6.薄明
夜が明けた。
それはいつもと変わらない、静かで穏やかな村の朝のはずだった。だが、「木漏れ亭」に集まった村人たちの間には、夜の闇よりもなお重く、晴れない霧のような困惑が漂っていた。
夜通し、彼らは交代で見張りを立て、二階の部屋から響くかすかな物音にも身を強張らせていた。次に要求されるのは金か、食料か、あるいは、もっと理不尽な何かか。誰もが、最悪の事態を覚悟していた。
しかし、夜明けの光が宿屋の窓から差し込んでも、二階の男――ゼノンが階下に姿を現すことはなかった。扉を蹴破る音も、何かを要求する怒声も聞こえない。ただ、不気味なほどの静寂が、宿屋を支配していた。
「……結局、何もなかったな」
宿の主人が、疲れ果てた顔でカウンターに寄りかかりながら呟いた。その足元には、昨夜ゼノンが投げつけた銀貨が、まだ数枚転がっている。
「ああ。あれだけ派手に暴れておいて、ただ金を払って寝てるだけなんて…」
村人の一人が、不安げに二階を見上げながら同意する。彼らがこれまで経験してきた「勇者」とは、何もかもが違っていた。
アルガスたち三人組に限らず、これまでこの村に立ち寄った勇者たちは、誰もが女神の紋章を権力の印として振りかざした。彼らは敬意を強要し、最も良い部屋と食事を無償で要求し、気に入らなければ平気で暴力を振るった。それが、村人たちが知る「勇者」という存在の常識だった。
だが、昨夜の男は違う。三人の勇者を殺すという常軌を逸した暴力を振るったかと思えば、宿代だと言って大金を投げつけ、あとはただ部屋に閉じこもっている。その行動原理は、村人たちのちっぽけな経験則では到底理解の及ぶものではなかった。だからこそ、余計に不気味だった。
そんな重苦しい空気を破ったのは宿屋の娘だった。昨夜、勇者たちに食い荒らされた厨房に残っていたのは、硬いパンと野菜くずくらい。それでも、彼女は出来る限りのスープをこしらえ、丁寧に切り分けたパンと一緒に盆の上に載せた。
「父さん、これ、持ってくね」
「お、おい、待て!危ない!」
亭主が慌てて娘の腕を掴もうとするが、娘はそれを静かにかわした。
「泊まっていけって言ったのは、私だから」
その瞳には、恐怖よりも強い、何かを見定めようとする意志の光が宿っていた。父親は、その光に気圧され、もはや何も言うことができなかった。
娘は盆を両手でしっかりと持ち、軋む階段を一段一段、ゆっくりと上っていく。二階の一番奥、昨夜ゼノンが消えていった扉の前で、彼女は一度、深く息を吸った。心臓が、とくとくと少しだけ早く脈打つのを感じる。
コン、コン。
控えめなノックの音が、静かな廊下に響いた。
……返事はない。
もう一度、今度は少しだけ強くノックする。それでも、中からは何の物音も聞こえてこなかった。
眠っているのだろうか。それとも、もうここにはいない? あるいは、中で何か良からぬことが――。
最悪の事態と、ほんの少しの安堵。様々な可能性が頭を巡る中、娘は一つの決心をした。
泊まると言ったのは彼で、それを受け入れたのは自分だ。この目で確かめなければ、何も始まらない。
娘は盆を片手で持ち直し、震える手で、そっとドアノブに手をかけた。幸い、鍵はかかっていない。彼女は意を決し、音を立てないように、ゆっくりと扉を開けた。
朝日が窓から差し込み、部屋の中を明るく照らし出していた。部屋は荒らされた様子もなく、整然としている。そして、その部屋の真ん中、ベッドに腰掛けたゼノンがいた。
まるで自身の魂の一部でも確かめるかのように、ゼノンはただ静かに手の中にある何かを見つめている。
扉を開けた娘の気配に気づいたのか、手の中の物から視線を上げたゼノンと目が合った瞬間、娘は全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
それは、昨夜、勇者たちに向けていた冷徹な視線とはまるで異質だった。あの時の目は、ただ獲物を見据える狩人の目だった。だが、今この瞬間に見たゼノンの瞳の奥に渦巻いていたのは、もっと深く、もっと救いのない、底なしの昏い闇だった。それは世界そのものへの絶望か、あるいは、内側で膨れ上がる憎悪が影を落としているのか。まるで、この世の全ての苦しみを一人で引き受け、煮詰めたかのような視線。直視すれば、魂ごと引きずり込まれてしまいそうなほどの引力があった。
娘は思わず息をのみ、恐怖に足がすくむ。盆を持つ手が、カタカタと小さく震えた。
だが、その底なしの闇は、娘の存在をはっきりと認識した次の瞬間には、まるで霧が晴れるかのようにふっと消え去っていた。彼の瞳は再び、感情の読み取れない、静かな無表情へと戻り、ゼノンは手の中にあった物を素早く外套の内側へとしまい込んだ。誰にも見られてはならない、彼だけの聖域か、あるいは呪いであるかのように。
気のせいだったかもしれないが、朝日に照らされたガラスのような物体の表面に、欠けた雪の結晶のような模様が浮かんでいるのが見えた気がした。
それは、彼の手の甲に刻まれた、あの冒涜的な爪痕を持つ紋章をどこか彷彿とさせた。
張り詰めていた空気が緩み、娘は自分が止めていた息を、か細く吐き出した。全身から力が抜けそうになるのを、必死でこらえる。
ふと、そんな彼女の視界に、壁に取り付けられた簡素なハンガーラックが映った。そこに、昨夜彼がまとっていた革の外套が、律儀にもきちんと掛けられていたのだ。
昨夜の、あの血生臭い殺戮。乱暴に投げつけられた銀貨。そして、今しがた見た、魂を蝕むような昏い闇。
その絶望的な在り方と、まるで几帳面な旅人のように、丁寧に外套を掛けるという行為。その、あまりにも大きなギャップ。
そのちぐはぐさが、妙におかしくて、娘はこみ上げてくる笑いを必死にこらえた。口元がむずむずするのを抑えながら盆を持ち直し、一歩、部屋の中へと足を踏み出す。
この男は、ただの怪物ではない。何か、とても歪で、奇妙で、そして理解不能なだけの――一個の人間なのだという実感が、すとんと胸に落ちた。
「……何の用だ」
ゼノンの声が、静寂を破った。感情のない、平坦な声。
娘ははっとして、自分がここにきた目的を思い出した。
「あ……朝食を、持ってきたの」
彼女はどもりながらもそう答え、おずおずと部屋の中へ入り、ベッドの脇にある小さなテーブルに盆を置いた。簡素な黒パンと、野菜くずの入った熱いスープ。今できる最大限のもてなし。だが、粗末なその食事は、昨夜の彼の行為への対価としてはあまりに不釣り合いに思えた。
「そうか」
ゼノンは、テーブルに置かれた食事に目を落とすと、静かに言った。
「充分だ。礼を言う」
礼。その、あまりにも場違いな言葉に、娘は再び虚を突かれた。勇者を三人も惨殺した男。血と暴力の匂いしかしないはずのこの男が、こんな食事に対して、礼を言う。その律儀さと、昨夜の惨劇が結びつかず、彼女の頭は再び混乱する。
あまりのちぐはぐさに、ついに彼女の中で何かが弾け、必死に抑えていた感情が、言葉になってぽろりと口からこぼれ落ちてしまった。
「……妙なヤツ」
口にした瞬間、彼女は血の気が引くのを感じた。それは思考であり、独り言のつもりだったが、静かなこの部屋では彼の耳にはっきりと届いてしまっただろう。娘は反射的に、両手で自分の口を慌てて塞いだ。
次に訪れるであろう反応を想像し、彼女はぎゅっと目を閉じて、来るべき衝撃に身構えた。
だが、いくら待っても何も起こらなかった。
おそるおそる目を開けると、ゼノンは特に気分を害した様子もなく、ただ差し出されたスープの椀を手に取り、黙って口をつけていた。娘の失言など、まるで聞こえなかったかのように。あるいは、聞こえた上で、全く意に介していないかのように。
彼はただ、腹を満たすという目的のためだけに、静かに食事を進めていく。
その姿を見て、娘は自分がここにいるべきではないことを悟った。これ以上、この男の領域に踏み込むべきではない。
彼女は静かに後ずさり、扉に手をかけた。
「……ご、ごゆっくり」
かろうじてそれだけを言い残し、彼女は部屋から出ると、音を立てないようにそっと扉を閉めた。
一人になった廊下で、娘は大きく安堵のため息をつく。背中を預けた扉の向こう側は、再び完全な静寂に包まれている。
怪物。殺人鬼。なのに、礼を言い、外套を律儀に掛け、少女の失言に動じない。
「妙なヤツ」。その言葉が、今の彼女が彼に対して抱いている、最も正確な感情だった。




