5.帰還
森の闇を抜け、再び村へと戻ってきたゼノンの姿を最初に認めたのは、宿屋「木漏れ亭」の窓から恐る恐る外を覗いていた村人の一人だった。彼の「戻ってきやがった」という囁き声が、死んだように静まり返っていた宿屋の中に、さざ波のような動揺を広げた。
ガイとウィルの無惨な死体が転がっていた場所は、亭主が村の男たちの助けを借りて、慌ただしく片付けられていた。血溜まりは濡れた布で何度も拭われ、遺体はひとまず外へと運び出されたが、鼻をつく鉄臭さと、床板の間に深く染み込んだおびただしい血の痕が、先程の惨劇が生々しい現実であったことを物語っている。その場にいる全員が息を殺して身を寄せ合い、ただ時間が過ぎるのを、あるいは、あの男が二度と戻らないことを祈るように待っていたのに。
そこに、あの死神は戻ってきてしまった。
ゼノンは宿屋の入り口で足を止め、中には入ろうとしない。外套から滴り落ちる泉の水と夜露だけが、ゆっくりと滴っていく。
亭主は娘の肩を固く抱いていた。床に転がっていた二つの死体よりも、今まさに扉の前に立つ、生きた厄災の方が遥かに恐ろしかった。
彼は、怯えた目でこちらを見つめる村人たちの群れを無感情に一瞥すると、ただ事実だけを告げる。
「逃げた男は死んだ」
その言葉は、まるで石を投げるかのように、静まり返った空気の中に放り込まれた。声には何の抑揚もなかった。喜びも、怒りも、憐憫さえもない。ただ、一つの作業が終わったことを報告するような、乾いた響きだけがあった。
宿屋の中に、新たな波紋が広がる。安堵と恐怖がないまぜになった、奇妙なざわめき。
「死んだ……?三人とも、か……?」
「なんてことだ……勇者を三人も殺すなんて」
「じゃあ、もう俺たちは奴らに搾取されなくて済むのか?」
「馬鹿野郎!今度はこいつが何を要求してくるかわかったもんじゃねえぞ!」
村人たちの視線は、もはやゼノンをただの旅人としては見ていなかった。それは、人知を超えた災厄か、あるいは危険極まりない猛獣に向ける視線だった。恐怖の中にわずかな感謝が混じり、しかし、その感謝すらも「次は自分たちの番ではないか」という新たな怯えによって上書きされていく。ある者は怒りを滲ませていた。この男が来なければ、勇者たちに逆らわなければ、村は――たとえ搾取されてはいても――平穏だったかもしれないのだ、と。あらゆる感情が渦を巻き、ゼノンという一点に突き刺さる。
亭主は、そんな村人たちの前に立つようにして娘を庇い、その目には最大限の警戒心が宿っていた。この男は、三人の勇者たちよりも性質が悪いかもしれない。暴力の規模も、その在り方も、自分たちの理解が及ぶ存在ではないという確信があった。
だが、ゼノンは村人たちのそんな視線にも、渦巻く感情にも、一切の興味を示さなかった。イビルの情報を得た彼にとって、この村にも、村人たちにも、もはや何の用もないらしかった。
彼はくるりと踵を返し、その場から立ち去ろうとした。
「待って!」
凛とした声が、彼の背中に突き刺さった。
声の主は、宿屋の娘だった。父親の制止を振り払い、彼女はカウンターの内側から一歩、前へと踏み出していたのだ。
ゼノンの足が、ぴたりと止まる。村人たちのざわめきも、再び静寂へと変わった。誰もが固唾をのんで、少女の次の言葉を待った。彼女自身を除いて。
娘自身、なぜ引き止めたのか、その理由をうまく言葉にできなかった。ただ、このまま行かせてはならないという、衝動だけがそこにあった。
心の中では、相反する感情が渦を巻いていた。自分たちを救ってくれたことへの感謝。しかし、勇者たちと同じ暴力で村を恐怖に陥れたことへの怒り。そして、彼の振るう剣が放つ、底知れない無慈悲さへの恐怖。それら全てが一つに混ざり合い、理由の分からないまま、彼女を突き動かしていた。
どのような言葉をかけるべきか、混乱した思考の中では答えが出ない。ただ、唇だけが何かを紡ごうと震え、そしてこぼれ落ちたのは、およそその場の誰にも、そして彼女自身にさえも予想だにしない言葉だった。
「……夜も遅いんだから、泊まっていけば?」
しん、と静まり返った宿屋にその言葉だけが場違いに響き渡り、宿屋の誰もが、息をすることも忘れたかのようにただ二人を見つめていた。
振り返った男の顔を見て、娘は息をのんだ。
彼の顔から、あの氷のような無表情が、一瞬だけ消え失せていたからだ。
わずかに見開かれた目。きつく結ばれていたはずの唇が、困惑したように半開きになっている。それは、怒りでもなければ、嘲りでもない。純粋に、心の底から虚を突かれた者の顔。予想外の出来事に、どう反応していいのか分からない、呆気に取られた表情だった。
場違いにも、娘の心に一つの感情が灯る。
鉄仮面の下に垣間見えた、ほんの一瞬の人間味。それは、恐怖一色だった彼女の心に、未知の生物に対するような強い好奇心と、奇妙な親しみの色を灯した。
その瞬間、娘の中で、ゼノンに対する感情の天秤が大きく揺れる。恐怖が消えたわけではない。だが、それと同じくらい強い新たな感情が、確かに芽生えていたのだ。
言ってしまった言葉の重大さに、娘の頬がじわりと熱くなる。それでも彼女は、ゼノンの顔からどうしても視線を逸らすことができなかった。
だが、ゼノンの呆気にとられた表情はまさに刹那の幻だった。娘の言葉が引き起こした僅かな波紋は、次の瞬間には静まり返り、彼の顔には再び、氷のように冷たい無表情が戻っていた。まるで先程の表情など最初から存在しなかったかのように。
ぞっとするほどの静寂の中、ゼノンの手だけがゆっくりと動き、濡れた外套の懐へと差し入れられた。
「やめろ!娘に手を出すな!!」
亭主が、悲鳴に近い声で叫びながら娘の前に飛び出した。その両腕を広げ、震えながらも己の身体を盾にする。村人たちの間に走ったのは明確な敵意と、追い詰められた獣のような緊張だった。懐から取り出されるであろう凶器と、次に来るであろう暴力の瞬間を、誰もが覚悟した。
だが、ゼノンの手から放たれたのは、彼らの予想を根底から裏切るものだった。
チャリン、と。乾いた金属音が響く。
数枚の銀貨が、鋭い軌道を描いて飛び、亭主の胸元に当たって力なく床へと落ちた。銀貨だ。まごうことなき、宿の代金を支払うための通貨。この村で数日は贅沢に暮らせるであろう、十分すぎるほどの枚数。
亭主は、胸に当たった軽い衝撃と、床に転がる銀の輝きに、ただ目を白黒させるばかりだった。痛みは全くない。しかし、その行為に含まれた無遠慮さと、予測不能性に対する精神的な衝撃は、殴られるよりも遥かに大きかった。
「部屋はどこだ」
懐から手を出し、ぶら下げたゼノンが、静かに問うた。その視線は、まだ動揺から抜け出せずにいる亭主を通り越し、彼の背後にいる娘へと真っ直ぐに向けられていた。
恐怖と敵意に満ちた大人たちが言葉を失う中、ただ一人、娘だけがその問いを正面から受け止めた。彼女は父親の後ろから抜け出すと、少しだけ上擦った声で答えた。
「……二階の一番奥。この宿で、一番いい部屋」
私を殺さず、村人も殺さず、客として泊まるというのなら、客として最大限にもてなす。そんな少女なりの意地と矜持が込められたその部屋は、皮肉にも、つい先ほどまでこの宿を支配していた男がふんぞり返って要求していた場所だった。
「……そうか」
少女が差し出した鍵を受け取ったゼノンは、もはや振り返ることもなく、残された村人たちに一瞥もくれず、ただ黙々と階段を上っていった。ギシリ、と古い木の階段が軋む。
その背中は、つい先程まで三人の勇者を殺戮した殺人鬼のそれとは思えないほど、静かで、淡々としていた。やがて、その姿は二階の闇に完全に消え、扉が閉まる鈍い音が、階下まで微かに響いてきた。
嵐は去った。少なくとも、今は。
宿屋の中には、途方もない安堵と、それ以上に深い困惑が渦巻いていた。人々は、顔を見合わせ、言葉もなく囁き合う。
「……行ったのか?」
「ああ…静かになった…」
「一体、何なんだ、あの男は…」
亭主は、まだ呆然と立ち尽くしたまま、ゆっくりと床に視線を落とした。そこには、数枚の銀貨が、暖炉の光を鈍く反射して転がっている。
彼はその銀貨と、しっかりとした足取りで自分の隣に立つ娘の顔を、信じられないものを見るような目つきで、ただ交互に見つめることしかできなかった。




