17.敗北
イビルの言葉は、鋭利な刃となってゼノンの心を抉り続けた。恐怖。不純物。見通しの甘さ。その一つ一つが、彼が積み上げてきた復讐への覚悟を、まるで砂の城のように崩していく。
だが、その心に開いた傷口から流れ出したのは、絶望の涙ではなかった。
握りしめた短剣の、内部で煌めく欠けた雪の結晶。彼女の最後の笑顔。業火に焼かれる故郷の風景。その全てが、再びゼノンの魂に火をつけた。
恐怖だと?
不純物だと?
違う。断じて違う。
ゼノンの内なる炎が、再び燃え盛る。それは純粋な憎悪ではなかったのかもしれない。恐怖に、後悔に、失われたものへの愛惜に、あらゆる感情が濁流のように渦巻いている。だが、その全ての奔流が向かう先は、ただ一つ。
眼前の男の、死。
それが、不純だというのなら――。
「――上等だ」
地の底から響くような声が、ゼノンの唇から漏れた。彼は顔を上げる。その瞳に宿っていたのは、もはや狂気とも呼べるほどの、凄絶な光だった。
「俺の全てを以て、貴様を殺す!」
絶叫と共に、ゼノンは最後の一歩を踏み出した。起動しないのならば、それでいい。この短剣がただの塊だというのなら、それで殴り殺すまで。
残された左腕に全霊を込め、握りしめた短剣を棍のように振りかぶる。狙いはイビルの顔面。たとえ相打ちになろうとも、この男の顔に一太刀でも――否、一撃でも叩き込む。その一念だけが、彼の最後の行動原理だった。
その捨て身の一撃を、しかしイビルは避けなかった。
彼はただ、静かにそこに立っていた。そして、ゼノンの最後の抵抗を、まるで慈しむかのように、穏やかな瞳で見つめている。
ゼノンの拳が、イビルの顔面に届く、寸前。
「やっぱり君は最高だ、ゼノン」
優しい声。
次の瞬間、視界が反転した。
凄まじい衝撃が全身を襲い、ゼノンの体は木の葉のように吹き飛ばされる。何が起きたのか理解するよりも早く、背中が瓦礫の山に叩きつけられ、肺から全ての空気が絞り出された。
ただ、イビルの放った無造作な拳。それだけが、ゼノンの最後の抵抗を、いとも容易く粉砕したのだ。
視界が明滅し、耳鳴りが思考を掻き乱す。もはや指一本動かすこともできず、ただ仰向けに倒れたまま、夕闇に染まっていく空をぼんやりと見上げることしかできない。
左手から、短剣が滑り落ちる。カラン、と乾いた音を立てて、欠けた雪の結晶は地面に転がった。
ゆっくりとした足音が近づいてくる。
イビルが、地に伏したゼノンの顔を覗き込んできた。その顔には、満足げな、それでいてどこか名残惜しそうな、複雑な笑みが浮かんでいた。
「素晴らしい憎しみだったよ。うん、最高だった。恐怖に負けず、絶望もせず、最後まで僕を殺そうとした。本当に、君は僕が今まで出会った誰よりも、素晴らしい」
その声は、心からの賞賛に聞こえた。だが、それは敗者であるゼノンにとって、最大の屈辱でしかなかった。
「だから……殺さないであげる」
耳元で、悪魔が囁いた。
「君を生かしておけば、君の憎しみはもっともっと大きくなる。僕への恐怖を乗り越えて、もっと純粋で、もっと強くて、もっと美しい憎しみへと成長するだろう。それはね、きっと僕を今よりもずっと強くしてくれるんだ」
生きろ、とイビルは言った。
それは、慈悲ではない。再戦の機会を与えるという温情でもない。
「だから、もっと強くなって。そして、また僕の前に現れてほしいな。次に会う時まで、もっともっと、僕を憎んでおいてよ」
ただ、自分の糧として、より美味しくなるために熟成を待つという、家畜を見る目だった。
それは、再会を約束する恋人のような、優しい響きを持っていた。
「……き、さま……」
喉から絞り出した声は、血の泡と共に消えた。怒りが、憎しみが、屈辱が、再び彼の内側で荒れ狂う。立ち上がりたい。この男を、今すぐ、この手で八つ裂きにしたい。
だが、彼の体はもう、その燃え盛る魂の器としての役割を果たせなくなっていた。
「待ってるよ、ゼノン」
屈辱以外の何ものでもない。
ゼノンの喉の奥で、最後の怒りが滾った。だが、その激情が体を動かす前に、彼の意識は途切れ、深い闇の中へと沈んでいく。
傷ついた雪晶の上で、髑髏が満足げに嗤っていた。




