3.逃亡
泥と腐葉土の匂いが、肺に流れ込んできた。窓から転がり出たアルガスは、受け身もろくにとれず、雨上がりのぬかるんだ地面を転がった。口の中に土の味が広がる。
「くそっ……!くそったれがァッ!!」
彼は悪態をつきながら、もつれる足で立ち上がる。全身が泥まみれになり、金と権威、そして暴力を笠に仕立てさせた上等な服も、もはや泥に汚れた雑巾と同じだ。だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。背後にある宿屋は、もはや安全な縄張りではなく、地獄の入り口と化していた。
森だ。アルガスの脳裏に唯一の活路が浮かんだ。木々の闇に紛れこめば、あの化け物の追跡を逃れられるかもしれない。そう判断したアルガスは、村の灯りを背に、一目散に森の中へと駆け込んだ。枝が顔を打ち、茨が服を引き裂く。足元はおぼつかず、何度も転びそうになるのを必死でこらえた。
不意に、頭上から嗄れた鳥の鳴き声が降ってきた。闇に溶け込むような不吉な声。それは一度きりではなく、まるで彼の逃走を嘲笑い急かすかのように、執拗に続いた。その声に追い立てられ、アルガスの心臓は恐怖に早鐘を打つ。
「うるさい!黙れ、このクソ鳥が!!」
叫んだ瞬間、ぬかるみに隠れていた木の根に足を取られ、彼はまたも無様に顔から地面に突っ込んだ。
「ぐ、うぅっ……!」
強かに打ち付けた額から、じわりと血が滲む。痛みに呻きながら顔を上げると、泥水の中に自身の歪んだ顔が映っていた。恐怖に引きつり、尊厳などかけらも残っていない、ただの敗残者の顔。
「俺は――俺はアルガス・ザ・バンディットだぞ!女神に選ばれた勇者!なのにッ!!なぜだ、なぜ俺が、理不尽に泥の中を這って逃げなきゃ……!」
誰に聞かせるでもない罵声を吐き捨て、彼は再び立ち上がった。全身が痛み、肺は張り裂けそうだ。それでも、死の恐怖だけが彼を突き動かす。ふらつきながらも、彼は森の奥へ、さらに奥へと逃げ続けた。
そんな彼の姿を、闇に染まった木の枝から、一羽の鳥が冷ややかに見下ろしていた。カラスのようでありながら、その羽根は濡れた夜の色を写し込み、まるで磨かれた蒼黒い鋼のように鈍い光を放っている。機械仕掛けめいた硝子
の瞳は、瞬きもせずに、必死に逃げ惑う男の姿だけを正確に捉えていた。
どれくらい走っただろうか。息は切れ、足は鉛のように重い。もはや一歩も動けないと諦めが心をよぎったその時、鬱蒼とした木々が不意に途切れ、視界が開ける。
そこは、ぽっかりと空いた小さな広場だった。月光がまるで舞台照明のように降り注ぎ、中央には、静謐な水をたたえた泉がきらめいている。まるで世界から切り離されたような、幻想的な光景だった。
追っ手の気配はない。あの不吉な鳥の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「はぁ……はぁ……ここまで来れば、もう……」
アルガスは泉のほとりにへたり込み、荒い息を整えようとした。肩で息をしながら背後を振り返るが、見えるのは風にそよぐ木々の闇だけ。生きているという確かな実感が、安堵が、全身の力を奪っていく。
笑みが漏れそうになった、その時。不意に聞こえた異様な音に、アルガスは弾かれたように顔を上げ――夜空に、巨大な影が差した。
「なっ……!」
信じられない光景が、泥だらけの勇者の眼前に広がっていた。
人影。月を背にして、こちらを見下ろしている。その背中からは、まるで伝説の悪魔のように、禍々しいコウモリのような翼が生えていた。分厚い革を打ち合わせるような鈍い風切り音の聞こえるそれは、生物の筋肉のようなしなやかさと、金属の装甲のような硬質さを併せ持った、異形としか言いようのない翼だった。
人影はその翼をゆっくりとたたみながら、音もなくアルガスと泉を遮るように舞い降りる。濡れた外套、見覚えのある直剣、そして、すべてを凍らせるような絶対的な静寂。
ゼノンだった。
「ひ……あ……」
アルガスの喉から、意味をなさない声が漏れた。空を飛ぶ人影。その事実は、彼の理解を完全に超えていた。勇者の力は女神の祝福であり、その紋章に即した能力のはずだ。雪の結晶と爪痕の紋章から、飛翔という能力はあまりにもかけ離れている。
あの嗄れた鳴き声が、今度はすぐそばで響いた。見ると、いつの間にか彼の近くの枝に止まっていたあの蒼黒い鳥が、ふわりと飛び立ち、ゼノンの方へと向かっていく。アルガスは、その光景から目を離すことができなかった。
鳥はゼノンの肩に止まるのかと思ったが、アルガスの予想は裏切られた。顔の真横で静止すると、その姿が揺らぎ始め、確固たる実体を持っていたはずの身体が、光の粒子へとほどけていく。そして、まるで吸い込まれるかのように、光のすべてが、ゼノンの固く閉ざされた左の眼窩へと収束していった。
完全に光が消え去った後、ゼノンは、ゆっくりと左の瞼を開いた。
無意味な逃走だったと、アルガスはその瞬間に悟った。あの鳥は、彼の目そのものだ。空から自分の無様な逃走劇の一部始終を監視し、嘲笑っていたのだ。その絶望的な事実が、アルガスの思考を完全に麻痺させた。額に浮かぶ歪んだ天秤の紋章が、もはや何の力も持たないただの飾りであるかのように、虚しく震えていた。




