18.覚醒
深い、昏い闇の底。
意識は溶け落ち、感覚は遠のき、ただ一つの感情だけが魂の残滓のように漂っていた。屈辱。燃え盛る憎悪の炎ごと、冷たい水底に叩きつけられたかのような、絶対的な敗北感。
『待ってるよ、ゼノン』
最後に聞いた声が、闇の中で木霊する。それは悪魔の囁き。生かされたのではない、飼われたのだ。より上質な糧となるために。その事実が、途切れかけた意識に再び毒のように染み渡り、沈みゆく魂を無理やり現実に引きずり上げていく。
開かれた目に最初に映ったのは、見慣れない木目の天井だった。風化した石や崩れた城壁ではない。埃っぽさも、血の臭いも、死の気配もない。代わりに、鼻腔をくすぐるのは、微かな薬草の香りと、清潔なシーツの匂い。
――どこだ、ここは。
混乱する思考の中、戦闘の本能が先に動いた。
イビルはどこだ。敵は。武器は。
反射的に左腕を動かし、腰の辺りを探る。だが、指先に触れたのは、硬い革のベルトでも、冷たい剣の柄でもなく、肌触りの良い、着慣れない寝間着の布地だけだった。
その事実に、ゼノンの全身に緊張が走る。
武器がない。そして、自分は寝間着に着替えさせられている。それは、己が完全に無防備な状態で、誰かの手の内にあったことを意味していた。
敵意と殺意を剥き出しにして、ゼノンは周囲を睨みつけた。
刹那、眠っていた全身の痛みが、一斉に牙を剥いた。身を起こそうとしたゼノンに、全身を襲う鉛のような倦怠感と、骨が軋むような激痛が襲いかかる。無理やり体を動かしたせいで、視界がぐらりと揺れた。
「ぐ、ぁ……」
視界の端に、人の気配を捉える。見据えた先にいたのは、憎むべき宿敵ではなかった。
ベッドの脇に置かれた椅子に座っていたのは、一人の少女。
血と泥で汚れていた白い僧衣は、今は清潔なものに着替えられている。銀色の髪は、きちんと後ろで一つに結われていた。膝の上で固く組まれた両手。閉じた瞼は、心労からか微かに震えている。
バルドの広場で会った、駆け出しの僧侶。ルイン・フェルシオン。
彼女は、ゼノンが身動ぎした気配に気づいたのだろう。はっと顔を上げ、その灰色の瞳が、驚きに見開かれた。
「あ……!お目覚めに、なられたのですね……!」
その声には、焦りと、それを上回る純粋な安堵の色が滲んでいた。彼女は慌てて椅子から立ち上がろうとして、もつれた足が椅子の脚に当たり、小さな音を立てた。
だが、ゼノンは彼女の言葉に答えなかった。彼の視線は、ルインを通り越し、その背後にある窓や扉へと向けられている。ここはどこで、出口はどこにあるのか。彼女は敵か、味方か。あるいは、ただの無関係な第三者か。あらゆる可能性を瞬時に査定し、最悪の事態に備える。その瞳は、傷ついた獣のように、警戒心で鋭く光っていた。
そんなゼノンの様子に、ルインは何かを察したようだった。彼女は一度、深く息を吸い込むと、落ち着きを取り戻し、ゆっくりとした、それでいて芯の通った声で言った。
「ご安心ください。ここは、バルドの南地区にある、教団の施療院です。あなたに危害を加える者は、ここにはおりません」
施療院。その言葉に、ゼノンの眉が微かに動いた。
だが、そんなことよりも、今は確かめなければならないことがある。ゼノンはルインの言葉を無視し、痛む体を無理やり起こした。そして、自らの右腕に視線を落とす。
肘から先が、なかった。
嗤う髑髏が握り潰した断面からは、赤い血ではなく、虹色に光る油が微かに滲み出ているだけだった。覗き見える内部構造は、肉や骨ではない。複雑に絡み合った導線、寸断された動力パイプ、そして、金属製の骨格の一部。
砕かれた籠手の破片が、まだいくつかの箇所に食い込んだままになっている。それは、まるで壊れた機械の残骸だった。
包帯の一つも巻かれていないその悍ましい光景は、あの戦いが、あの敗北が、決して夢ではなかったという、動かぬ証拠だった。
「その、腕は……」
ルインが、戸惑いがちに口を開いた。彼女の灰色の瞳が、ゼノンの右腕に向けられている。
彼女がゼノンの手当てをしたのだろう。寝間着に着替えさせられ、全身の打撲や裂傷には、丁寧に薬草を染み込ませた湿布が当てられていた。だが、この右腕だけは、彼女の知識ではどうすることもできなかったのだ。
血の流れない傷。人間のものとは思えない断面。教団の教えでは、人の体に機械を埋め込むような行為は、女神の創造物たる肉体を汚す冒涜とされている。彼女の常識では、目の前の光景は到底受け入れがたいもののはずだった。その表情には、戸惑いと、ほんのわずかな恐怖の色さえ浮かんでいる。
それでも彼女は、ゼノンを異端者として断罪するのではなく、ただの「負傷者」として扱おうとしていた。
ゼノンは彼女の疑問にも、その視線にも、一切の興味を示さなかった。
彼の意識は、完全に別の場所にあった。
視線を、枕元へと移す。そこに、見慣れた物が置かれていた。
ガラス細工のような、刃のない短剣。
最後の希望。起動すらしなかった、屈辱の象徴。
それを見た瞬間、イビルの声が再び脳裏に響いた。
『足りないんだってさ、まだ。君の憎しみじゃ』
『君の中にはね、まだ残ってるんだよ。僕を殺すには、邪魔なものが』
『恐怖だよ。僕に対する、恐怖がね』
心の奥底で、飼い慣らしたはずの獣が再び牙を剥く。恐怖ではない。
これは、屈辱だ。
奴に生かされたという、死よりも耐え難い屈辱だ。
ゼノンの全身から、再び殺意にも似た昏い闘気が立ち上り始める。部屋の温度が、数度下がったかのような錯覚。
「あの……」
ルインが、おそるおそる声をかける。彼女の視線は、ゼノンが見つめる短剣と、彼の剥き出しになった右腕の間を行き来していた。
「お加減は、いかがですか……? あなたは、三日もの間、目を覚まさなかったので……」
三日。
自分は、三日間も意識を失っていたのか。
その事実は、ゼノンの焦燥感を煽った。三日もあれば、あの男はどこへでも行ける。痕跡すら、もはや残ってはいないかもしれない。
奥歯が軋む音が、静かな部屋に響いた。
無言で身を起こそうとするゼノンを見たルインは慌てて駆け寄ろうとして、睨みつけられて動きを止めた。
「だ、だめです! あなたはまだ、安静にしていなければ……!」
その制止の声さえも、今のゼノンには耳障りな雑音でしかない。
彼は残された左腕一本で、ゆっくりと上体を起こした。体のあちこちが悲鳴を上げたが、そんな痛みは、心に刻まれた屈辱に比べれば物の数ではなかった。
傷ついた獣のような気迫に押されたのか、ルインはそれ以上近づくことができず、ただ心配そうに彼を見守るしかできなかった。




