20.屈辱
荒々しい手つきで広げられた手紙。その上質な羊皮紙の上には、流麗な筆跡で、たった一言だけが記されていた。
――魔王城で待つ。
それだけだった。
送り主の名も、時候の挨拶も、何もない。ただ、次なる舞台を指定する、一方的な通告。
その一文を目にした瞬間、ゼノンの全身を、新たな怒りの波が駆け巡った。
魔王城。
人族の領域の、遥か北。魔王軍の本拠地。生きて辿り着くことすら困難な、まさしく世界の果て。
ゼノンが自分を追いかけてくることを、あの男は微塵も疑っていない。否、追いかけてくるように仕向けているのだ。
全ては、あの男の掌の上。
その事実が、ゼノンの最後の理性の鎖を、音を立てて引き千切る。
手の中の手紙が、ぐしゃり、と音を立てて握り潰された。指の間に食い込む紙の感触も、今のゼノンには感じられない。ただ、この手紙の送り主に対する、純粋な殺意だけが彼の全てを支配していた。
「……あの」
ルインが、不安げな声で彼を見上げる。その灰色の瞳には、目の前の男に対する純粋な心配と、彼が放つあまりに禍々しい気配への、隠しきれない恐れが入り混じっていた。
ゼノンは、そんな彼女の存在などまるで意に介していない。
彼は枕元の短剣を掴み、ベッドから立ち上がった。三日間の昏睡状態にあったとは思えない、力強い足取りだった。全身を苛む痛みも、右腕を失った不自由さも、今の彼にとっては些細なことに過ぎない。
その足は、まっすぐに部屋の隅に置かれた椅子へと向かう。そこには、彼が着ていた外套と、戦闘用の衣服が丁寧に畳まれて置かれていた。血と泥に汚れていたはずのそれは、綺麗に洗濯され、破れた箇所は素人目にも分かるが、懸命に繕ったであろう痕跡が残っている。おそらく、ルインが手ずから施したものだろう。
ゼノンは、そんな気遣いも気に留めなかった。彼は無言で寝間着を脱ぎ捨てると、手早く自分の服に着替え始める。その一連の動作に、一切の躊躇いはない。
その姿は、あまりにも性急で、痛々しいほどだった。まだ傷も癒えていないというのに、彼は再び戦場へと戻ろうとしている。
「お待ちください!」
たまらず、ルインが声を上げた。
彼女は、ゼノンが広場で見せた冷たい態度や、先程までの威圧的な言動も忘れ、ただ一人の治療者として、そして、一人の人間として、彼の前に立ちはだかった。
「まだだめです! あなたの体は、まだ戦える状態ではありません! どうか、どうかもう少しだけでも……!」
その声は、懇願だった。教団の教えも、英雄への憧れも関係ない。ただ、目の前の人間が、無謀な死へと向かうのを止めたい。その一心からの叫び。
それは、バルドの広場で、彼が北門へ向かおうとした時と、全く同じ光景だった。
だが、ゼノンの答えもまた、あの時と同じだった。
彼は短剣を外套の内ポケットに無造作にねじ込むと、ルインの制止などまるで存在しないかのようにその横をすり抜け、扉へと向かおうとする。
その冷たく、無慈悲な態度。
しかし、今のルインは、あの時のように呆然と立ち尽くすだけではなかった。彼女は、ゼノンが自分に背を向けたその瞬間、咄嗟に彼の左腕を掴んでいた。
「行かせません……!」
彼女の声は、震えていた。だが、そこには、決して引かないという強い意志が込められている。ゼノンの腕を掴む彼女の指先は、小柄な体躯に似合わず、驚くほどに力強い。
「どうして……どうして、そこまでご自分を追い詰めるのですか!? あなたはこの街を救った英雄なのです! 少しは、ご自身のことを……!」
「英雄だと?」
ゼノンの足が、ぴたりと止まった。
彼は、掴まれた腕を振りほどきもしないまま、ゆっくりと振り返る。その顔には相変わらず何の感情も浮かんでいなかったが、その瞳の奥には、ルインが信じる全てを嘲笑うかのような底知れない昏い光が宿っていた。
「黙れ」
その声は、絶対零度の氷のように冷たかった。
「言った筈だ。お前たちがどうなろうと、知ったことではない」
「……っ」
突き放した言葉に、ルインの瞳が揺れる。彼女が抱き始めていた淡い希望や尊敬の念を打ち崩すように。
それでも、彼女は手を離さなかった。
「……嘘です」
絞り出すような声だった。
「嘘です……! もし本当にそう思っていたのなら、あなたは戦わなかったはずです。あんなにボロボロになるまで、魔物と戦ったりはしなかったはずです!」
ルインは、ゼノンの背中に向かって必死に訴えかけた。彼女の中で、目の前の男の姿は、冷酷な復讐者と、名もなき英雄の姿とが、矛盾したまま重なり合っていた。
「あなたが本当は何を目的としているのか、私には分かりません!あなたが、なぜあれほどまでに苦しんでいらっしゃるのかも、分かりませんっ!ですが、一つだけ確かなことがあります!あなたの戦いが、結果としてこの街を救ったのです!あなたは、紛れもなく、私たちの英雄なのです!」
それは、彼女が心の底から信じている真実だった。教団の教えとは少し違う、もっと個人的で、切実な思い。
しかし、彼女の必死の言葉に対し、ゼノンから返ってきたのは、凍てついた沈黙だった。
彼にとって、この街の人々の命も、この娘の想いも、全てはどうでもいいことだった。彼の世界には、ただ一人、イビルという男を殺すという目的だけが存在し、それ以外の全ては、価値のない背景に過ぎない。
これ以上会話を続けるのは無意味だと判断して、ゼノンは掴まれた左腕を容赦なく振り払う。
たたらを踏んで数歩後ずさったルインを見やる事なく、部屋の扉へと一直線に向かった。
古い木製の扉が、軋んだ音を立てて開かれる。
差し込んできた陽光が、ゼノンの無表情な横顔を照らし出した。その顔には、敗北の影と拭いきれない疲労が深く刻まれていたが、彼はそのまま歩き去っていく。
「待って……!」
背後から、ルインの悲痛な声が聞こえた。それでもゼノンは振り返らなかった。
魔王城。
北の果て。
だが、今の自分では、奴には届かない。武器もない。この腕も、もはや使い物にならない。何より、奴が指摘した通り。
『恐怖』がまだ、残っていると言うのであれば。
ならば、まず為すべきことは。
己を変えた者たち。ゼノンにこの力を与え、最後の希望を託した者たち。
タオと、ソウル。あの二人の元へ。
そのために彼は、イビルが向かった北ではなく、南を目指すことを決めていた。
施療院の外に出ると、バルドの街は、まだあの日の傷跡を生々しく残していた。崩れた建物、ひび割れた石畳。それでも、人々は必死に復興作業にあたり、街には僅かながらも活気が戻りつつあった。
ゼノンの姿を認めた市民の何人かが、「英雄様だ」と囁き合い、遠巻きに感謝と尊敬の視線を向けてくる。だがそれも、今の彼には届かない。
彼は誰に声をかけるでもなく、黙々と南門へと向かって歩き始めた。
屈辱を噛み締めながら、ただ南門だけを目指して。
イビルはきっと、それすらも見越した上で、自分をここに運んだのだろう。
どこまでも、どこまでも、奴の掌の上。
その思考が彼の足取りをさらに重くした。
それでも進むしかない。
この屈辱を晴らすその時までは。
死ぬことさえ、許されないのだから。




