このような極限状況下においては未だに希望の象徴として機能するらしかった。


 ゼノンは、そんな彼らの懇願には一瞥もくれなかった。彼は衛兵たちの横をすり抜け、一切の興味を示すことなく街の中へと足を踏み入れる。そのあまりに冷たい態度に衛兵たちは呆気に取られていたが、今は目の前の職務の方が重要だと判断したのか、すぐに気を取り直して次の検問へと移っていった。


 北の方角からは、断続的に戦闘の咆哮と金属がぶつかり合う激しい音が響いてくる。不安げな顔で空を見上げる者、荷物をまとめて南へと向かう者、教会へと駆け込み祈りを捧げる者。

 外の緊張感をそのまま凝縮したような混乱の渦中で、ゼノンは誰にともなく呟いた。


「何処にいる……?」

 

 南へと逃げ惑う人々の濁流に逆らい、ただ一人北へ向かいながら。溢れた言葉は、喧騒に飲み込まれて消えていった。

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