4.尋問
静寂が泉の広場を支配していた。月光だけが唯一の証人であるかのように、二人の男を冷たく照らし出している。左の瞼を開いたゼノンの瞳は、先程まで空を舞っていた鳥のそれと同じ、底光りするような蒼黒い輝きを宿していた。それは、生き物の持つべき暖かさを一切感じさせない、無機質な硝子玉のようだった。
絶望は、時として思考を奪う。アルガスはもはや逃げようとも、抗おうともしなかった。ただ、その場にへたり込んだまま、自分を狩り終えた捕食者を呆然と見上げるだけだった。全身から力が抜け、指一本動かす気力さえ湧いてこない。
「『嗤う髑髏』は、何処に行った」
静寂を破ったのは、ゼノンの静かな、それでいて地を這うような低い声だった。それは問いかけでありながら、有無を言わせぬ命令の響きを持っていた。
その言葉を聞いた瞬間、アルガスの全身に、先程までとは比較にならないほどの戦慄が走った。嗤う髑髏。その紋章を持つ男を知らない勇者はいない。いや、関わり合いになりたいと思う勇者は、一人もいないだろう。狂気の勇者、イビル・ジ・イーヴル。その名は、恐怖そのものと同義だった。
「な、なんのことだか……さっぱり……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも分かるほど情けなく震えていた。しらばっくれようとする言葉とは裏腹に、全身が「知っている」と叫んでいる。ゼノンは何も言わない。ただ、その蒼黒い左眼と、感情の読めない右眼で、アルガスをじっと見据えているだけだ。
ゼノンが、一歩、前に進んだ。
そのわずかな動きに、アルガスの心臓が跳ね上がる。彼は後ずさろうとしたが、腰が抜けていてうまく動けない。泥の上をみっともなく這いずるだけだった。
「ひっ…!」
ゼノンが、さらにもう一歩。
言葉による拷問よりも、この無言の接近の方が、遥かにアルガスの精神を蝕んでいった。沈黙が、あらゆる恐怖を内包して膨れ上がっていく。ゼノンの意図が読めず、思考が混乱しパニックに陥りかけた、その時。
アルガスの脳裏に、一つの光明が差した。それは、溺れる者が掴む藁よりもなお、か細く、不確かな希望だった。
情報を求めている。だからこそ、すぐには殺されなかったのだ。嗤う髑髏――イビルの情報を渡せば、見逃されるかもしれない。そうに違いないと、アルガスは必死に己に言い聞かせた。
「わ、わかった!話す!話すから、待ってくれ!!」
必死の形相で叫ぶと、ゼノンの足がぴたりと止まった。その反応を見て、アルガスは自分の推測が正しかったと確信する。
「や、奴なら……見た!」
彼は唾を飲み込み、必死に記憶を手繰り寄せた。
「す、数週間前!北へ向かう街道で!!あんな……あんな気味の悪い紋章、忘れようがねえ!右眼に嗤う髑髏の紋章を刻んだ、若い男だった!」
ゼノンが、わずかに眉を動かす。 その些細な反応を「もっと情報が必要だ」という催促だと誤解し、アルガスは堰を切ったように叫び続けた。
「一人で!北の魔王領に向かうと言っていた!『悪意も恐怖も、僕だけのものにしないと』なんて、わけのわからねえことを……!頼む、俺が知ってるのはこれだけだ!嘘じゃねえ!信じてくれ!!」
彼はまるで命乞いをするように両手を合わせ、必死に訴えかけた。ゼノンは、ただ静かに彼の言葉を聞いていた。何の反応も示さない。その沈黙を、アルガスは都合よく肯定と解釈した。
「……はぁ……」
安堵のため息をつき、アルガスはよろよろと立ち上がった。全身が泥と冷や汗でぐっしょりと濡れている。極度の緊張から解放され、喉が焼けるように渇いていた。
彼は、ゼノンの横をすり抜けるようにして、広場の中央にある泉へとおぼつかない足取りで近づいていく。ゼノンが何もしてこないことが、情報を渡したことで見逃されたという確信を強めた。彼は、震える手で泉の水をすくおうと、その場に膝をついた。その感触が、まだ自分が生きているという何よりの証だ。
そう思った瞬間、背後から伸びてきた無慈悲な手が、彼の後頭部を鷲掴みにし、疑問を発する間もなく、彼の頭は泉の中へと叩き込まれた。
「んぐっ!ぶ、ぶっ!!」
突然の出来事に、アルガスは狂ったように暴れ出した。手足をばたつかせ、必死に水面から顔を上げようとするが、後頭部を押さえつける力は万力のように強く、びくともしない。視界は水の底の暗闇に閉ざされ、肺に残っていた空気は一瞬で泡となって消えていく。ゴボゴボと虚しい音が、水中で木霊した。
冷たい水が鼻と口から容赦なく流れ込み、彼の思考を焼き尽くしていく。額の天秤は、その力を示すこともなく、ただ冷たい水に洗われるだけだった。助かるはずだったという理不尽な怒りさえも、すぐに死の恐怖に塗りつぶされていく。彼はもはや人間ではなく、ただ生きようともがくだけの肉塊だった。だが、その狂乱の動きも、徐々に、徐々に弱まっていく。やがて、痙攣するように一度だけ大きく身体を震わせた後、アルガスの身体から、完全に力が失われた。
ゼノンは、相手の抵抗が完全になくなったことを確認すると、無造作に手を離した。
月光を浴びてきらめいていた美しい泉の真ん中に、勇者だった男の死体が、うつ伏せのままただ静かに歪んだ月と共に浮かんでいた。
あたりには、再び完全な静寂が戻ってきた。ゼノンは死体には一瞥もくれず、背を向ける。
「北か」
その顔に、憐憫も、達成感も、憎悪さえも浮かんでいない。
まるで道端の石を蹴り飛ばしたかのように、彼は何の感慨もなく、再び森の闇へとその姿を消していった。




