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祝福に刻む爪痕  作者: 七曲七竈
滔天邪悪
15/21

15.執念

「まだやるんだ? うん、そうでなくっちゃね」


 イビルの楽しげな声が、ゼノンの逆鱗に触れた。彼は咆哮の代わりに床を蹴り、一直線にイビルへと肉薄する。剣戟の応酬とはまるで違う、質量と破壊力に任せた突進。籠手を装着した拳は、それ自体が一つの攻城兵器に等しい。

 振りかぶられた右の拳が、空気を引き裂く轟音と共にイビルの顔面を狙う。だが、それは先程までの剣閃と同じく、寸でのところで見切られた。イビルはわずかに上体を反らし、拳が自身の鼻先を通り過ぎるのを、まるでスローモーションの映像でも見るかのように冷静に見つめている。

 空を切った拳は、背後の城壁に叩きつけられた。轟音と共に壁が砕け散り、石の破片が嵐のように舞う。ゼノンが即座に左拳を同じ場所に叩き込もうとする、その直前。


「おっと」


 気軽な声。ゼノンの全力の拳は、羽虫でも叩くようにイビルにあっさりと払われた。

 空振る拳に見向きもせず、何でもないことのようにイビルが言う。


「惜しかったね。でもその力を使うには、両方の拳をどこかにほぼ同時に打ち付けないといけないんだろう?」

 

 ゼノンの動きが、ほんの一瞬だけ硬直した。

 だが、イビルはそんなゼノンの内心の動揺を見透かしたかのように、くすくすと嗤った。


「なんで知ってるのかって顔をしてるね。簡単だよ。君のその瞳、その拳、その殺意の全部が、僕に教えてくれるからさ。『今からこの力を使うぞ』『これで押し潰してやるぞ』って」


 イビルは人差し指を立て、自分の右眼に浮かぶ嗤う髑髏を軽く指し示した。


「僕の祝福はね、僕に向けられる悪意や恐怖を受けて、力に変えるんだ。君の怒りで、憎しみで。僕はどんどん強くなる。君の――君達の怒りと憎しみが、僕にとっての武器であり、鎧なのさ」


 絶望的な言葉だった。復讐のためだけに生き永らえてきたゼノンにとって、その原動力そのものが、相手を利するという事実。それは、自らの存在意義を根底から否定されるに等しい。

 だが。


「それがどうした……!」


 ゼノンの口から漏れたのは、絶望の声ではなかった。低く、地を這うような、変わらぬ殺意を宿した声。

 殺意が相手を強くするというのなら、その強化の限界を超えて、上から叩き潰すまで。憎しみが動きを読ませるというのなら、その予測のさらに先を行くまで。


「そうこなくっちゃ!」


 イビルの笑みが、一層深くなった。ゼノンの折れない心に心からの賛辞を送るかのように。

 

「せー、のっ」

 

 気の抜ける掛け声。それとは裏腹の、神速の拳。

 ゼノンが反応するよりも早く、イビルの拳が、がら空きになった彼の腹部へと吸い込まれていく寸前。


彼の眼前に、何もない空間から突如として身の丈を優に超える巨大な大盾が出現した。鋼鉄の表面には魔術的な紋様が走り、青白い光の膜が全体を覆っている。並の勇者の全力攻撃すら、傷一つ負わせることはできないであろう絶対的な盾。

 だが、その盾にイビルの拳が触れた次の瞬間には、大盾そのものが型を留めず、無数の金属片となって爆散した。魔法障壁は紙のように引き裂かれ、鍛え上げられた鋼鉄は粘土のように歪んで。

 衝撃を殺しきれず、盾の破片と共にゼノンの体は吹き飛ばされた。背中から古びた城壁に叩きつけられ、凄まじい衝撃に石壁が砕け、飛び散る。


「へえ、面白いね。それ」


 明滅する視界の奥から、のんびりとした声が聞こえる。イビルはゆっくりと歩み寄りながら、興味深そうにゼノンを見ていた。


「空間収納系の魔導具、かな。面白い。本当に、君は僕を飽きさせてくれない」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、瓦礫の山が内側から爆ぜた。

 血と埃にまみれたゼノンが、獣の咆哮を上げて飛び出してくる。その顔には、先程よりもさらに深い憎悪と、決して折れることのない闘志が刻みつけられていた。口の端からは血が滴り落ちている。満身創痍。誰が見ても、限界は近い。

 それでも、彼は止まらない。

 

「おおおおおおおっ!」


 右の拳を、渾身の力を込めて振りかぶる。例えこの一撃で相打ちになろうとも、この男の顔面に一撃を叩き込む。その執念だけが、彼の体を突き動かしていた。

 だが、その決死の一撃も、イビルの前ではあまりにも無力。


「だけど――おしまい」


 冷たい宣告と共に、ゼノンの腕はまるで子供の手を掴むかのように受け止められ、嫌な音が響いた。掴まれた腕が、籠手ごとイビルの手の中で握り潰されていく、悍ましい音が。

 怯まずに振り抜いたゼノンの蹴りがイビルの脇腹に突き刺さっても、彼は眉の一つも動かさなかった。


「いったいな、もう」


 分厚い魔導装甲がまるで粘土細工のように歪み、ひび割れ、砕けていく。

 だが、骨が砕け、肉が千切れていく激痛を感じているはずのゼノンは顔色一つ変えない。ただ、己の攻撃手段が喪われていくことへの、冷たい怒りだけがその瞳に宿っている。

 握り潰された彼の腕の断面から、赫い血の代わりに零れ落ちたのは――。


 虹色に光る油。

 大きさの違ういくつもの歯車。

 細かく砕かれた金属片と、引き千切られた導線。


 その光景に、さすがのイビルも、ほんのわずかに目を見開いた。


「……へえ。そういうことだったんだ」


 彼は納得したように呟くと、もはや原型を留めていないゼノンの右腕を見つめ直す。油が手を汚す事も厭わずに。

 よく出来た劇を褒め称えるように。彼は心の底から、ゼノンを褒めていた。


「すごいじゃないか、ゼノン。僕への憎しみだけで、人間であることさえ捨てちゃったんだ?ねぇ、どこまで捨てたの?右腕だけ?四肢全部?さっき血を吐いてたし、内臓はまだ人間かな」


 その瞳に宿っていたのは、新しい玩具を見つけた子供のような。無邪気で残酷な好奇心。


「それにしても。あの村で死にかけていた君を、誰かが拾って、こんな風に改造したってわけか。この感じ、見覚えはあるんだけど……タオかな? それともソウル? あはは、君も変な大人に捕まっちゃったんだ、ね!」


 その言葉と同時に、イビルの蹴りが、がら空きになったゼノンの腹部に突き刺さった。

 今度は、盾はない。衝撃を和らげるものも、何もない。

 くぐもった呻きと共に、ゼノンの体が宙を舞い、瓦礫の山の中へと叩きつけられるように転がっていった。

 全身を打ちつけ、右腕は完全に破壊され、満身創痍。

 

 だけど。


 立ち上がることすら苦痛。視界が霞み、意識が遠のいていく。


 それでも。


 朦朧とする意識の中、ゼノンは魂すらも憎悪に焚べてその身を動かした。

 残された左手を、ゆっくりと外套の内側へと差し込む。指先が、硬く冷たい何かに触れた。

 それは、ガラスのような質感を持つ、刃無き短剣。


『これは最後の手段だ。覚悟だけじゃ起動すらできねえ。必要なのは何もかも焼き払うぐらいの……怒りと、憎しみだ』


 外道の言葉が、恩人の声が、脳裏に木霊する。

 怒りなら、ある。憎しみだけが、残っている。

 ゼノンは、薄れゆく意識を繋ぎ止め、ゆっくりと起き上がった。

 かつて繋いだ手の感触も、穏やかな声も、共に過ごした暖かさも。全てを置き去りにして、何も感じなくなった拳の中で。

 欠けた雪の結晶が埋め込まれた最後の希望が、夕陽に微かに煌めいていた。

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