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第六章 フォートナム魔術工房 4

「は、はい親方(マスター)!」

 間髪入れずにカーテンの向こうから男の声が答え、ややあって、声の主がカーテンを分けて姿を現した。


 見たところ二十七、八の、背の高い馬面の男である。

 不器量だが善良そうな、重い荷物を負わされた 気の弱い灰色ロバみたいな顔をしている。


 肘に継の当たった木綿のシャツと灰色っぽいベスト、毛羽立った黄土色のズボンという、この辺りではよく見る平職人らしい服装で、今まさに手を洗ったばかりなのか、濡れた掌をその粗末なズボンの脇に擦りつけている。


「お待たせしましたお客様。ええと――」

「ミス・テルマ・ディグビーよ」と、エレンは顎をあげて応えた。「今日はローレル荘の大奥様の御用で、あなたにお話を聞きに参りました。それにしてもーー」

 と、わざと思いっきり顔をしかめて鼻をうごめかせてやる。

「この工房、随分油臭いのね! これじゃあ息が詰まりますわ。ミスター・ウィルソン、ちょっと外へ出られません?」


「え、ええ?」と、トニー・ウィルソンが戸惑い、不意に水をひっかけられた馬車馬みたいな哀れっぽい目つきでフォートナム親方を見やった。

 親方が何かの器具を磨く手を止めないまま眉をあげる。

「いいぞ。行ってこい」

 そして、エレンを見あげて、ちょっと嫌な感じに厚い唇の端を持ち上げて笑いながら囁いた。「お嬢さん、よい狩りを」

 薄給の代理教師がそれなりに未来のありそうな若手職人を夫狩りの獲物に定めている――と、親方は理解したらしい。

 傍らのウィルソンが相変わらず戸惑い顔をしている。

 エレンはその顔を見あげて眉を吊り上げてやった。

「行きますわよミスター・ウィルソン!」

「は、はい!」

 ウィルソンは従順な番犬みたいに従いてきた。




 カランカラン、と入り口のベルを鳴らして外の通りへ出たところで、エレンはわざとヒールの先を石畳のあいだに突っ込んで前のめりに躓いてみせた。

「あ、大丈夫ですか?」

 と、ウィルソンが意外に機敏に右腕を差し出して支えてくれる。


 体がぐっと近づいた瞬間を逃さず、エレンは相手の身から漂う匂いを精緻に確かめた。


 若い職人は殆ど無臭に等しかった。

 工房内に漂っていたのと同じごく微かな金属臭とオリーブオイルの匂い、それに粗末だが清潔なシャツから漂う石鹸の匂いはするものの、本当にごく微かで、そのほかを――たとえばあの濃い薄荷めいた匂いなどを――かき消すことは到底できないだろう。



 --となると、とりあえずミスター・ウィルソンはシロね。



 少なくとも、この若い職人の本当の姿がアントニオ・リカルディだということはなさそうだ。


 エレンがそう結論付けたとき、

「あのう――」

 と、ウィルソンが気弱そうに訊ねてきた。


「そろそろ立てますか?」


「あ、ああすみません!」

 エレンは思わず素に戻って詫びると、辛抱強くずっと体を支えてくれていたウィルソンの意外に逞しい腕を放して、細すぎるピンヒールを石畳に突き立ててどうにか自立してバランスをとった。


「ありがとうございます、ミスター・ウィルソン。改めて、あなたにお訊きしたいことがあるのですけれど」

「何でしょう?」と、ウィルソンが不安そうに首をかしげる。

 エレンはさっと左右を見回してから、手招きをしてウィルソンをかがませ、耳元でヒソヒソと囁くように訊ねた。

「ミセス・リヴィングストンの結婚問題について、あなた、メイドのアンヌマリーから色々聞いているというのは本当?」

 そう訊ねた瞬間、ウィルソンの顔からさっと血の気が引いた。

 まるで恐怖に駆られているかのような表情だ。


 エレンは咄嗟に捜査官の心に戻って、急所に切りかかるように訊ねていた。

「本当なのね?」

「――ええ」

 ウィルソンがうつむいて答え、ややあって、顔をあげ、縋りつくような目つきでエレンを見つめてきた。

「しかし、信じてください。私は彼女の私的な問題を他人には決して口にしていません。ミセス・リヴィングストンにどうかそうお伝えを」

 そう言い募るウィルソンの口調は真摯だった。

 若手の職人にとっては、自分の過失でリヴィングストン家のような高名な顧客を失うことは相当の痛手なのかもしれない。

「分かりましたミスター・ウィルソン」と、エレンは働く者同士の共感をこめて頷いた。「大奥様には、大きな問題は何もなかったとお伝えしておきます」

「ありがとうございます!」

 ウィルソンは目に見えて安堵の表情を浮かべて応え、そのあとで目を逸らすと、小声で囁くように言った。「ミス・リヴィングストンには、どうかお幸せにと伝えてください。あの人は幸せになるべき人だ」


 その声を聞いた瞬間、エレンはハッとした。


 目の前の忍耐強い灰色ロバみたいな若い職人の声からは、聞くだけで哀しくなるほどの愛おしさが滲み出ているように思われたのだ。



 ――ミスター・ウィリソンはシビルを愛しているのね。彼が何者であろうと、その事実だけは間違いないわ。



「……ところでミスター・ウィルソン」

 工房へと足を向けながら、エレンは痛む虫歯を舌先でつつくみたいな慎重さで訊ねた。

「何でしょう?」

「こちらは魔術工房ですけれど、あなたも魔術師ですの?」

「あ、ええ」と、ウィルソンが事務的な笑顔で答える。「ミス・ディグビーのような――あ、いえ、あなたではなく、きっとあなたの御身内の、あの高名な令嬢諮問魔術師どのみたいに強力な術者ではありませんが、わたくしも魔術師の端くれです。この頃魔術師組合にも登録いたしましたよ」

「あら、そうなんですの!」と、エレンも義務的な笑顔を返した。

 そうしながらも脳内がどうしようもなく混乱していた。



 ――ええと、ミスター・ウィルソンが魔術師で、なおかつシビルを愛しているとしたら、彼はやはり本当はアントニオ・リカルディなのかしら? でも、彼が今《目晦ましの魔術》を用いていないことは間違いない。これは一体どういうことなの? 

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