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祝福に刻む爪痕  作者: 七曲七竈
滔天邪悪
13/13

13.邂逅

 黒煙が渦巻く空を、一つの影が引き裂いていく。

 魔導の粋と禁忌の術によって生み出された異形の翼が、混沌を増す城塞都市バルドの空気を力強く打ち据える。眼下では、決壊した北門から濁流のように魔物がなだれ込み、騎士たちの抵抗も虚しく、街は阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えつつあった。人々の悲鳴、魔物の咆哮、建物が崩れ落ちる轟音。それら全てが混じり合った終末の交響曲も、天を翔ける男――ゼノンの耳には届かない。


 彼の意識は、ただ一点に収斂されていた。北へ。あの男がいるであろう、北へ。

 憎悪が翼を動かし、殺意が推力となる。カトリーヌという女勇者から引きずり出した情報は、ゼノンの内なる氷原に、再び業火を燃え上がらせていた。


『足りない』


『もっと怖がってもらおうかな』


 ――あの地獄で聞いた声が、鼓膜の内側で蘇る。

 故郷を焼く炎。絶望を啜る笑み。何も変わっていない。奴は、今もあの日のまま、ただ遊戯の舞台を移しただけだ。このバルドの惨状も、全ては奴の愉悦のために。


「イビルッ!」


 猛る声は、風に掻き消され、誰の耳にも届かない。だが、その声に宿る烈火の如き憎悪は、ゼノンの全身を駆け巡り、飛行速度をさらに加速させた。左手の甲が、焼印のように疼く。爪痕の刻まれた紋章が、彼の殺意を吸い上げて熱を帯びていく。

 憎悪こそが力。復讐こそが祝福。その皮肉な真実が、灼けるような熱となって彼の全身を駆け巡った。


 眼下の景色が、凄まじい速度で後方へと流れていく。岩肌の荒涼とした山々を越え、深い緑に覆われた森を眼下に捉え、蛇行する川が銀色の帯となって過ぎ去っていく。歩いて進めば幾日もかかるであろう距離を、わずかな時間で通り過ぎていく。それでも、足りない。もっと速く。一刻も早く、あの男の喉笛に喰らいつかなければ。翼が軋み魔力が削れていくが、心を鞭打つ憎悪と焦燥は、それすらも無視してゼノンを北へと向かわせる。


 太陽が中天からわずかに西へ傾き始めた頃、ゼノンの視界の先に、古びた建造物の影が映った。

 それは、かつてこの地に築かれた砦の残骸だった。見渡す限りの荒野に、まるで巨大な獣の骸のように横たわっている。城壁の多くは崩れ落ち、かつての威容を偲ばせるものは、天に向かって突き出す数本の折れた塔だけだ。このような辺境の廃墟は、ゴブリンやオークといった、知性の低い魔物の格好の住処となるのが常だった。

 本来であれば、ここまでの距離があれば、微かであれ魔物の気配が感じられるはずだった。だが、ゼノンが感じるのはただの静寂。まるで生命活動そのものが、その一帯から綺麗に拭い去られてしまったかのような、不自然なまでの「無」だった。


 ――いる。


 ゼノンは直感した。この異様なまでの静寂こそが、あの男がここにいた何よりの証拠だと。彼は翼の角度を変え、一直線に廃城へと向けて降下を開始した。風を切り裂く音が、獣の咆哮のように彼の耳元で鳴り響く。


 廃城の上空で飛翔を止め、ゼノンはゆっくりと城の中庭だったであろう場所に着地した。土埃が舞い上がり、乾いた石と腐臭の混じった空気が鼻をつく。

 彼の予感は、確信へと変わっていた。

 異様だった。あまりにも、静かすぎる。風が崩れた壁の間を吹き抜ける音だけが、この死んだ城に響き渡っていた。本来ならば、縄張りを荒らしに来た侵入者に対し、無数の魔物が牙を剥いて襲いかかってくるはずの場所。それが、今はまるで墓所のような静寂に包まれている。


 ゼノンは腰の直剣に手をかけ、警戒を怠ることなく城の内部へと足を踏み入れた。

 かつて兵士たちの宿舎だったであろう建物に入る。中は薄暗く、埃が厚く積もっていたが、その床の上には、明らかに最近つけられたであろう生々しい痕跡が残されていた。

 血痕。

 壁に、床に、天井にまで。夥しい量の黒ずんだ血飛沫が、まるで抽象画のようにこびりついている。そして、その血の主であろう魔物の残骸が、無造作に転がっていた。

 一体のオークの死体は、胴体が上下に引き千切られ、内臓が床にぶちまけられていた。その断面は、刃物で斬られたような鋭利なものではない。まるで、途轍もない力で無理やり捻じ切られたかのようだ。別の場所では、数体のゴブリンが、一体の巨大な塊となって壁に叩きつけられていた。その体は互いにめり込み、もはや個体の判別すらつかない肉塊へと成り果てている。

 ただ純粋な悪意と愉悦のためだけに、一方的に力を振るった結果。今までゼノンが手に掛けてきた『勇者』達の行いとは比べる事が間違っている程、悪辣極まる痕跡だった。

 

 ゼノンは、死体の一つを無造作にブーツの先で転がした。その魔物の顔には、苦悶や怒りではなく、純粋な恐怖が張り付いていた。まるで、己の死そのものではなく、死に至るまでの過程で、筆舌に尽くしがたい何かを見せつけられたかのように。


 彼はさらに奥へと進む。大広間だったと思われる場所は、さらに凄惨な光景を呈していた。

 ここが、この砦に巣食っていた魔物たちの、最後の場所だったのだろう。広間の奥、唯一の出口である巨大な扉に向かって、無数の血の跡が引きずられたように続いていた。

 彼らは戦おうとしなかった。ただ、逃げようとしていたのだ。この城から、この場所に現れた招かれざる“何か”から、一目散に。

 だが、その試みは無惨に終わった。扉の前には、折り重なるようにして魔物たちの死体が山を築いていた。扉をこじ開けようと殺到した彼らを、背後から襲ったのだろう。その死に様は、どれも一様ではなかった。ある者は頭部を握り潰され、ある者は背中から胸まで大きく穴を空けられ、またある者は、恐怖のあまり心臓が破裂したかのように、七竅から血を流して絶命していた。


 脳裏に、炎と悲鳴がフラッシュバックする。ただ殺すのではない。恐怖で支配し、絶望の淵で魂が砕ける瞬間を愉しむ。そのやり口は、あの夜に見た悪魔の所業そのものだった。

 この廃城で起きたことは、バルドで起きていることの縮図。魔物たちを恐怖で支配し、一方へと追い立て、パニックを引き起こさせる。そうして生まれた混乱と恐怖の渦。それこそが、奴の狙い。


 怒りが、ゼノンの体の芯を灼く。だが、それと同時に、奇妙なほどの冷静さが彼の思考を支配していた。ついに見つけた。この先に、奴がいる。

 ゼノンは死体の山を乗り越え、固く閉ざされた巨大な扉に手をかけた。力を込めると、錆びついた蝶番が悲鳴のような軋みを上げて、扉がゆっくりと開いていく。

 扉の向こうに広がっていたのは、城壁へと続く石造りの通路だった。そして、その先に――。


 夕陽に染まり始めた空を背に、一人の少年が城壁の上に立っていた。

 風に揺れる黒い髪。どこにでもいるような、ごく普通の少年の姿。だが、その全身から放たれる存在感は、この世の理から逸脱した、異質な何かを感じさせた。

 まるで最初からゼノンの到着を知っていたかのように、少年がゆっくりとこちらを振り返る。驚きも、警戒もない。ただ、待ちわびた舞台の主役がようやく現れたのを喜ぶかのように。

その顔に浮かんでいたのは、穏やかで、人懐っこい笑み。虫の足をもぎ取って咲う、子供のような。

 そして、その右眼に宿るのは――嗤う髑髏の紋章。


 イビル・ジ・イーヴル。


 その姿を視認した瞬間、ゼノンの世界からそれ以外の全てが消え失せた。廃城も、夕陽も、風の音さえも。後に残ったのは、煮え滾る憎悪ただ一つ。

 眼前の男を。故郷の、皆の仇を。貴様を。

 その激情が導くままに、ゼノンは剣を抜いて斬り掛かった。

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