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第四章 麝香婦人の帰還 1

「あなたは愚かしいとお思いかもしれませんけれど」と、シビルは《(しるべ)月長石(ムーンストーン)》のペンダントを再びドレスの前身頃のなかに隠しながら呟いた。「わたくしは彼を待っていたいのです。お父様やお祖母さまは、その態度は人生で引き受けるべき責務から逃げているだけだと言うのですけれど」

 シビルがうつむいてため息をつく。


 エレンは躊躇いながらも訊ねてみた。「――アントニオ・リカルディというのは、どのような方でしたの?」

「素敵な人よ。優しくて、少しはにかみ屋で」と、シビルが言葉を切り、しばらく考えこんでから、意を決したようにエレンを見あげてきた。「彼の顔を描いた素描(スケッチ)があるわ。ご覧になる?」

「ええ、喜んで」

 エレンは飛びつくように応えた。


 今回の事件がリヴィングストン姉妹の共謀した自作自演でないのなら、次なる可能性としては、やはり、この別荘に出入りする近しい関係者の誰かが《目晦ましの魔術》を用いているという線で捜していくのがいいだろう。

 そのためには、本来の顔や背格好を知れるのは願ったりかなったりだ。



 ――リカルディの魔力(グラマー)の特色があの薄荷(ミント)のような匂いというのは少し厄介ね。薄荷の匂いは誰から香ってもそんなに不自然ではないし、強い香水を常用されたらたぶん分からなくなってしまうもの……



 とりとめもなく考え事をしながら、どこかいそいそとした態度のシビルに導かれて、《絵画室》を一度出て、左隣に並んだ黒いドアの中へと導かれる。

「あなたのお部屋?」

「ええ」

 シビルの私室は全体にくすんだ薔薇色と灰色がかったグリーンを基調にした落ち着いた調度だった。

 右手に暖炉があり、左手に細い四本の柱で支えられた華奢な天蓋付きのベッドがある。

 ベッドの手前のドアの向こうが洗面所のようだ。窓辺に白いスツールがひとつと、部屋の真ん中にアッシュグリーンの肘掛椅子がひとつ。

 ベッドサイドに引出し付きの白い化粧机がある。


「どうぞお座りになって」

 シビルがエレンに肘掛椅子を勧めてから、ベッドサイドの机の引出しを開けて、黒い革表紙の古びた素描帳を取り出した。

「このペンダントももともとはこの引出しに入れていたのですけれど」と、シビルが独り言のように呟く。「この頃ずっと肌身離さず身に着けておりますの」

 呟きながら慣れた手つきで素描帳を開いて差し出してくる。

「このページですわ。どうぞご覧になって」

「ありがとう。拝見するわ」

 透き通った琥珀色の脆く薄いパラフィン紙をそっとはがして素描を目にするなり、エレンは強烈な既視感に襲われた。

 そこに描かれていたのは黒っぽい――白黒だけの素描だが、色の濃さからしておそらくは黒っぽい――巻き毛をリボンでひとつに束ねた、甘い感じに整った若そうな男の横顔だった。

 父親のアシュレがシビルの画力を「巧くもない」と腐していたが、さして画は得意ではないエレンの目には十分以上に巧みに見える。


 その、まさしく少女の憬れる夢の王子様そのものみたいな男の顔が、エレンの目にはものすごくとある知り合いとよく似て思われたのだ。



「どう? わたくしのアントニオよ」と、シビルが得意そうに言う。

「ええと――」

 エレンは反応に困った。

「この方が、八年前の、ミスター・リカルディなの?」

「ええ」と、シビルが力強く頷く。「ジキル・パークの四阿でこっそり二人で会ったときに描かせてもらったの。本当に素敵な人でしょう?」

「え、ええ。本当にとてもすてきね」

 エレンは下手糞な役者みたいな棒読みで答えた。



 ――ええと、この顔、あまりにもスタンレー卿そっくりじゃない……?



 スタンレー卿エドガー・キャルスメイン・ジュニアは、アルビオン&カレドニア連合王国でも指折りに富裕なコーダー伯爵家の嫡男で、エレンとは今年の春ごろにとある事件と関係して親しくなった仲だ。タメシス近郊の上層中産階級のあいだでは放蕩貴族として悪名高いが、実際の人柄は前評判よりはだいぶ良い。

 そして見た目は――当年三十一歳にならんとする今でも――間違いなく夢の貴公子(プリンス)だ。

 無自覚に面食いのエレンは、この貴公子の外見だけは大層大好きだった。



「アントニオはわたくしのために必ず一旗揚げると言って大陸へ戻っていったの」と、シビルが華奢な指を組み合わせて夢見る少女みたいに言う。「わたくしは彼を待つと決めているのよ。この先何があっても」

「そ、そうなの」

 エレンは今だ呆然と素描を見つめながら機械的に答えた。

 描かれた男は見ればみるほどエドガーと似ていた。


 八年前といえばエドガーは二十三歳。

 本人曰く、「とても頑張ってカトルフォード大学を首席で卒業したのに、パパにちっとも認めてもらえなくてちょっぴりぐれていた」時期だ。



 ――まさかあの方、係累のないロマニア人魔術師のふりをして、いたいけな十八歳のミス・リヴィングストンを弄んだんじゃ……



 魔力(グラマー)をもたない一般人がごく一時的に魔術師のふりをすることは――財力があれば不可能ではない。

 個人の身体に宿る魔力(グラマー)と等しい働きをする万物に宿る息吹(プネウマ)の結晶体である凝石(エレクタ)を使えば、ちょっとした魔術的な技を披露することはできるはずだ。コーダー伯爵家の嫡男なら当然財力はありあまるほどある。


 そして目の前のシビルの外見だ。


 シビル・リヴィングトンは、エレンのようにどこにいても人目を引く端正な美貌ではないにせよ、繊細な造りの小ぶりな顔や華奢な体つきが庇護欲をそそる可憐な外見をしている。

 有体にいって結構マザコン気味のエドガーの最愛の母親、レディ・アメリア・キャルスメインときわめて似たタイプだ。



 --あの方、絶対こういう小動物みたいなタイプ好きよ。


 そうと思った瞬間、エレンは激しい怒りを感じた――一体何に対して怒っているのか、自分でも全く分からなかったが。



「……ミス・エレン? どうなさったの?」

 表情の変化に気付いたのか、シビルが怯えたように訊ねてくる。


 そのおずおずとした表情にエレンがさらに苛立ったとき、不意に外から乱暴なほどの勢いでドアがノックされたかと思うと、よく響くアルトの声が呼ばわってきた。


「ミス・リヴィングストン! 大丈夫ですか!」


 途端、シビルの顔が主人を見つけた小型犬みたいに輝いた。

「――ミセス・ロングフェロー!」

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