第三章 二つの残留品 4
「そうしてお部屋が荒らされていた翌日、このお邸に脅迫状が届いたのですね?」
エレンが訪ねるなり、シビルはなだらかな眉をきっと吊り上げて首を横に振った。
「脅迫ではありませんわ。彼は事実を伝えてきただけ」
シビルの声は硬く強張っていた。
エレンは一瞬躊躇ってから、愛用のワインレッドの革表紙のノートに挟んでおいた便箋を引っ張り出した。
象牙色の上等の便箋を見るなり、シビルの目が大きく見開かれる。
「それは」
「現物ですわ。ミスター・リヴィングストンからお預かりしていますの」
「お父様があなたに?」
シビルが心底意外そうに言う。
《お父様》をこの世で一番賢く抗いがたい相手だと思っている従順な娘の顔だ。
エレンは一抹の得意さとともに頷いた。
「ミスター・リヴィングストンのお話では、この手紙は七月一日の月曜日、だれも気付かない間にこの《絵画室》のテーブルのうえに置かれていたのだそうですね?」
「え、ええ」
「そのテーブルとは、このテーブルでいいのですよね?」
「そうです」
「見つけたのはあなたご自身?」
「いいえ。ミセス・ロングフェローです。午後にホーン州からお帰りになって、新しく買っていらした絵具を棚に仕舞おうとこの部屋にいらしたら、このテーブルの上に便箋が広げておいてあったのだそうです」
シビルの目がエレンの手元の便箋をじっと見つめている。
その表情からは怯えよりも奇妙な熱意が感じられた。
エレンは相手の反応を逐一見定めながら、二つ折りにされた象牙色の便箋を机の上に開いた。
「こんな具合に?」
「ええ、たぶん」
紙面には、薄灰色の印字の切り抜きを貼って、たった一行だけの文が記されている。
《シビルは私のものだ》
「――この便箋は、こちらの別荘に常備してあるものと同じ品なのだそうですね?」
「ええ。聖ブリジット教会の境内の小間物屋で買えます」
「印字はどうやら新聞からの切り抜きのようです。わたくしが確かめた限りでは、この手紙には何ら魔術的な痕跡はありません」
「――でも、だれも出入りをしていない邸のなかにいつのまにか現れていたんですのよ?」と、シビルが縋りつくように訊ねてくる。「その現れ方自体が魔術的じゃありません?」
「ええ。もし外部から持ち込まれたのならね」
エレンは意味ありげに応えた。
途端、シビルの顔がぐしゃりと歪む。
「それじゃミス・エレン、あなたもわたくしが嘘をついていると? 新しい結婚の話を断りたいがために、アントニオからの手紙があったように見せかけていると御疑いですの?」
「――ええ。正直、その可能性が高いような気がしておりますわ」
エレンは率直に答え、細い眉根に縦皴を刻んで唇を震わせているシビルの顔を正面からのぞき込んだ。
「ねえミス・リヴィングストン、正直に打ち明けてくださらない? ――長女とアルマン人の亡命貴族との結婚は市長選ではプラスのイメージにはならないから、ミスター・リヴィングストンはロートボーゲン男爵からあなたへ求婚があったことは、聖ミカエル祭の市長選までは内密になさっているのよね?」
「ええ、そうよ。あと一週間の猶予だわ」
「あなたはそのあいだお母さまの喪中だからとロートボーゲン男爵とは一切お会いにならなかった」
「だって本当に喪中ですもの」
シビルが拗ねた子供みたいな口調で言う。
エレンはかまわずに続けた。
「思いますに、あなたは男爵が夏の社交シーズンのあいだに他の女性に心惹かれて求婚がうやむやになることを期待なさっていたのでは? でも、生憎なのか幸いなのか、彼は市長選を前にして、またしても内密にミスター・リヴィングストンに求婚の意思を伝えてきた。だから、あなたは再び七月の脅迫状――実はあなたご自身が拵えた手紙――にまだ怯えているふりをしている。そうではありませんの?」
畳みかけるように訊ねるなり沈黙が落ちた。
シビルが膝の上で白い手をきつく組み合わせている。
たっぷりと襞をとった黒いパフスリーブに包まれた肩のあたりがわずかに震えているようだ。
エレンは相手が泣き出したのかと思って、親密な姉さんみたいな仕草でその肩に手を置こうとした。
「ねえミス・リヴィングストン。初恋の方を思うあなたのお気持ちはわかりますわ。でもね、もう少し大人になって分別というものを――」
と、シビルが不意に顔を上げ、思いもかけず俊敏な仕草で、ぴしりとばかりにエレンの右手を振り払い、眉を吊り上げて睨み上げてきた。
「分からないわ! あなたにわたくしの気持ちは! あなたは女の方なのにまるでお父様みたい! わたくしのことを馬鹿で浅はかだと思っていらっしゃるんでしょう!?」
怒りに燃えるシビルの顔は意外なほど妹のエセルと似ていた。
エレンは狼狽した。
「そんな、ミス・リヴィングストン、わたくしそんなつもりはー―」
「あなたはどうせアントニオの存在そのものも疑っているのでしょう? 彼は存在しているわ! 間違いなく今もいる。ミス・エレン、これをご覧になってよ!」
シビルがやおらぴったりとした胴着の前身頃に並んだ細かな黒玉の釦を外すなり、溢れるようにはみ出した白いシュミーズの下から、細い銀の鎖に吊るされた乳白色の石のペンダントを引っ張り出した。
「それは――」
「アントニオから貰った品よ」と、シビルがペンダントを首から外してエレンに差し出してくる。
「ご覧になって。これにも魔術的な痕跡がない?」
右手の上に渡された石は淡く曇ったミルク色の月長石だった。
表面に細かなルーン文字が記されている。
「その石は月光を浴びると光を放つの」と、シビルが夢見るように言う。「アントニオが地上に生きているかぎり、彼のいる方角を指して光るの」
「《導の月長石》……ですわね」
エレンは呆然としながら応じ、殆ど無意識に、指先に自らの魔力を匂いの形で表出させて石へと注ぎこんだ。
途端、ミルク色の石から濃い薄荷のような匂いが放たれ、次いで、エレンの魔力の特色である月桂樹と似た爽やかな薫りがあふれ出した。
「これは――」と、シビルが目をぱちくりさせる。
「魔力の阻害反応ですわ」と、エレンは五感を研ぎ澄ませながら応えた。「この《石》に初めから籠められていた魔力が、後から注いだわたくしの魔力と反発して外へと押し出しているのです。――つまり、初めに放たれたあの薄荷のような匂いが、あなたのミスター・リカルディの魔力だということ」
「アントニオの?」と、シビルは嬉しそうな顔をした。