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祝福に刻む爪痕  作者: 七曲七竈
城塞都市
10/13

10.情報

 あの若い僧侶――ルインから得られる情報は何もない。ゼノンはそう判断すると、再び北へ向けて歩を進めた。

 広場から続く表通りは、先程にも増して混乱を極めていた。北門での戦闘が激化しているのだろう、後方へ運び込まれる負傷者の数が増え、人々の悲鳴がより一層大きく響き渡る。これ以上進めば、また誰かに足止めを食らうのは目に見えていた。目的の達成に無用な時間はかけたくない。

 ゼノンは人混みを避け、一本脇の裏通りへと足を踏み入れた。石畳はひび割れ、打ち捨てられた荷車が道を塞いでいる。この荒れた通りにも、人々の暮らしがあったのだろう。その痕跡だけが、まるで墓標のように残されていた。


 静寂が戻ったことで、北門から響く戦闘音は、かえってその輪郭を鮮明にした。断続的な爆発音、何かが巨大な力で破壊される轟音、そして、もはや人間のものとは思えない絶叫。この壁一枚隔てた向こう側で、まさしく地獄の釜の蓋が開いている。

 だが、その地獄はゼノンの目的地ではない。彼が求める地獄は、ただ一人の男――イビル・ジ・イーヴルがいる場所だ。

 

 裏路地を縫うように進む。時折、物陰から怯えたようにこちらを窺う住民の姿があったが、ゼノンが視線を向ける前に、彼らは蜘蛛の子を散らすように姿を消した。彼の纏う凍てついた空気が、常人には耐え難い恐怖を与えるらしい。好都合だった。

 不意に、ゼノンの足が止まる。

 すぐ先の曲がり角から、声が聞こえてきた。それは戦闘の音でも、避難民の悲鳴でもない。甲高く、他人を不快にさせることに何の躊躇いもない、尊大な女の笑い声だった。


「――本当に、下賤の民に情けをかけるだけ無駄ですわね。食料も、水も、暖かい毛布も、すべては女神に選ばれた、このわたくしのような高貴なる者にこそ相応しいのですもの。そう思うでしょう、ヘクター?」


 その声が聞こえてきたのは、古いレンガ造りの倉庫だった。堅牢な造りから、臨時の避難所として使われていたのだろう。だが、今はその重厚な扉が中途半端に開かれ、中から漏れ聞こえてくるのは、安堵の声ではなく、一方的な支配者の声だけだった。

 ゼノンは壁に身を寄せ、音もなく扉の隙間へと近づき、中の様子を窺った。

 そこには、彼がこれまで見てきた中でも、特に質の悪い光景が広がっていた。


 倉庫の壁際には、十数人の市民が身を寄せ合い、恐怖に震えている。老人、女、子供。いずれも戦う力のない弱者ばかりだ。そして、その彼らが持ち寄ったであろうなけなしの食料や物資が、倉庫の中央に無造作に山と積まれている。

 その略奪品の山の前。上等な革張りの椅子にふんぞり返り、まるで女王のように脚を組んでいる女がいた。豪奢な装飾の施された服。その深く開いた胸元には、空っぽの鳥かごを模した紋章が浮かび上がっている。手にはしなやかな革の鞭を弄び、その先端で物資の山をつつきながら、彼女は目の前の男に嘲るように語りかけていた。カトリーヌ・ザ・サンクチュアリ。その二つ名とは裏腹に、彼女の作る聖域に招かれるのは、彼女自身だけのようだった。


「まったくです、カトリーヌ様。あなたのその慧眼、そして一点の曇りもなき高潔さ。このヘクター、感服するほかありません」


 彼女の足元に恭しく跪いているのは、痩せこけた長身の男だった。その様は、忠実な騎士そのもの。だが、その瞳の奥には、狂信的な光がどろりと燻っている。彼が、カトリーヌの言葉に応じるように、隅で震える老人を侮蔑的に一瞥した。右の掌をゆっくりと開くと、そこには茨の冠を模した紋章が不気味に浮かび上がっている。ヘクター・ザ・マーター。彼の二つ名が示す殉教の対象は、女神ではなく、目の前の女なのだろう。

 二人の勇者は、弱者から全てを奪い、それを当然の権利として享受していた。その光景に、ゼノンの表情がわずかに、だが確かに険しくなった。

 それは、正義感ではない。目の前で繰り広げられる光景が、彼の記憶の底に眠る、最も忌まわしい記憶を呼び覚ますからだ。理不尽な力によって全てを奪われ、踏みにじられる弱者の姿。それを嘲笑い、愉しむ強者の姿。それは、故郷を滅ぼしたあの日のイビルの姿そのものだった。

 同類への、あるいは、その陳腐な模倣品への、純粋な生理的嫌悪。胃の腑の底から、冷たい何かがせり上がってくるような不快感が、ゼノンの内側を静かに満たしていく。


「それにしても、つまらない街ですわね」


 カトリーヌが、退屈そうにため息をついた。


「魔物は弱いし、騎士団は無能。これでは、このわたくしの紋章の力が錆びついてしまうわ。……そういえばヘクター。先ほど北門で、妙な小僧を見かけなかった?」


 その言葉に、ゼノンは無意識に意識を集中させる。


「ああ、あの男でございますか!」


 ヘクターが、主の言葉に待ってましたとばかりに頷いた。


「黒い髪に黒い瞳の、ひょろりとした…。あれも勇者なのでしょうが……カトリーヌ様のような圧倒的な気品も、神々しいまでの美しさも、ひとかけらも持ち合わせておりませんでしたな」


 黒髪、黒目。その特徴に、ゼノンの思考が鋭く反応した。

 カトリーヌは、その言葉に興味を引かれたようだった。彼女は椅子に座り直し、くすくすと喉を鳴らして笑う。


「ええ、そうよ。気味が悪かったわね。まるで汚泥のような目をして」


「まさに!よくぞ看破されました、カトリーヌ様!」


 ヘクターが、芝居がかった仕草で手を打った。


「そのような男が女神に選ばれるなど、何かの間違いに違いありません。カトリーヌ様こそが、真に祝福されし至高の存在!あの男など、あなたの足元にひれ伏す価値すらない、ただの虫けらでございます!」


「ふふん、当然のことよ」


 カトリーヌは満足げに鼻を鳴らすと、鞭の柄で自分の肩を軽く叩いた。


「その気味の悪い小僧、どうしたか知ってる? 騎士団の制止も聞かずに、たった一人で魔物の群れの中に突っ込んでいったのよ。馬鹿よねぇ、本物の」


 ――魔物の群れの中に、突っ込んでいった。


 その一言が、ゼノンの脳内で、点と点を結ぶ最後の線となった。

 数週間前、北の街道で目撃されたというアルガスの情報。

 この街に、その男が現れたというカトリーヌたちの証言。

 黒髪、黒目。物腰は柔らかいが、人間性が壊れている。

 そして、常軌を逸したその行動。

 間違いない。それは、ゼノンが追い求める唯一の存在。


 イビル・ジ・イーヴル。


 全身の血が、一瞬で沸騰するような錯覚。憎悪が、衝動が、彼の喉元までせり上がってくる。今すぐこの倉庫に踏み込み、目の前のくだらない二人組を八つ裂きにし、北門をこじ開けて、あの男を追いかけたい。

 だが、ゼノンは僅かに残った理性で、その衝動を抑え込んだ。

 まだだ。まだ情報が足りない。魔物の群れに突っ込んだとして、その先は? どの方向へ? 目的は何だ? 無駄足は踏めない。この二人から、イビルの足取りに関する、より詳細な情報を引きずり出す必要がある。

 その瞬間、カトリーヌとヘクターは、ゼノンの中で単なる不快な害虫から、利用価値のある「情報源」へと変わった。


「本当にどうかしてますわ。あれではまるで、自ら死に場所を探しているみたいじゃない。魔物にでも喰われて、腹の中で後悔していればいいのよ」


 カトリーヌが心底軽蔑したように吐き捨てた、その時だった。


「その男は何処に行った」


 倉庫に、第三者の声が響いた。

 低く、温度のない、地を這うような声。

 その声に、カトリーヌとヘクターは弾かれたように入り口に視線を向けた。いつからそこにいたのか。フードを目深にかぶった一人の男が、音もなく立っていた。逆光でその表情は窺えないが、その全身から放たれる異様なまでの圧が、倉庫内の空気を一瞬で凍てつかせた。

 隅で震えていた市民たちが、息を呑む。ヘクターは即座に立ち上がり、カトリーヌを守るようにその前に立ちはだかった。その狂信者の目に、明確な敵意が宿る。


「……何奴だ、貴様」


 ゼノンは、ヘクターの問いには答えなかった。ただ、一歩、また一歩と、ゆっくりと倉庫の中へと足を踏み入れる。その手は、腰に佩いた直剣の柄に、静かに添えられていた。

 彼の脳裏に浮かぶのは、ただ一人。故郷を、家族を、彼の全てを奪った、あの悪魔の顔だった。

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