21.我儘
南門へと続く大通りは、三日前に見た混沌が嘘のように落ち着きを取り戻していた。北からの脅威が去り、街の機能が回復しつつある証拠だろう。人々は家屋の修繕に追われ、衛兵たちが瓦礫の撤去作業を指揮している。その喧騒の中を、ゼノンは亡霊のように、ただ黙々と歩き続けていた。
道行く人々が、彼の姿に気づいて足を止める。失われた右腕。ボロボロになった衣服。だが、その英雄的な噂を知る者たちの目には、尊敬と感謝の色が浮かんでいた。ひそひそと交わされる賞賛の声が、ゼノンの耳にも届く。だが、彼はその全てを無視した。英雄ではない。敗北者だ。その言葉が、心の中で何度も反芻される。
その時だった。
背後から、パタパタと慌ただしい足音が近づいてくる。
振り返るまでもない。あの施療院からずっとついてきていた気配。律儀で、頑固な、あの僧侶。
やがて、その足音がすぐ隣で止まった。
「……はぁ……はぁ……」
息を切らしながら、ルインがゼノンの隣に並ぶ。その手には、小さな布の包みが握られていた。彼女はしばらく肩で息を整えていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……どこへ、行かれるのですか」
ゼノンは答えなかった。ただ、足を止めずに歩き続ける。その沈黙は、雄弁な拒絶だった。関わるな、と。
だが、今のルインは、それで引き下がるほど弱くはなかった。
「……私を、連れて行ってください」
凛とした声だった。ゼノンは、思わず足を止めて彼女を見た。
その灰色の瞳は、まっすぐに彼を見つめ返していた。そこにはもう、怯えや戸惑いの色はなかった。あるのは、揺るぎない決意だけだ。
「断る」
ゼノンの返事は、短く、冷たい。
彼は再び歩き出そうとするが、ルインは彼の前に回り込み、その行く手を塞いだ。
「どうしてですか! あなたの体は……あなたの傷は、まだ完全に癒えてはいません! 右腕も……それに、道中、何があるか……!」
「お前には関係ない」
「関係なくありません!」
ルインの声が、わずかに大きくなる。
「あなたはこの街を救うために戦い、そして傷ついた! 私は、教団に属する者として、治療者として、あなたを見捨てることはできません!」
「知ったことか」
「それでも!」
ルインは一歩も引かなかった。彼女は、ゼノンが吐き捨てるように言った言葉を、真正面から受け止める。
「それでも、あなたがどうでもいいと言ったこの街のために、あなたは戦ってくれたのです! その事実から、私は目を逸らすことはできません!」
その言葉に、ゼノンの眉が微かに動いた。
この娘は、自分の言葉を信じていない。否、信じようとしない。自分が発する拒絶の言葉の裏側に、何か別のものを見出そうとしている。それは、ゼノンにとって、ひどく煩わしいことだった。
彼は苛立ちを隠しもせず、氷のような声で言い放つ。
「英雄ごっこは終わった。……足手まといだ」
「……っ」
その言葉は、刃のようにルインの胸を突いた。彼女は一瞬、言葉に詰まり、その瞳を悲しげに揺らがせた。だが、それでも彼女は下を向かなかった。
彼女は、ぎゅっと唇を噛み締めると、顔を上げる。
「それでも、です」
か細く、しかし、決して折れることのない声だった。
「あなたの傷を癒すことができます。少しでも、あなたの旅の助けになれるはずです。ですから、どうか……!」
彼女の瞳の奥には、それだけではない、もっと個人的で、切実な光が宿っている。それは、ゼノンが疾うの昔に失ってしまったはずの、純粋なまでの誰かを慮る光だった。
「――っ」
その頑ななまでの眼差しに、ゼノンの脳裏に、不意にある記憶が過った。
ずっと昔。まだ彼が「ジ・アイスストーム」と呼ばれる勇者として、人々のために戦っていた頃。無茶な戦い方をして怪我を負った彼を、心配そうに、そして少しだけ怒ったように見つめていた、少女の姿。
今、目の前にいるルインの姿が、その失われた面影と、ほんの一瞬だけ重なった。
その瞬間、ゼノンの心の奥深く、憎悪と復讐心で凍てついたはずの何かが、微かに軋む。
その微かな感傷は、次の瞬間により昏く、冷たい怒りによって塗りつぶされた。
その弱さが、あの男への恐怖を育て、この刃を起動させなかったのではないのか。
温もりを求める心が、お前を敗北者へと貶めたのではないのか。
ゼノンの瞳に一瞬よぎった人間らしい光が凍てつき、奥底へ沈んでいく。
「……必要、ない」
ゼノンは、一言だけ吐き捨てると、今度こそルインの横を通り抜け、南門へと歩き始めた。
もう、振り返らない。これ以上の問答は時間の無駄だ。
やがて、巨大な南門が見えてきた。
あの時とは違い、門は大きく開かれ、人々の往来が活発に行われていた。その光景に一瞥もくれず、ゼノンが門を潜ろうとした、その時。
「……これは、私自身の……わがまま、なんです」
背後から聞こえてきたのは、かき消えそうなほど小さな、独白にも似た声だった。
ゼノンの足が再び止まる。
ルインは、俯き、握りしめた布の包みを見つめながら呟いた。
「教団の教えでも、治療者としての使命でもありません。ただ……ただ私が、あなたに生きていて欲しいんです」
「あなたが、何を背負って、何を憎んで、どこへ向かおうとしているのか、私には分かりません。でも、あなたの瞳の奥にあるのが、ただの憎しみだけじゃないことだけは……分かります。だから、見過ごせない。あなたの行く末を、ただここで待っているなんて、私にはできない……!」
「あなたが拒絶しても、足手まといだと言われても、私はついていきます。それが、私の……わがままです。だから……」
彼女は顔を上げた。その瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいたが、その奥にある光は、これまでで一番、強く輝いていた。
「……だから、気にしないで、ください」
ゼノンは、何も言わなかった。
もう一度だけ、短く息を吐き出すと、今度こそ迷いのない足取りで門の外へと歩き出した。
乾いた荒野の風が、彼の外套を揺らす。
彼の背後を、少しだけ間を空けて、小さな影が続く。
その手に握られた包みの中には、わずかながらも、干し肉と焼き立てのパンが入っている。
言葉はない。
了承も、拒絶も、何もないまま。髑髏に背を向け、南を目指して歩き出す二つの影。
復讐に全てを捧げた男と、その男を救いたいと願う少女。
静かに、『ふたりの旅』が幕を開けた。




