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祝福に刻む爪痕  作者: 七曲七竈
滔天邪悪
14/21

14.圧倒

 咆哮すら置き去りにして、ゼノンの体が弾かれた。石畳を砕かんばかりに踏み込み、最短距離を一直線に駆ける。その手には抜き放たれた直剣。鞘走りの音も、空気を切り裂く音も、彼自身の耳には届いていなかった。眼前の男の心臓を貫く、ただその一点のみを目指して。

 それは、復讐という名の祈りの具現だった。彼の全てを懸けた、最初にして最後の一撃。

 だが、その刃がイビルの胸を捉える、刹那。


「やあ、待ってたよ」


 ふわり、と。まるで最初からそこに実体がなかったかのように、イビルの体が半歩だけ横にずれた。ゼノンの渾身の突きは、夕陽に染まる空虚な空間を貫くだけに終わる。勢いを殺しきれず数歩たたらを踏んだゼノンが振り返ると、そこには先程と何一つ変わらない、穏やかな笑みを浮かべたイビルが立っていた。


「久しぶりだね、ゼノン。元気そうで何よりだよ」


 その声は、旧友との再会を喜ぶかのように、どこまでも自然で、温かみすら感じさせる響きを持っていた。だが、その言葉がゼノンの耳に届いた瞬間、彼の憎悪は沸点を超え、再び純粋な殺意の塊となって爆発した。

 返答はない。ゼノンは言葉を発することなく、即座に体を反転させ、横薙ぎに剣を振るった。首を刈り飛ばすための一撃。それは再び、空を切る。イビルは柳に風と受け流すが如く、わずかに身をかがめて刃をやり過ごした。


「そんなに怒らないでよ。せっかくの再会なんだからさ、もう少し話でも――」


 イビルの言葉を遮り、ゼノンの斬撃が三度、四度と襲いかかる。袈裟斬り、逆袈裟、突き。鍛え上げられた剣技の粋を集めた連撃は、もはや一つの銀色の嵐となってイビルの全身に降り注いだ。常人であれば、その一太刀を避けることすら叶わず肉塊と化すだろう。たとえ熟練の勇者であっても、この嵐を防ぎ切ることは不可能に近かった。

 だが、イビルは違う。

 彼はまるで、未来でも見ているかのように、ゼノンの全ての攻撃を最小限の動きで見切り続けていた。剣先が服を掠めることすらない。それは舞踏だった。死の間際で踊られる、優雅で、残酷な円舞曲。ゼノンが必死に振るう剣は、その舞の単なる小道具に過ぎなかった。


「すごい殺意だね。うん、それでこそだよ。僕がわざわざここまで足を運んだ甲斐があった」


 イビルは楽しそうに、心底嬉しそうにそう言った。彼の右眼、嗤う髑髏の紋章が、夕陽を受けて不気味にきらめいている。その言葉と表情は、ゼノンにとって何よりも耐え難い侮辱だった。自分のこの燃えるような憎悪が、この身を灼く復讐心が、彼の娯楽でしかないという事実。その事実が、ゼノンの理性の最後の箍を粉々に打ち砕いた。


「――――!!」


 獣の咆哮が、ようやくゼノンの喉から迸った。

 もはや剣技の型などかなぐり捨て、ただ破壊のためだけに剣を振るう。城壁に叩きつけ、石畳を抉り、イビルが立っていた空間そのものを切り刻むかのような、暴威の連撃。その一撃一撃は凄まじい威力を持ち、城壁の一部を砕き、分厚い石畳を粉々にしていく。

 それでも、当たらない。イビルは紙一重で全ての攻撃を避け続け、その顔からは楽しげな笑みが消えることはなかった。


「そう、それだよ!もっと怒って、もっと憎んで!君のその瞳、いいねえ。あの時と同じだ。僕に全てを奪われて、絶望の淵で僕だけを見つめていた、あの時の綺麗な瞳だ」


「黙れ……!」


 ゼノンは言葉を斬り捨てるように、さらに踏み込んだ。剣の速度が、重さが、一段と増す。突き、薙ぎ払い、叩き斬る。その全てが急所を狙った致命の一撃。だが、その全てが、まるで幻影を相手にしているかのように、イビルの体をすり抜けていく。

 イビルは、ただ避けているだけだった。反撃の素振りすら見せない。彼は、ゼノンが振りまく純粋な殺意の嵐を、全身で浴びることを愉しんでいるのだ。その余裕が、ゼノンの怒りの炎にさらに油を注いでいく。


「でも、あれ? どうしたの、ゼノン。君の十八番はそれじゃなかったはずだろう?」


 そうして、愉しげに銀の暴風をすり抜けて。

 小首を傾げながら、邪悪は心底不思議そうに問いかけた。


「君が貰った名前は『ジ・アイスストーム』だったろう?その名に相応しい、絶対零度の吹雪。僕が焼いた村を凍らせようとした君の魔法。あれ、綺麗だったよね」


 ゼノン・ジ・アイスストーム。


 かつて、彼がそう呼ばれていた頃の記憶。女神の祝福たる雪の結晶の紋章を輝かせ、絶対零度の吹雪を操って、魔物から人々を守っていた。それが彼の正義であり、誇りだった。

 あの夜までは。


「ねえ、あれを見せてよ。君と僕が初めて会った時に見せてくれた、あの吹雪の魔法を。今の君の憎悪が乗れば、きっともっと綺麗になる。この荒野全部を、一瞬で氷の世界に変えられるんじゃないかな?」


 挑発。ゼノンの最も触れられたくない記憶を、イビルは土足で踏み荒らし、弄ぶ。あの日の記憶が、鮮明に蘇る。家族を、友を、恋人を守るために放った、己が力の全てを込めた氷の嵐。だが、それはイビルの前では児戯に等しかった。彼の嗤う髑髏の前で、絶対零度の吹雪は呆気なく霧散し、後に残ったのは、燃え盛る故郷と、絶望に染まった自分だけ。


「黙れッ!!」


 絞り出した声は、ひび割れ、乾ききっていた。

 あの夜。イビルに全てを破壊され、瀕死の淵を彷徨った時から。彼はその力と、かつての自分を永遠に手放したのだ。目の前の男を殺す、ただそれだけを目的として。

 だが、その内心を知ってか知らずか、イビルはさらに言葉を続ける。


「つまらないなあ。せっかく君のために、お邪魔虫も全部片付けてきたっていうのに」


 イビルは、まるで昨日の夕食の献立でも語るかのような気軽さで言った。


「最近、教団のお人形さんたちが遊びに来てくれてね。なんだっけ、抑聖騎士団だっけ? みんな同じ剣、同じ盾、同じ鎧で、まるで操り人形みたいだった。つまらないから、すぐに飽きちゃったけど」


 抑聖騎士団。ゼノンの知らない言葉だった。だが、イビルの口から語られるその響きは、不吉な何かを予感させた。イビルは攻撃を避けながら、独り言のように続ける。


「でもね、一人だけ面白い子がいたんだ。九番隊の隊長だったかな? みんなが怖がって動けない中、一人だけ震えながらも向かってきた。あの瞳は良かったなあ。恐怖と使命感がないまぜになった、壊れかけのガラス細工みたいな瞳。気に入ったから、ちょっとだけ長く遊んであげたんだ。まあ、最後はただ泣き叫ぶだけになっちゃったけど。ああ、そうだ。君の話もしてあげたよ。そしたらもっと面白く壊れちゃった。残念だったなあ」


 ゼノンには、その言葉の意味が何一つ理解できなかった。目の前の少年は、自分と同じように勇者の紋章を持つ人間ではない。それは、人の形をした、人の感情を理解できない、全く別の何かだ。自分の想像を絶する領域で、ただ戯れに、人の尊厳を踏み躙り、その魂を砕くことを愉しむ、根源的な悪。


 理解など、する必要はない。

 ただ、殺す。この存在を、この世界から抹消する。それだけだ。

 ゼノンの殺意が、再びその濃度を増した。もはや彼の瞳に迷いはない。目の前の悪魔が何を語ろうと、それは風の音に等しい。ただ、心臓を穿ち、首を刎ね、その命が尽きるまで切り刻む。


 戦闘が、再び激化する。

 ゼノンはもはや、大振りの攻撃を捨てていた。最小限の動きで、急所だけを的確に狙う、洗練された斬撃。だが、その切っ先がイビルの体に届くことはない。肌を、服を、髪を掠めてはいくが、決して致命の一撃にはならない。まるで、イビルの周りに不可視の領域でも存在するかのように、全ての攻撃が寸前で威力を殺されている。

 イビルの体を狙った突きを、上体を逸らして避けた彼の足が、無造作に前へと蹴り出された。その狙いは、ゼノンの剣。

 ガキン、という甲高い金属音と共に、ゼノンの手から直剣が弾き飛ばされた。剣は宙を舞い、石畳に突き刺さる。ゼノンの体勢が、初めて大きく崩れた。

 その隙を、しかしイビルは突かなかった。彼はただ、数歩下がって距離を取ると、楽しそうな笑みを浮かべたまま、芝居がかった仕草で手を広げた。


「おっと、ごめんごめん。つい足が出ちゃった」


 無防備な、がら空きの胴体。だが、ゼノンは飛び込まなかった。武器を失い、体勢も崩れている。ここで無闇に突っ込んでも、反撃の餌食になるだけだ。彼は舌打ちを一つすると、大きく後方へ跳躍し、イビルと距離を取った。ぜえ、ぜえ、と肩で息をする。肺が灼けるように熱い。全身から汗が噴き出し、疲労が鉛のように体に纏わりつき始めていた。

 対するイビルは、息一つ乱していない。まるで、今まで軽く準備運動をしていただけだと言わんばかりの涼しい顔だった。

 力の差は、歴然。

 だが、ゼノンの瞳から闘志の炎が消えることはなかった。

 絶望など、しない。あの地獄を生き延びたあの日から、彼の心に絶望という感情が入り込む余地はなくなっていた。あるのはただ、冷たく燃え続ける、復讐の炎だけだ。

 直剣はもう使えない。だが、まだ手はある。


「休憩かい? いいよ、いくらでも待ってあげる。君が最高の憎悪を見せてくれるなら、僕はいくらだって」


 イビルの言葉を最後まで聞かず、ゼノンは動いた。外套の内側から、もう一つの得物を抜き放つ。

 それは、針のように細く、鋭い刺剣。銀色の刀身は夕陽を反射し、不吉な輝きを放つ。つい先程、『聖域』さえもすり抜け蹂躙した銀の針。

 これならば。物理的な距離も、防御も意味をなさず、避ける事すらも――。


「おおおおおっ!!」


 渾身の憎悪を込めて、ゼノンは刺剣を真っ直ぐに突き出した。狙いは、イビルの心臓、ただ一点。

 空間を超え、因果を捻じ曲げて、必殺の一撃がイビルの胸元に出現する。

 それは、絶対に避けられない一撃。


 だった、はずなのに。


 イビルの胸元に出現したはずの刺剣の切っ先が、彼の体に届く寸前で、停止していたのだ。

 イビルが、ゆっくりと持ち上げた右手。その人差し指と中指の、たった二本の指が、空間から現れた刺剣の切っ先を、まるで冗談のように、軽々と挟み止めていた。


「な――」


 押し込もうとしても微動だにせず。剣先をつまんだまま、興味深げに眺めていたイビルはやがて。


「……なるほど。空間転移系の能力か。面白いね、これ」


 感心したように呟くと、つまんでいた指に、ほんの少しだけ力を込めた。

 ガラスが砕けるような乾いた音が響く。

 必殺の凶刃だったはずの刺剣が、根本から粉々に砕け散った。銀色の破片が、夕陽を浴びてきらきらと輝きながら、風に舞って消えていく。

 手元に残ったのは、もはや武器としての意味をなさない、ただの柄だけだった。


「面白いおもちゃだったね?でも、もう壊れちゃった」


 イビルの口調から、初めて楽しげな響きが消えた。代わりに、期待していた玩具が思ったより早く壊れてしまったのを残念がるような、どこか物憂げな色が宿っている。


「じゃあ、今度は僕の番かな?」


 絶望的な言葉。だが、ゼノンの瞳は死んでいなかった。

 息を切らし、満身創痍に近くなりながらも、彼はまだ立っている。手の中の無用の柄を投げ捨て、籠手を両の拳に被せ。決して消えることのない殺意の炎を宿して、ゼノンは拳を振りかぶった。

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